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『其の八』

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 その頃、問題の娜月姫なつきひめは、というと――、
「どうですか、姫さま。夏場とはいえ、寒くはありませんか?」
「大丈夫。気持ちいいですよ。二人も一緒に、入ったらどうですか?」
「そんな! 姫さまと同じ水に浸かるなんて、畏れ多い!」
「私たちのことは気にせず、ゆっくりと汗を流してくださいね」
 静かな森の中、さやかな水の音……分流の岩窪にできた水溜まりで、侍女代わりの女道士二人の介助を受けて、人目を忍び沐浴もくよくしていた。季節は朱夏しゅか、夕間暮れでも、まだまだ暑さは厳しい。澄んだ水は心地よく、娜月姫の心の憂さまで、洗い流してくれるようだった。
 舞姫・孔雀太夫くじゃくだゆうと歌姫・諱御前いみなごぜんは、薄絹一枚まとっているが、水に半身を浸す娜月姫だけは全裸である。顔の鬼面こそ相変わらず不気味だが、彼女の体は同性が見てもハッとするほど、くすみなく白く、シミひとつ、ホクロひとつなく、非の打ちどころがなかった。
 そんな娜月姫の髪をくしきながら、孔雀太夫が、うっとりとした眼差しで云った。
「それにしても……相変わらず、なんて美しい白肌。御髪おぐしも艶やかで、まるで絹糸のよう」
 それを聞き、諱御前が、すかさず孔雀太夫の脇腹を小突き、釘を刺した。
「ちょっと、孔雀太夫! あんた、また変な気を起こしてんじゃないでしょうね! 娜月さまは、その辺にいる普通の女とは、ちがうのよ! おかしな真似は、しないで頂戴!」
 実は、怜悧れいりで美しい顔立ちの孔雀大夫、女性にしか興味がないのだ。
「なによ、変な気って! 私はただ、思ったままを口にしただけで、姫さまのご寵愛を頂きたいとか、可愛がって差し上げたいとか、そんな風に考えているワケじゃあ、ないわ!」
「きゃあ! もう! 嫌だ! あんたって、本当に変な女よね!」
 一方、童顔で愛くるしい顔立ちの諱御前は、孔雀太夫を慌てて娜月姫から遠ざけた。
「それは、こっちのセリフよ! 男なんか、どこがいいの? しかも、よりによって獣廻ししまわしの文殊丸もんじゅまるなんかに、懸想けそうするなんて……もうちょっと、マシな相手がいるでしょうに!」
莫迦ばか、莫迦、莫迦! 誰が、あんなヤツ……なんとも思ってないわ! 姫さまの前で変なこと、云わないで! あんたこそ女のクセに女好きって、どうかしてるんじゃないの!」
 この二人の口喧嘩は、日常茶飯事である。娜月姫は苦笑し、二人の間に割り入った。
「二人とも、喧嘩はいけません。それより、見てごらんなさい。ほら、綺麗な魚」
 娜月姫が身を浸す水の中には、綺麗な七色の鱗を持つ魚が、何匹も泳いでいた。
「まぁ……珍しい、七宝魚しっぽうぎょだわ!」
「これ、凄く美味しいのよねぇ!」
 女道士二人は、興奮気味に水面をのぞきこみ、目を輝かせている。
「あら、食べるのですか? こんなに綺麗なのに?」
 娜月姫は驚いたような口調で、侍女二人の顔を仰ぎ見た。
 岩場に座る孔雀太夫は、ふと顔色をかげらせ、ため息まじりにつぶやいた。
ああ……姫さまは、肉も魚も、召し上がらないから、判りませんよね」
 諱御前は、娜月姫の背中を流しつつ、『また少し痩せたな』と感じ、心配そうに云った。
「でも、本当は食べて欲しいんですよ? 山菜や木の実ばかりでは、栄養がつきませんし、魚肉の美味しさを、少しでも知ってもらいたいのです。だって、勿体ないじゃないですか」
 娜月姫は、二人の心遣いに感激したものの、彼女なりの信念を持って、丁重に辞退した。
「ありがとう、孔雀太夫、諱御前。でもね、わらわは今の食生活に充分、満足していますよ? だって、この世の中、老若男女を問わず幼い子供まで、餓えて乾いて死んで逝く者たちが、どれほど多いことか……毎日三度、食べられるだけでも、幸せと思わなければ……ねぇ?」
