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第三十二章 心の交歓

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流れ出る清水を手で受けて、ケイはごくごくと喉を鳴らします。凍てつく冬の朝の神社は、すがすがしい空気で満たされています。
ケイにほとんど密着するように立っているシオリに、
「シオも飲んでみなよ。うまいよ。」
「うん。…冷たーい!」
それから二人で目を見合わせ、にっこり。
シオリの笑顔はまだ少しぎこちないのですが、出会った頃と比べるとずいぶん明るくなったものだと、ワクは思いました。
「さあ、お参りだ。行こう!」
ケイとシオリは、本殿まで駆けて行きます。
(やれやれ、仲のいいことで。爺さんは蚊帳の外か。)
今日は元旦。あれから、二年と少しが経ちました。外の世界など何も知らなかったシオリも、旅というものにだいぶ慣れてきました。ワクとケイは、常にシオリを中心に会話や行動をすることを心掛けてきました。最初のうち、自分が中心になることが落ち着かない様子であったシオリも、だんだんそれに慣れ、同時に相手を尊重した話し方や行動も、少しずつ自然に出来るようになってきているようでした。まずは自分を大切に思うこと。それが出来たら次は相手のことも大切に思うこと。それが人付き合いの極意ですが、それが上手に出来ないまま人生を送っている人も、世の中にはたくさんいます。シオリにはそういう人生を歩んでほしくありませんでした。シオリ自身の幸せのために。
ケイは、初めて会った時からシオリのことを憎からず思っているはありましたが、今やそれを隠そうともせず、シオリを見つめる瞳がキラキラ輝いています。息子の恋愛沙汰を目の当たりにしているようで、多少なりとも面映ゆい思いのワクです。

「今年一年が、良い年でありますように。」
二人が声を揃えて、手を合わせます。
それからケイは、
「オジキが今年も元気でいますように。」
と言って、悪戯いたずらっぽい目でワクを見ます。
「何だと、こら! また人を年寄り扱いしやがって!」
「だってもう六十五だよ。立派な老人じゃないか。」
「くそっ。」
シオリはくすくすと笑います。芯から可笑しそうでした。
いつかシオリが言っていたことがありました。ワクとケイを見ていると、親子って本当はこんなに楽しい、温かいものなんだ、と思う。自分は父親とも、ましてや母親とも、そんな会話をしたことがなかったので――。それを聞いてケイもワクも、これからはそれを嫌というほど経験させてやろうじゃないか、と思ったのでした。
シオリが人並みの自尊心を身に着けるのに、ケイの存在が大きな役割を果たしていることは確かでした。ケイはなにしろ、シオリを無条件に慈しみ、可愛がっているのですから。それはワクも同じでしたが、そこには、父親と恋人のような違いがありました。
そして、シオリが本当に自尊心を持てるようになるには、もう一つの要素が必要だろう、とワクは考えています。それは、人の役に立っていると感じることです。愛を与えらえるだけの存在から、与えもする存在へ。それが、人が完全に幸福になるための条件だと、ワクは思います。
(何かそんな機会に出会えるといいがな…。)

正月も明けて、世の中がまた日常に戻った頃。
ある大きな町に入りました。
しばらく町中を見回っていると、小さな子供たちがたくさん集まっている、大きめの建物がありました。
「何だろう。」
「学校?」
「にしては、小さい子ばかりだが。」
思わず窓から中を覗き込む三人。
窓の向こうでは、広めの部屋で、男女二名が子供たちの前に立ち、歌を歌っているようです。女性が歌い、男性が伴奏をしているようでした。何やら珍しい、弦をはじいて音を出す楽器です。
