青色のOverture

東雲 うさ子

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Moon

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「ぶえ……」
 これほど気分の悪い目覚め方を俺は知らない。暑さで寝返りを繰り返した結果、ベッドから床にうつ伏せの状態で落っこちたのだ。しかも口が半開きになっていたので絨毯の毛やらホコリやらが中へ入ってきた。
 これには寝起きで朦朧とした意識も、休みなんだからまだ寝たいなぁなんて怠惰も全て吹き飛んで目が覚めてしまう。
 俺はこんな嫌な感覚をこれ以上は味わっていたくはないのですぐに起き上がり、舌を口から出した間抜けな状態で洗面所へ向かった。
 到着するや真っ先に口の中を水で何度も何度もゆすいだ。なかなか嫌な感覚がなくならない。
 想像に難くないだろうが、俺はあまりまめに掃除をする方じゃない。月に一回、掃除機をかけていたらいい方ってくらいの人間だ。
 しかし、このできごとはそんな俺に近々部屋を綺麗にしようと考えさせる事態だった。なんと口からよく分からない虫の足のような物体が出てきたのだ。
「……うわ」
 自分の部屋ながらこれには流石に引いた。
 寝癖を直したり顔を洗ったりと軽く身だしなみを整えて掃き溜め……もとい、部屋に戻った。途中、壁にかけられたカレンダーを見て今日がどんな日か、記憶に誤りはないか確認した。
「……よし」
 間違いない。今日は土曜日で学校は休みだ。金曜日にバツ印が書かれている。
 実は以前、危うく無断欠席になるところだったことがある。勘違いの恐ろしさを実感して以来必ず朝起きたらカレンダーに印をつけて確認するようにしている。
 今日の日付にマジックでバツ印を書き込んだ。
 トースト、目玉焼き、ベーコン、サラダ、コーンスープ。まったくシンプルな朝食だ。
 さて今日も特にこれといった予定がない。午前中はいつものように図書館で涼もう。午後は空閑でも誘ってゲーセンあたりで暇を潰すかな。



 図書館が開くのは8時半、現在は7時40分。自転車で行くならちょうどいい時間だったので、俺はぼちぼち支度を始めた。
 俺は鞄にものを詰めていてふと思った。ただ寝るのもいいがどうせなら小説でも書こうかと。もしかしたら……そう、もしかするかも知れないからだ。
 標に貰ったあのノートも鞄に詰めて俺は自転車で図書館に向かった。



 暑い、暑すぎるぞ太陽め。こうも真面目に毎日毎日、休むことなく顔を出すことはないんだぜ?たまには雲に隠れたって誰も文句は言わないだろうさ。
 自転車を漕いでも受ける風は涼しくない。太陽とアスファルトから反射した熱によって温められた空気、むせ返るような熱風だった。頭のてっぺんからつま先まで冷気を感じるところは一切ない。サドルもハンドルもアツアツだ。
 やっとの思いで図書館に辿り着いた。自動ドアが開き館内へ踏み入ると冷気が俺を出迎えてくれた。はじめは気持ちいいが汗をかいた体にはすこし寒すぎる。
 俺はすぐにいつもの席へと向かおうと一歩踏み出したところだった。後ろでまた自動ドアが開いた。気になって振り向くとそこには見慣れない姿の見慣れた人物がいた。
「あ」
「おはよう」
 校外で知り合いに会うなんて思っていなかった。だが以前もここで標と会ったことがあるわけだし、俺が気づいていないだけなのだろうか。
「おはよう、月城」
 どうも月城は小説を書きに来たらしい。なんでも家は騒がしくて集中してゆっくり書いていられる状況ではないのだという。
 どんな環境なんだと思いつつ、これは俺にとってちょうど良かった。事情を説明して小説の書き方などについて教えてもらえることになった。やはり準備はしておくものだ。
 席につくやさっそく机にノートを広げ月城に見せた。俺のノートはタイトルと軽くあらすじが書いてあるだけで中身はまったくない。
 何回か挑戦したが何かが違う気がして消している。書いては消して書いては消して、そうして出来上がったのは残念ながら消しカスの山。確かに塵は積もったがゴミ山じゃあ役には立たない。
「始めっから分からないんだ。スタート位置を決めるのがこんなに難しいとは思わなかったよ。どう物語を始めればいいんだ?」
「それなら……」
 月城はいろんなアイデアを分かりやすく教えてくれた。俺はその内容ではなく普段は無口な月城が今はこんなにも饒舌なことに驚いた。
 ただ俺の質問に答えているだけでやはり必要なことしか話していないが、それでもこんなに長くたくさん話す月城は珍しかった。
 それに加えて何となくだが笑っているように見えないこともない。やんわりと小説が好きなんだろうなというのが、その口調や素振りから伝わってくる。
「じゃ、そのアイデア頂こう」
「うん」
 俺らはその後しばらく黙々と小説を書き進めた。でも俺の集中が持続する時間なんてのは高が知れていて、緩んだ口からすぐに無駄話が垂れてきた。
「なあ月城。家が騒がしくてって言ったけど、おまえのとこもしかして大家族なのか?」
「違う。でもあなたが四人は大家族と言うなら、そう」
「四人……じゃ兄弟がいるのか。上か、それとも下?」
「下」
「妹?」
「弟」
 普段の月城から弟が居るなんて分からなかった。兄弟、とくに下がいる人はだいたいそれらしい雰囲気を醸し出してると思ったが。例えば面倒見がいいとか、口うるさいところがあったりと。そうまるで標のような……。
 月城の弟君は小学二年生だと言う。家にいると遊んで構ってと月城の周りをついて歩いたり抱きついてきたりするそうだ。
 物静かな姉とわんぱくな弟。想像してみると案外それらしい気がする。弟君は外では人見知りのシャイな子だが姉の前でだけは元気になるんだろうな。なんだかそんな気がする。
「弟か、そりゃ絡まれて大変そうだな」
「うん。とても」
 口ではそう言っているが顔はすこし笑っている。きっと弟君が好きなんだろうな。
 それからまた俺は小説を書き始めた。ちょっと面白いアイデアも浮かんだところだし。