 すると今度は、孔雀太夫と諱御前の方が、シュンと項垂うなだれ、悲嘆した。
「確かに、その通りですわ」
「飢え死にする者のことを考えたら……ああ! 昨夜の煮物! 残さず食べればよかった!」
 二人の、あまりの落胆ぶりに、娜月姫はハッとして、己の失言を反省した。
「いえ、あの……ごめんなさい。お説教染みたこと、云ってしまって。皆は毎日、肉体労働で疲れているのですから、きちんと食べてくださいね。わらわは、逃亡中のこんな身の上にもかかわらず、皆のお陰で、不自由なく過ごせているのです。とても感謝していますよ」
 深々ふかぶかと頭を下げる娜月姫に、孔雀太夫と諱御前は驚愕し、また哀憐の情も湧いて来た。
「娜月姫さま……そんな、畏れ多い!」
「おいたわしや……本来なら、劫初内ごうしょだいの御殿で、優雅に暮らして往けたはずなのに……斯様なところで、私どものような下賤の者の手で、水垢離みずごりをして頂くのさえ、心苦しいのに」
 深沈と泪ぐみ、肩を落とす二人に、娜月姫は唖然となって激昂した。
「なにを云うのです! 誰が下賤ですか! あなたたちは、わらわの大切な仲間! 他の十道士にも、まったく同じ気持ちで接していた心算つもりです! なのに……そんな悲しいこと」
 今度は、娜月姫の鬼面の目縁まぶちから、大粒の泪があふれ出した。それを見て、孔雀太夫は自責の念にさいなまれ、諱御前は彼女への畏敬の念を深めた。二人そろってこうべを垂れる。
「姫さま……申しわけありません」
「どうか、泣かないでください……さぁ、体が冷えます。そろそろ、上がりましょう」
 岩場に上がり、笑顔で手を差し伸べる孔雀太夫と諱御前へ、娜月姫は大きくうなずいた。
 ところが――、
「えぇ……きゃっ!」
「「どうしました、姫さま!!」」と、驚いて、再び水の中へ飛びこむ女道士二人。
 娜月姫は、恥ずかしそうに口ごもりながら、こんなことを訴えた。
「いえ、大丈夫です。その……七宝魚が、股下を通過したもので、驚いてしまって……」
 女主人のセリフを聞き、即座に二人は戦闘態勢に入った。
「ななっ! なんと破廉恥はれんちな、この魚め!」
「よくも姫さまに、恥をかかせてくれたな! 覚悟!」
 バシャバシャと派手な水飛沫みずしぶきを上げ、小刀で七宝魚を突き殺そうとする二人。まるで子供のように暴れ回る二人に、娜月姫はクスクスと苦笑しつつも、やんわりとたしなめた。
「二人とも、落ち着いて。相手は魚ですから」
「いいえ! 魚といえど、捨て置けません! 早速、捕らえて成敗せねば!」
「はい! おのれ、憎き魚め! どこへ逃げた! 串刺しにして、焼き殺してやる!」
 諱御前の言葉を受け、娜月姫は納得した様子で、ポンと手を叩いた。
ああ、なんだ。やはり、今宵の夕餉ゆうげにする心算だったのですね? わらわのことなど気にせず、そうならそうと云えばよかったのに。男衆も大層、喜ぶことでしょう。わらわも手伝いますよ」
 娜月姫の云ったことが、一瞬よく判らず、諱御前はキョトンと首をかしげたが……寸刻後、やっとその意味に気づき、明朗に笑い出した。孔雀太夫も、笑いを噛み殺している。
「え? ああ……いやだ! うふふふふ!」
「串刺しにして、焼き殺すって……まさに、そのものですね。あんた、上手いわ」
 巨木の影に隠れ、三人の話を盗み聞く雲嶺火うねびも、笑いをこらえるのに必死だった。
哈哈哈ハハハ、まったく……かしましい女どもだぜ〉
 手には空の水桶を持っている。座員に命じられ、水汲みに来た雲嶺火は偶然、ここで娜月姫たちの声を聞きつけ、どうすべきかしばし様子をうかがっていた。だが、彼は元より、水浴びをのぞき見ようなどという、いやらしい欲心は、微塵も持っていない。丁度いい水場があったので、ここにしようと思っただけだ。しかし女たちは当分、立ち去りそうもないので、雲嶺火はやむなく、さらに上流へさかのぼろうと考え、歩き出した。
 まさにその時である。
――ガサッ!