身振り手振りも交えて、笑顔をいっぱいに浮かべて。
子供たちは、やんややんやと声援を送っている子、一緒に口ずさんでいる子、大人しく座ってにこにこしながら聞いている子など、さまざまです。
「何だか楽しそうだな。ちょっと覗いてみるか。」
ワクの子供に懐かれる性質は、いつまでたっても変わりませんが、それは、ワクの方が子供好きだからでしょう。この時も、ケイやシオリを差し置いて、ワクが一番興味を示しました。
三人は、その教室のような部屋の、後ろの方の入り口から部屋へ入って行きました。静かに、邪魔にならないようにしながら。
女性は、五十代くらい。男性はおそらく二十代。二人はどんな関係でしょうか。顔つきが似ているので、親子かも知れません。
男女は、次々と何曲も歌います。賑やかな曲、少し落ち着いた、温かい感じの曲、悲しい気持ちがだんだん明るくなっていくような曲、見知らぬ遠い国のことを歌った曲など、様々です。それがいかにも楽しそうでした。子供たちを楽しませようとしている、というよりは、本人たちが楽しんでいる、という感じを受けました。ワクは、この二人の醸し出しているこの場の雰囲気に、引き込まれていくのを感じました。
「楽しそう。」
シオリも少なからず興味を引かれている様子。
そこへ、
「こんにちは。いらっしゃい。」
声をかけてきた女の人がいます。
「あ、すみません。面白そうなんで、ついつい勝手に入り込んじまって。」
「いいんですよ、皆さんそうやってよくいらっしゃいます。」
「ここは?」
「はい、親のいない子供たちをあずかって住まわせているんですの。私たち。」
「ほう。」
「亡くなったり、事情があって親御さんと引き離されたり、世の中にはそういう子たちが、意外と多いものでね。」
ケイが、口をきゅっと結んで大きくうなずいています。彼もまさにその口ですから。シオリもまた同様でした。二人とも、他人事ひとごととは思えないと感じているようです。
「私たち、とおっしゃると?」
「はい、私を含めて女ばかり三人で、この家をやっているんです。まあ、あの子たちにとっては、三人のお母さんですね。お父さんはいませんが。ほほほ。」
「へえ、そうなんですか。」
「あの人たちは?」
ケイが、前で歌を披露している二人を指しました。
「あの人たちは、協力者です。時々、子供たちが喜ぶような出し物や、そう…遊びや、おやつや、いろいろですが、披露してくれたり、持って来てくれたりする人がいるんですよ。私たちはそういう人を協力者と呼んでいます。」
「ほう。」
「この町にお住まいで、継続的に協力してくれている方も何人もいますし、それに――あの方たちもそうですが――旅の方も多いんですよ。旅の方って、何か人様に披露できるような芸を持ってらっしゃる方が多いんですのね。」
「そうかも知れねえな。」
「よろしかったらゆっくりして行ってください。ちょうどお正月が過ぎて、普通の生活に戻ったところですからね。子供たちも、お客様は大歓迎だと思いますわ。」
二人の歌の舞台は、だんだん子供たちとの境がなくなって、みんなで大合唱しているような状態になってきました。何人かの子供は、若者へ寄って行き、楽器を横から触り始めました。そして終いに、当の二人がいなくても、子供たちだけで盛り上がっている状態になりました。こんな終わり方もあるんだ。皆さんこれでおしまいです、さようなら、ではなく、さりげなく聴き手の間に溶け込んで行き、気づいたらいなくなっている。ワクはその気負わなさにも魅力を感じました。
二人は自然に子供たちの間をすり抜け、ワクたちの方へ近寄って来ました。ワクたちに、にこやかに小さく頭を下げてくる女性。目じりの垂れた目が、その柔らかい人柄を表しているようでした。ワクは非常に心惹かれて、女性に声をかけました。