 俺はまた小説のことで行き詰まっていた。なにかこう、イベントがここらで発生してほしいが内容が思いつかない。月城に何かいいアイデアが無いか訊こうと顔を上げた。
「なあ、月しろ……あれ?」
 席に月城が居なかった。荷物がそのままなところを見るに、どうも帰ったというわけではなさそうだが。
 俺は周囲を見渡してあいつを探したが視界に入るところには居ない。何か本を探しに行ったかあるいはトイレか。どちらにせよ居ない人には訊くことはできない。
 しかしこう毎度毎度、行き詰まったところで月城に教えてもらっていてはそれは俺のではなく月城の作品になってしまいそうじゃないか。たまには自分で思いつかないとな。
「うーむ」
 とまあそう意気込んでやってみたはものの、さっきからずっと考えて出なかったアイデアがあらためて思いつくはずもなく、俺はやはり頭を抱えていた。
 ノートをペンで無意味にトントンと突く。物語は進まず、増えるのは文字ではなく点ばかりだった。
 不意に俺は誰かに見られている気がして後ろを振り返った。しかしそこには誰もいない。変に思いながらも態勢を戻す。
 いつの間にか正面の席に月城が戻ってきていた。
「どうかした?」
「あ、いや……。なあ、小説って大変だな。勉強より頭使ってる気がする。ほんと頭痛いよ」
 俺は大げさに頭を掻いたり机に伏したりと、あからさまに悩んでますよーというポーズをしてみせた。
「そう……ふっ」
 俺は聞き慣れないその声に驚き思わず月城を見つめてしまっていた。無口、無反応のこいつが小さいながらも声を出して笑ったのだ。
 ただそれが純粋な面白さからくる笑いだったか、嘲笑か、苦笑いだったかまでは分からない。
 とにかく助け舟は出してくれないらしいのは確かだった。
「なに?」
「おまえ、いま笑ったか?」
 俺の質問を聞いた瞬間、月城の表情が変わった。理由は分からないがかなり驚いていた。それからすぐに暗くなっていった。
「ごめんなさい……」
 小さな声で重々しく一言そう俺に謝った。
「え?あ、いや別に怒ってるわけじゃないけど。珍しかったから」
 こんなちょっとばかり暗い雰囲気だというのに、どうも俺の腹は空気が読めないらしい。生理現象だから堪えたりすることはできないのだが、いやしかしなんてタイミングなんだ。
 時計を確認するともう11時半だった。道理でお腹が減る訳だ。
「悪い。腹減ってな」
「なら、お店に来る?」
「店?」
 月城がどういう意味でそう言っているのか良く分からなかったが、行きつけの食事処にでも案内してくれるんだろうと思い俺は行くことにした。
 ささっと荷物をまとめて月城と図書館を出ていった。