「なんでしょう、今の音」
「姫さま、そこを動かないでくださいね。諱御前、姫さまを頼んだわよ」
「ええ。あんたも、気をつけて」
 雲嶺火も一瞬、ドキッとしたが、物音を立てたのは彼でない。盗賊という職業柄、隠密行動や気配を消すのには長けている。孔雀太夫は、自慢の領巾ひれをしごき、反対側の茂みへ向かって往く。雲嶺火も木陰から、その方向へ目を凝らした。なにやら、嫌な予感がする。
 そうして、娜月姫と諱御前も緊迫したまま、十分ほどが経過した。
――と、そこへ、さらに追い打ちをかけて、娜月姫の悲鳴が響き渡った。
「きゃあぁぁあっ!」
 雲嶺火の立ち位置からは、娜月姫の姿は死角になって見えない。諱御前がついているとはいえ、やはり女である。雲嶺火は咄嗟とっさに、娜月姫の浸かる水場へ、飛び出してしまった。
「どうした!」
 飛び出してしまってから、雲嶺火は『しまった!』と後悔した。別にのぞいていたわけではないが、そう疑われても仕方がない。軽蔑されるかもしれない。それ以前に、怒り狂った諱御前が、雲嶺火をただでは置かないだろう。しかし、もう遅い。娜月姫と、目が合ってしまった。ところが、そこに裸で佇む娜月姫の反応は、思っても見ないものだった。
ああ、雲嶺火! 水汲み、ですか? でも、丁度よかった! 諱御前が、大変なことに!」
 瑞々しい裸体を、隠そうともせず、雲嶺火の元へ駆けて来て、こう訴えるのだ。
 雲嶺火は仰天すると同時に、娜月姫の裸体に見惚れ、陶然となった。そのまま言葉を失い、妙な間ができた。娜月姫は、さも不可解そうに、雲嶺火の紅潮した顔を見つめている。
 そんな鬼面姫の、一見すると醜悪だが、実は清廉な眼差しに見据えられ、ハタと我に返った雲嶺火は、なるべく鬼面以外は見ないよう心がけ、声を上ずらせながら問いかけた。
「……ど、どうしたってんだ?」
「足をすべらせて、転んだきり、呼びかけても気がつかないのです」
 娜月姫の指差す先には、仰向けで昏倒する諱御前の姿があった。
 こちらは薄着だが、ちゃんと服をまとっているので、雲嶺火は少し安心して近づいた。
 抱き起こし、水際から草むらへ移し、とくに頭部を重点的に、全体を見回す。後ろ頭に大きなコブができている以外は、怪我もなく、出血もしていない。呼吸も心音も正常だ。
「……なんだ、心配要らねぇよ。ちゃんと息はしてる。頭でも打って、気絶したんだろ」
 雲嶺火は安堵し、ななめ後方に佇む娜月姫へ、振り返ることなく、明るい調子で伝えた。
「本当に、本当に大丈夫ですか? 万一にも、打ちどころが悪くて、このまま……なんてことは、ありませんよね? とにかく、孔雀太夫を呼び、急いで天幕に戻らなければ……」
 心配性の娜月姫は、慌てて孔雀太夫を呼ぼうとしたが、それを雲嶺火にさえぎられた。