「やあ、すばらしいですね。」
「あ、ありがとうございます。お恥ずかしいわ。」
「いやあ、良かった。」
「私たち、プロでも何でもないのに、ただ好きだからというだけで、子供たちに歌を聴いてもらって。お恥ずかしい。」
女性は、お恥かしい、を繰り返します。
「歌、とてもお上手です。楽器の伴奏も良かったですね。あの人は、ひょっとして息子さんですか?」
「ええ、そうです。母と息子の二人で旅をしているのですが。あの子は小さい頃から楽器が好きなもので。」
「へえー、大したもんだなあ。」
やがて、息子の方もワクたちのところへやって来ました。
「やあ、子供たち、この楽器を気に入ったみたいだ。こんなに人気があるなんて。…あ、どうも、こんにちは!」
人の好さそうな若者でした。ケイと同じくらいの年頃に見えます。
ワクとケイは気づいていませんでしたが、シオリはさっきから、部屋の隅の一点をじっと見つめていました。そこには、紙芝居道具らしきものが置いてありました。

ワクたちは母子とお互いを紹介し合いました。
「私はフミ、この子はヒビキと申します。」
「よろしく!」
「よろしく。ヒビキって、かっこいい名前だね。」
「ありがとう。母さんが音楽好きなもんで、僕にそんな名前を付けたんだよ。」
「そうなんだ。よろしくね、ヒビキ。君、いくつ?」
「今年二十六。」
「一緒だ。俺たち、同い年だよ。」
「へー、よろしく! それで、この母の歳は…。」
「これ、私の歳なんて言わなくていいのよ。もうお婆さんなんだから。」
「いや、お若いですよ。とても二十六の息子がいるとは思えねえ。」
ワクはをかけてみました。
「いやですよ、もうそろそろ還暦手前です。」
「なあんだ、まだまだ若いじゃねえか。わしは六十五ですよ。」
「いやだなぁ、どうしてみんなで年齢の告白大会やってるんだよ?」
「そうね、可笑しい。おほほほ。」
皆は笑いました。
シオリはその間中、一言も口を利いていません。
「わしはワクといいます。こいつらはケイとシオリ。」
「親子三人旅ですか。いいですね。」
「まあ、血の繋がった親子じゃねえが、そんなようなもんです。」
「そうなのね。お嬢さんは、おいくつ?」
「…に、二十一です。」
「まあ、ピチピチね。人生一番楽しい頃だわ。」
「ふふ。」
シオリは力なく笑いました。
子供たちが、そろそろ次の出し物を求めて、騒ぎ始めました。
「ねえ、おばちゃん、もう歌はないのー?」
「歌ってー!」
「踊りも踊って!」
「紙芝居がいいー!」
口々に好き勝手なことを言います。
「まあ、みんな、ありがとう。では、また歌うかしらね。」
「やったー!」
「せっかくなので、皆さんもご一緒しません?」
「え?」
ケイは戸惑っています。シオリは下を向きました。
「ご一緒させてもらえますか?」
ワクだけは乗り気です。
「ええ。ではご主人、ご一緒に。」
フミとワクが歌い、ヒビキが伴奏をします。
歌は誰もが知っている有名な童謡にしました。打合せも練習もなしでしたが、不思議と息が合いました。
一番をフミ、二番をワクが歌い、三番は二人でハモりました。ワクは、歌の合間に踊りも披露します。「メチャクチャ踊り」の、ちょっと上品版、といったところでした。子供たちは大喜び。中には、前に出て一緒に踊り出す子もいました。
ケイとシオリは、ワクの歌唱力に改めて感心していました。年齢のわりには声量も大したものです。が、
(張り切って、後で身体に堪えなきゃいいが…。)
ケイは若干心配でした。
「おじいちゃん、じょうずー!」
「きゃーおじいちゃん、かっこいいー!」
「こおら、誰がおじいちゃんだ!」
「あーははははー!」
ワクは、ほとんど白髪の頭を獅子舞のように振り振り、おどけて反応して見せます。まったく、ワクはいくつになってもお調子者ですね。