 道中は特に会話はなく、ただ月城のあとを自転車を引いて歩いた。
 月城の色々と段階を無視した行動は今に始まったことじゃないので大して驚きは無い。それよりもいま気になるのはそんなこいつがどんな店に行くのかってところだ。洋食か和食、あるいは中華か。
 やがて商店街に入った。丼もの、麺、肉、魚。色んな店が色んな匂いを漂わせている。屋台の美味そうな料理の匂いが俺を誘っている。空腹状態でこの通りに来ちゃあいけない。お金がないのに何にでも手を出してしまいそうだ。
 料理を見ていたら食欲が抑えられそうになかったので俺は月城の後頭部だけをじっと見てある種の拷問のような時間を耐え凌いだ。
 そしてやっと月城はある小さな洋食料理店の前で立ち止まった。看板にはMoonと書かれている。なんだか無視できない名前が気がするが、そんなことより今は何か食べたくて仕方がなかった。
「ここ」
 扉を開けるとベルが鳴った。その音に気づいた店主が店の奥からのそのそと現れた。白い制服にエプロン、背の高い帽子とまさに絵に描いたようなコックだった。
「いらっしゃい!……って未来じゃないか。そっちから入ってくるから、お客さんが来たと思っちゃったよ」
「ただいま」
 店主の反応と月城の決定的一言によって俺はここがどこかすぐに分かった。やはりMoonっていうのはそういう意味か。
「この店、おまえの家なのか」
「うん」
「じゃあこの人は……」
「私の父、晴夫」
 すこしぽっちゃり気味の優しそうな親父さんだ。なんとなく名前と見た目がピッタリ合っている気がする。
「未来、彼は?」
「榊学。私の……」
 言葉に詰まった月城は俺の方に振り返って首を傾げた。俺はどうしてそこで止まっているのか理由がやんわりと伝わったので答えてやった。
「友達、でいいだろ」
 特に分かりやすく反応したわけじゃ無いが、俺がそう言ったあとどことなく笑ったか喜んだような顔をしていた。
 そんな俺らのやりとりを見て月城父は何を納得したのか、なるほどと言って何度も頷いた。
「そうかそうか、つまりボーイフレンドか!」
「違う!いや、男の友達って意味じゃそうかもしれないが、そんな別の意味に誤解されるような言い方するなよ!」
「わっはっはっは!まあそう照れるな照れるな!ともかく娘と仲良くしてやってくれよ!」
 そう豪快に笑いながら俺の肩をポンポンと叩いた。月城父は見た目通りのなんとともフレンドリーな人だった。
「お腹減ってないか?娘の友達のためだ、リクエストがあればなんだって作ってやるぞ!」
「じゃあ、オムライスで」
 本来であればここは一回断るのが礼儀なんだろうが、今の俺はそんなことより何よりも腹が減っているのだ。
「そうか、よし!未来はどうする?」
「私は、チーズインハンバーグ」
「うんうん、チーズインハンバーグとオムライスだな!どこでも好きな席に座ってすこし待ってなさい」
 店の奥、端っこのテーブル席に月城と向かい合って座った。料理を待つ間、ずっと月城とにらめっこというのは流石にできない。俺は店の中を観察した。
 店はさほど大きくなく、特に言うほど変わったところはない。ただ古い店なんだろう。床や壁は染み付いて落ちない汚れがちらほら目立つ。タバコを吸う常連でもいるのだろう、天井は煙で黄ばんでしまっている。店内に曲は流れておらず、響く音と言えば月城父の調理する音か調子の悪い換気扇、そしてラジオから流れる野球中継。一見すると落ち着かなそうだが、実はかなり落ち着くいい雰囲気のお店だ。
 俺らを除く他の客は5、6人とそう多くない。人気メニューなのかほとんどの人はナポリタンらしきものを食べている。
 別にさっき月城が頼んだチーズインハンバーグはイチオシのメニューって訳では無く、個人的に食べたいものだったようだ。
「どうかした?」
「人の好みにとやかくいう気はないが、おまえがチーズインハンバーグを頼むのが意外でな」
「変?」
「いやいやそうじゃない。ただあまりイメージに無くてな。じゃあ何を想像してたかって言われたら、そうだな……カレー」
「カレー……?」
「俺の中では無口でショートヘアのめがねっ子、しかもおまけに文芸部ときたらカレーが好きそうっていう勝手なイメージがあってな」
「そう」
「まあ、あまり気にしないでくれ」
 俺たちは料理ができるまでの間、雑談していた。店の名前のことだったり親父さんの話、学校のことやらなにやらと。
 話は大して盛り上がらなかった。まあ盛り上がる話題でも無かったといえばそうかもしれないが、なんだろう……それもなんだか月城らしかったように思える。
 月城父が出来上がった料理を運んできた。月城のチーズインハンバーグは鉄皿の上でジュージューといい音をたてていた。それを見ているとそっちにすれば良かったかもと思わされる。肉の焼ける音と匂いは存分に食欲を刺激する。
「それじゃあ熱いうちに召し上がれ!」
 ナイフでオムレツを切ると中から半熟状態の卵がチキンライスを覆い皿に広がった。俺はスプーンでそれらをバランスよくすくい上げる。
 ハンバーグはナイフを刺し込んだ瞬間から肉汁が溢れ出し更に中からはトロトロに溶けたチーズが流れ出した。月城は一口サイズに切ったハンバーグをソースとチーズを絡め満を持して口へ運ぶ。
 あまり表情が表に出ない月城もこの料理の前には思わず笑顔になっていた。
 俺らは黙々と料理を食べた。
 普段は少食な俺は最初この量を食べ切れるかどうか心配だったが、本当に美味しかったので案外ぺろりと食べれてしまった。
「いやー、うまかった。おまえの親父さん、料理うまいな」
「うん」
「これはしばらく通うことになりそうだ」
「そう、良かった」
 その後、だんだんと店が混み始めたので俺は邪魔にならないようにさっさと退散することにした。
「それじゃ、ごちそうさん。また学校でな」
「うん」
 さて今度ここに来るときは月城の弟、優希君に会えるだろうか。会えたら月城の普段の姿を聞いてみたいもんだな。
 そして次は俺もチーズインハンバーグを食べるぞ!
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