「いや、ちょ、ちょっと! それは、待ってくれ!」
 この状況で降魔道士ごうまどうしに見つかるのは、非常にまずい。けれど純真な娜月姫には、そうした彼の都合など、まるで判らない。今は諱御前の身を一心に案じ、声は震えてさえいる。
「何故です? だって、もしものことがあったら……」
「だ、だから! せめて俺が、この場を離れるまで、待って……」
 雲嶺火は、茂みの奥へ駆け出そうとした娜月姫の腕を、つい乱暴につかんでしまった。
「きゃあっ!」
「娜月!」
 その反動で、娜月姫も濡れて滑りやすくなった岩場で、足をもつれさせ、転倒しそうになった。それを雲嶺火が、急いで受け止める。結果、雲嶺火は裸の娜月姫と、まったく予期せず、抱き合う格好になった。やわらかな女体が、雲嶺火の腕の中で、わずかに震える。
 この時、雲嶺火は、思いがけない胸の高鳴りに、自分自身でも驚愕した。
 その、逸る鼓動を聞かれまいと、娜月姫の体をまた乱暴に引きはがす。娜月姫は娜月姫で、彼の衣服を濡らしてしまい、迷惑をかけたと勘ちがい……素直に謝る罪のなさだ。
ああ、ごめんなさい、雲嶺火……服が」
「いや、こっちこそ……悪かった。足、平気か?」
「えぇ、平気……いたっ!」
「やっぱり……変な風に、ひねったのが見えたから……ヤレヤレ、参ったな」
 雲嶺火は、内心に渦巻く欲情の焔を鎮めようと、あえて冷静を装い冗談めかして云った。
「取りあえず、姫さん。その……頼むから服を着てくれ。さっきから、目のやり場に窮してるんだ。俺も一応、男だし……だからさ。変な気でも起こされちゃあ、困るだろって話」
 ポリポリと赤毛の蓬髪頭ほうはつあたまをかき、視線を泳がせる雲嶺火だ。
 それでも、無垢な娜月姫には通じない。
「変な気とは、なんです?」
 雲嶺火は、思わず頭をかかえ、長嘆息ちょうたんそくした。妙な可笑しみも、こみ上げて来る。
哈哈ハハ、本当に参ったな……そこまで説明しなきゃあ、判らねぇのか。それとも、高家こうけ出身の御人ってなぁ、皆こうなのか? まぁ、いいや。あそこの樹にかかってるのが、あんたの襦裙じゅくんだろ? 取って来るから、ここに座っててくれ。それまで、汚れモンで悪いが俺のを着ててくれ。寒くなって来たし、欲情した下賤の盗賊に、押し倒されたくないだろ?」
 毛皮の背子はいしを押しつけられ、娜月姫もようやく、彼の云わんとすることが理解できた。
「え? あっ……はい。ありがとう、雲嶺火」
 多分、鬼面の下、娜月姫は、顔を真っ赤にしているのだろう。耳まで赤くなっている。
 うつむきながら、雲嶺火の背子で裸身をつつむ。その間、雲嶺火が彼女の襦裙を取りに、古木の元へ向かった。ところが、ここで事態は急転直下。恐るべき凶事に見舞われた。
――ザザザッ……ガサガサッ!