その間、ケイとシオリは何やらひそひそと話していました。と思ったら、部屋の隅に置いてあった紙芝居道具の方へ行きました。二人で、紙の裏に書かれた物語を読んでいます。ワクは、子供たちの前で浮かれ踊りながらも、シオリの方を、期待を込めた目でちらちらと見ていました。歌の合間にそっと二人のところへ行くと、
「やってみるか、シオ?」
「うん、俺も今誘っていたところなんだ。一緒にやろうって。」
「…。」
「心配ねえよ。自分がただ楽しめばいいんだ。そうしたら子供たちには絶対に伝わる。やってみると、楽しいもんだぞ。」
「…うん、やってみる。」
「よっしゃ!」
歌が終わったところで、
「次は、紙芝居をやるぞー!」
とワク。
「きゃー。」
と盛り上がる子供たち。
お話は、ちょっぴり悲しい童話でした。ここに置いてあるくらいですから、子供たちにとっては、何度も聞いたお話なのでしょうが、それでも子供たちは歓迎してくれました。
「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。」
ケイが最初の一文を読み上げると、ワクとフミが、おじいさんとおばあさんの素振りをし始めます。ワクたちのおどけた演技にも、子供たちは大喜び。脇で伴奏をしているヒビキは、いつの間にか楽器を別のものに持ち替えていました。悲しげな音色の、笛です。登場人物は、おじいさん、おばあさんと、その孫娘。物語の進行とおじいさん役は、ケイ。おばあさんと娘役はシオリです。
シオリは、最初のうち、緊張して声が小さく、台詞が聞き取りにくいところもありましたが、だんだん慣れてきて、堂々としてきました。物語の一番の見せ場、孫娘を亡くしたおばあさんが嘆き悲しむ場面では、その感情豊かな澄んだ声が、一同の心を揺さぶりました。
「えーん、えんえん…。」
「えーん、かわいそうー!」
一緒に泣き出す子もいます。
ワクもケイも、シオリの意外な一面に驚かされていました。
お話が終わると子供たちは、さっそく次のお話をおねだりしました。
「つぎー、もっとー!」
「こんどはー?」
やんややんや。
ケイとシオリは顔を見合わせます。
思いがけない反応に半ば照れながら、
「では、次、始めるよー!」
「わーい!」
次は、明るい、少々おどけた感じの物語。ここでもシオリの演技力は光りました。それは演技というよりは、台詞の言葉に心底から共感している、という感じでした。
(良かった。思い切ってやってみて、ほんと、良かったな。)
ワクは、涙の出るような気持ちで見ていました。相手を楽しませるには、まず自分が楽しむこと。自分と相手が自然にお互い楽しい気持ちになること。また、自分が何らかの形で相手の役に立っていると思えるときの幸福感。今、シオリは、身をもってそれを体験し、実感し始めているのでした。

その夜。
ワクたちはフミ母子と一緒に、食事に出かけました。
「今日の紙芝居は凄かったわ。シオリちゃん、あなた天才よ。」
「あれ? 俺は?」
「あなたは、まあまあね。」
「あちゃー、厳しい!」
「でも、本当よ、本当に良かったわ。どこかで演技か何か習ったことがあるの?」
「いいえ、何も。」
「そう。」
「でも、読み物を読むことは好きなんです、子供の頃から。」
「そう。」
「それで、大きくなってからは、読むのもいいけれど、自分で空想することもよくあって。」
シオリは、現実が辛いものだった分、空想の世界が大事だったのかもしれない、とワクは思いました。その空想の世界が、今後の人生の手助けになるのかもしれない、とも思いました。
それから話題は、名前のことになりました。
「やっぱりヒビキって、かっこいいよ。俺もそんな名前だったらよかったなぁ。」
「何言ってやがる。ケイだって良い名前じゃねえか。お前の両親が心を込めて付けた名前だぜ。」