「姫さまぁっ! 逃げてくださぁいっ!」
『グオォオォォオオッ!』
 孔雀太夫の悲鳴と、耳をつんざく獣の雄叫びがかさなって、茂みの奥から飛び出して来たのだ。雲嶺火は、辛うじて獣の突貫攻撃を避け、身をひるがえして、娜月姫の前に立ちはだかった。そこに現れたのは、獰猛どうもう凶悪、巨大な雄の虎だった。しかも手負いである。
「雲嶺火!」
「姫さん! 俺の傍を、離れるなよ!」
 雲嶺火は、素早く迎撃態勢を整え、水場をはさんで、唸り声を発する虎を睨んだ。
 そこへ、少し遅れて孔雀太夫が、茂みから転げ出して来た。
「姫さま! 諱御前……ああっ!?」
 孔雀太夫は、半裸の娜月姫と、失神する諱御前……さらに、赤毛の盗賊首領の姿に震撼し、目を見開いた。彼女が、あらぬ勘ちがいをしたであろうことは、想像にかたくない。
「おのれっ……下賤の盗賊風情ふぜいが! 諱御前を殺害し、無防備な姫さまに狼藉を働くとは、不届き千万!」と、前方で唸る虎の存在など、まるで無視して、雲嶺火を恫喝する始末だ。
「孔雀太夫! ちがいます! それは誤解です!」
 娜月姫は、これまで見たこともないほど憤激する孔雀太夫の殺意におののき、必死で雲嶺火を弁護した。だが、殺意を向けられた当の雲嶺火は、虎の動きに目をみはらせ忠告する。
「莫迦! それどころじゃねぇだろ! 虎がそっちを見てるぞ! 気をつけろ!」
 そして、雲嶺火の懸念は、現実となった。
 虎は勢いよく地面を蹴り、孔雀太夫めがけて、飛びかかったのだ。
「孔雀太夫!」
 恐怖で凍りつく娜月姫。
 雲嶺火は、素早く己の朱影から断骨刀だんこつとうを召喚し、孔雀太夫を助けに向かった。
 しかし、孔雀太夫もさすがは【降魔十二道士】の一員である。雲嶺火が助勢するまでもなく、領巾を瞬時に硬化させ、虎の前足を斬り払った。どうやら、虎の後ろ足の傷も、彼女がつけたものらしい。そんな折も折、失神中だった諱御前が目を覚まし、起き上がった。
 丁度、虎と孔雀太夫の中間である。娜月姫は、またしても恐怖で息を呑んだ。
いたたた……なんの騒ぎよ」
「諱御前! 動かないで!」
「もう! 生きてるなら、それでいいけど……間が悪いったらないわね!」
「は? え? なっ!?」
 周囲の……というか、娜月姫を取り巻く状況に、ハッと目を見開き、案の定、諱御前も妙な勘ちがいをしたようだ。虎の存在になど、まるで気づかず、雲嶺火を恫喝する始末だ。
「どうして、お前がここにいるの! さては、姫さまに……不埒な真似を!」
 雲嶺火は頭痛すら覚え、軽く首を振ると、戦意あふれる鋭い眼光で、諱御前を叱責した。
「だから! 着眼点がちがんだよ! 後ろを見ろ!」
 雲嶺火の真剣な瞳と、孔雀太夫の強張った表情に、いぶかりつつ振り向いた諱御前は、ここでようやく、背後から迫る獰猛な獣の殺意に気づき、ゾクリと身震いして、悲鳴を上げた。
「きゃあぁぁあっ!」
 直後、猛然と飛びかかる虎。
 恐怖で動けない諱御前。
 慄然と凍りつく孔雀太夫。
 そして、声を限りに絶叫する娜月姫。
 彼女は、侍女を救わんと、己の身の危険も顧みず、駆け出そうとしていた。
 そんな娜月姫の肩をつかんで、後ろへ引き倒し、代わりに前へ出たのは、雲嶺火だ。
「二人とも、頭引っこめろぉぉおっ!」
 雲嶺火は、断骨刀をかまえなおすと、女たちに向けて叫んだ。
 そのまま、剛腕で振りかぶり、断骨刀を思いきり、虎が大きく開けた口へと投じる。
「「「ああっ!?」」」
 震撼のあまり、瞠目どうもくする女三人。
  雲嶺火の投じた断骨刀は、虎の口から後孔ごこうまで完全に刺し貫き、背後の巨木の幹に叩きつけたのだ。虎は躯幹を一直線に貫通され、巨木にはりつけられ、ヒクヒクと瀕死の状態である。
 なんとも、凄まじい光景だった。
 また、雲嶺火の気魄は、それ以上の凄味を孕んでいた。
「あの……巨大な虎を、一撃で……」と、真っ青になる孔雀太夫。
「なんて、男なの……信じられない」と、小刻みに震える諱御前。
「……」
 娜月姫だけが、なにも云わず、ただ黙然と立ちすくんでいた。
 雲嶺火が虎の傍により、断骨刀を乱暴に引き抜くと、巨木の幹が折れ、ドドオォォォンッ……と、物凄い轟音を立てて倒れた。雲嶺火は、血を振り払い、断骨刀を己の朱影に沈みこませると、暗鬱とした表情で、女たちを……娜月姫を振り返り、長嘆息した。
 これだけの鬼業きごうを見せつけてしまえば、大抵の人間は、雲嶺火を鬼か化け物のように思いこみ、おびえて近づかなくなるものだ。孔雀太夫と諱御前も、ご多聞にもれず……忌諱きいするような目つきで、雲嶺火を見つめていた。高貴な血筋の姫君ともなれば、尚更だろう。
 雲嶺火は、そう思い、あえて娜月姫と目を合わせないようにした。
 ところが……娜月姫の取った行動は、あまりにも予想外のものだった。
「雲嶺火……大丈夫ですか? わらわたちのためとはいえ、殺生を犯すのは、さぞやつらいことだったでしょう……この虎も、ただ日々のかてが欲しかっただけ……そう、お互いに間が悪かっただけなのです。だから、どうか気に病まず……この虎は、わらわが丁重に供養しますからね……それと、わらわの大切な仲間を守り、助けてくれて、ありがとう」
 雲嶺火は絶句した。鬼面姫の心は、あまりにも清らかすぎた。やがて息絶えた虎の前で、静かに合掌し、念仏を唱えている。自分たちを害そうとした獣のためにまで、思いを留めるとは……その上、あれだけの鬼業を見せても、娜月姫はまったく雲嶺火を恐れなかった。
 そんな娜月姫の真情に、感化されたのか、孔雀太夫と諱御前の態度にも、変化が見られた。
 雲嶺火の横まで来て、少しばかり照れ臭そうに、小声で「ありがとう」「助かったわ」と、礼まで述べたのだ。そして、虎の供養を続ける娜月姫の隣にひざまずき、一緒に念仏を唱え始めた。やはり、この鬼面姫には、不思議な力がそなわっている……人心を動かす、強烈な魅力が……今では逆に、雲嶺火の方が、娜月姫に畏敬の念をいだいていた。
「あんた……本当にすげぇ女だな。感服したよ……」
 と――その刹那だった。
「貴様ぁ! そこでなにをしている!」
 突然、木々の枝ぶりまで触れるほどの、怒気に満ちた大音声だいおんじょうを発したのは、遼玄りょうげんだった。
 他の座員……いや、道士たちも皆、一緒である。遠目にも目立つ雲嶺火の赤毛を見咎め、続々と湖水の周囲に集まって来たのだ。いまだ半裸の娜月姫をかばい、侍女二人が怒鳴る。
「嫌だ、ちょっと! 来ないでよ!」
「姫さまは、まだ水浴びの途中なのよ!」
 女たちの言葉を聞き、遼玄は思わず赤面。あとずさりしたが、引き下がったわけでない。
「あ、いや……それは、申しわけ……しかし、今、確かに奴の声が……」
 木々に隠れて、見通せない湖水の状況を察知せんと、さらに追及する。雲嶺火は、これ以上、ことを荒立て、娜月姫に迷惑をかけたくないとの思いから、自ら進んで手を挙げた。
「いるよ。今、そっちに往く」
 そう云って、娜月姫が止めるより早く、灌木かんぼくの茂みから飛び出した雲嶺火。
 彼を出迎えたのは無論、道士たちの激しい敵意と、憎悪の眼差しであった。
「「「舎利焼しゃりくべの雲嶺火!!」」」
「「「この、下賤な赤毛の盗賊め!!」」」
「「「よくも姫さまの水垢離を、のぞきおったな!!」」」
 茂みをかき分け、現れた雲嶺火を、たちまち完全包囲し、道士たちは銘々の武器で、今にも襲いかからんばかりの勢いだ。そんな道士たちの殺気に取り巻かれ、激しい恫喝を受けても、雲嶺火は平気の平左。まるで恐れず、たじろがず、のんびりと答えた。
「はいはい。云いわけはしません。確かに、しっかりとこの目で、見さしてもらいました」
 両手を挙げ、肩をすくめ、平然と云いきる雲嶺火に、遼玄は怒り心頭である。
「貴様っ……よくも、抜け抜けと……殺してやる!」
 すかさず『千剣柩せんけんひつぎ』を発動させ、背中の榧木箱かやきばこから、十数本もの白銀剣を噴出させた遼玄は、それを雲嶺火に差し向けようとした。茂みの奥、もれいずる刀身の光で、雲嶺火に迫る脅威に気づいた娜月姫は、いつになくキリリと怜悧な声音こわねで、降魔の筆頭道士をたしなめた。
「待ちなさい、遼玄! 早まっては、いけません!」
 尊崇する女主人の厳命により、遼玄の放った白銀剣は、すべて雲嶺火の目前で急停止した。
「姫さま!?」
 遼玄は、瞑目する雲嶺火と、茂みの奥とを交互に見比べ、どうすべきか迷っていた。
 他の道士たちも、武器をかまえたまま、固唾を呑み、状況を見きわめようとしていた。
 すると、すぐに娜月姫から、今度はいつもの穏やかな口調で、こんな言葉が告げられた。
「その前に、どうぞ、こちらへ来て……着替えは終わりましたから、遠慮は要りませんよ。そして、この状況を見てください。なにがあったか、説明しますから……雲嶺火も一緒に」
 遼玄は、やや間を置いたのち、白銀剣を榧木箱に戻し、ため息まじりにうなずいた。
「……わかりました。来い、雲嶺火」
「ヤレヤレ……」
 またも娜月姫のお陰で、九死に一生を得た雲嶺火は、こちらも凄絶な緊張から解放され、大きく息を吐いた。そして、虚脱しそうな体に喝を入れ、遼玄と道士たちの後に従った。


「……つまり、こういうことですか。姫さまたちが水垢離をしていたら、この虎が現れて、悲鳴を聞きつけた雲嶺火が、折よく助けに来てくれた……と。しかし、この広大な森の中で、よくも悲鳴を聞きつけられるほどの近距離に、都合よくいてくれたものだな、雲嶺火」
 寸刻後、水辺の現場で、状況説明を受けた遼玄は、いかにも胡散臭そうに雲嶺火を睨みつけ、強烈な当てこすりを云った。雲嶺火も雲嶺火で、相変わらずの憎まれ口を叩く。
「……あ? 嫌味か、それ?」
 遼玄は、当然だと云わんばかりに鼻を鳴らしている。
 無論、他の道士たちの眼差しも厳しい。
 娜月姫だけが、そんな男連中の不穏な空気に気づかず、にこやかな語調で云いそえた。
「ええ。お陰で助かりました。ねぇ、孔雀太夫。諱御前」
 ちなみに娜月姫は、まだ垂髪すいはつから水がしたたってはいるものの、侍女二人の手を借り、素早く元の襦裙を着付け、その侍女二人も、濡れた衣の上から衣裳をまとい、体裁を整えている。
「「はい、仰る通りです」」
 姫君に名を呼ばれた侍女二人も、それが事実であるだけに、やむなく雲嶺火をかばう次第となった。こちらも、実際のところは、かなり不満そうな面持ちではあったが……。
 遼玄は、そんな孔雀太夫と諱御前の様子も観察しつつ、娜月姫の手前もあって、憎き盗賊のかしらに、不承不承、折れざるを得なかった。一歩前に進み出て、雲嶺火と相対する。
「……相判り申した。姫さまだけでなく、道士二人までそう云うなら、まちがいないのでしょう。いずれにせよ、姫さまがご無事でなにより。雲嶺火……三人に代わり礼を云うぞ」
 深々と低頭する遼玄に、雲嶺火は少し面喰らったようだ。
「……あ、そりゃ、ご丁寧に……どうも」
 つい寸刻前は有無を云わさず殺そうとしておいて、今度は押しつけがましい謝辞。
 雲嶺火は内心、呆れ返りながら、やはり娜月姫の顔を立て、許すより他なかった。
 と、その途端、遼玄は何故か、ニヤリと口端をゆがめた。
「では、褒賞として……雲嶺火。この虎肉を、お前にも分けてやる」
 遼玄の思いがけないセリフに、驚いたのは雲嶺火でなく、娜月姫の方だった。
「え、まさかこの虎まで、食べるのですか?」
「無論です」と、遼玄は、きっぱり云いきる。
「生け捕りにしてくれりゃあ、俺が調教してやったんだがねぇ」
「こんな時に……余計なこと云うなよ、文殊丸」
 背後では、軽口を叩く文殊丸の脇腹を、水沫みなわが小突いているが、そんなやり取りなど意に介さず、遼玄は娜月姫に向かい、真摯な態度で虎の今後のあつかい方について、説明した。
「姫さま。生あるものは皆、食物連鎖で成り立っております。その頂点にいる我々人間が、食してやることこそ、虎にとっての、最大の供養になるのです。どうか、お許しください」
 雲嶺火に対する時より、よほど深々と、丁寧に、こうべを垂れる遼玄だった。
 娜月姫は、彼の云うことは尤もだと感じ入り、かえって自分の浅はかさを恥じた。
「頭を上げておくれ、遼玄。判りました……わらわはもう、なにも、咎めませんから……その代わり、無駄のないよう、大切に食してあげてくださいね。無論、雲嶺火たちにも、隔てなく分けてあげてくださいね」
 鬼面の下で、莞爾かんじと微笑んでいるであろう娜月姫の優しい心根に触れ、道士たちの殺伐とした気持ちは、たちまち浄化された。
 雲嶺火の心も、ほんわかとした温かさにつつまれた。
 恐ろしい鬼面に似合わず、やはり娜月姫……不思議な魅力を持った娘である。
「承知しました。骨も、毛皮も、あまさず使わせて頂きます」
 だが一方で……雲嶺火は、ふと遼玄の焼け爛れた悪相を見て、こうも思った。
 この遼玄という男には、人心を操る、巧妙な知略がそなわっているようだ。娜月姫とは、ちがう意味で凄い。なにせ、信心深い清廉な娜月姫をも、云いくるめてしまうのだから。
 雲嶺火は、妙に感心してしまった。そうこうする内、道士たちは次々と帰り支度を始め、
「それじゃあ、あとは頼んだぞ、雲嶺火」
 いよいよ口端をゆがめ、この時を待ってましたとばかりに、遼玄が云った。一瞬、わけが判らず、まごついた雲嶺火は、灌木を飛び越える遼玄の後ろ姿に、目を丸くしている。
「……へ?」
 最後に残されたのは、雲嶺火と巨大な虎の屍骸のみ。最早、他には誰もいない。安堵しきりの娜月姫も、侍女二人に促され、すでに茂みの向こうへ去っている。雲嶺火は唖然呆然である。 
 しこうして雲嶺火は、虎のずっしりと重い屍骸を、たった一人で肩に担ぐと、大汗をかきながら、【鬼籤座おにくじざ】の天幕まで、必死の形相で、帰らねばならなくなった。
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