「でも、意味が分かんない。」
「ケイってのはな、色んな意味があるんだぜ。敬愛の敬。恩恵の恵。経験の経。計画の計。継続の継。慧眼の慧。慶事の慶。軽快の軽。情景の景。そして、休憩の憩、これも大事だ。」
「そんなに欲張って。オヤジから聞いたのか?」
「いや。」
「じゃ、オジキの単なる推測じゃないか。」
「いや、俺には分かるよ。聞かなくったって、あいつの考えることくらい。」
ケイは黙って目で笑いました。
「僕はヒビキでまだ良かったよ。下手すると、スバルという名前になってたかも知んねえんだもの。」
「スバル?」
「私、夜空の星を見るのも趣味なんです。すばるっていうのは、星の名前ですわ。正確には星団ですけど。」
「星団。へえ、高尚な趣味をお持ちなんですね。」
「全然高尚なんかじゃありませんわ。ただ、夜、野原に寝そべって星を見るだけですもの。すばるって星団だから、たくさんの星が寄り集まるようにしているの。まるでたくさんの人が寄り添って助け合って生きている、この世の中みたい。でも、すばるって言っても、普通の人には何のことだか分かりませんわね。良かったわ、ヒビキの方にしておいて。」
「…ヒビキもたいがいだけどね。」
一同、軽く笑います。この親子も、言いたいことを気軽に言い合える仲のようで、なかなかいいな、とワクは好感を持ちました。
「変な名前と言えば、僕が今までで一番変わった名前だと思ったのは…。」
「思ったのは?」
「カガヤカヒコ。」
「か、カガヤ…何だって?」
「カガヤカヒコ。学校の同級生だったんだけど。」
「ふーん、何だか神話の神様みたいだね。気高い感じだ。」
シオリは横で、うっとりとしたような表情を浮かべています。
「でも、呼びにくい。おっす、カガヤカヒコ。おはよう、お弁当持って来たかい、カガヤカヒコ?」
一同、笑い。
「だから普段は、ガコと呼ばれてた。」
「そりゃまた、すごい縮め方だ。品格がガタ落ちだ!」
一同、また笑い。
「俺も、今まで変わった名前だと思ったのが、三つ、いや四つあるぞ。」
と、今度はワク。
「何? いえ、その前に、ワクだって結構珍しいですわよ。」
「はは。そうかい? でも、もっともっと変わっているんだぜ。」
「何?」
「ひとつは、ミイル。」
「珍しいね、確かに。」
「その地方では普通らしいんだが。もうひとつはエキボウ。」
「男性の名前?」
「ああ、男の子だった。…あと、ザクロベエ。この人には、会ったことはないんだがな。」
「ふ、風流ではあるわね…。」
「それと最後に、シゴロク。これは俺のもう一人の息子の名前だ。」
「し、シゴロク…。」
「本人が気に入ってなくて、自分でヒロという名前を使ってた。」
「息子さん、もう一人いらしたのですね。その方もやっぱり血は繋がっていない方なの?」
「ああ、そうなんだ。こいつの兄貴分なんだ。」
「ヒロにい、元気にしているかな。」
「そうだな。」
「いつか、例の手紙というやつ、やっぱり出してみようよ。」
「ああ。」
その夜は、フミたちの泊っている宿屋へ、ワクたちも泊まりました。ワクは、昼間に身体を激しく動かしたためか、疲れた様子で早々に寝床へ入りました。が、その寝顔には、今日は楽しかった、と書いてあるように、ケイには見えました。
ケイとシオリは何やら遅くまで、二人で小声で話をしていました。

次の日も、三人はフミたちと連れ立って、子供たちの施設へ向かいました。
三人の「お母さん」たちは、一行を歓迎してくれました。
「昨日、あの子たち、とっても楽しかったみたいで、中には夜になっても興奮状態で、なかなか寝付かれない子もいたんですのよ。」
「そりゃ、かえって迷惑だったかな。お母さんたちに余計なご苦労をかけちまって。」
「とんでもない。あんなに喜んでいるんですもの。毎日でも歓迎ですわ。」
ケイとシオリは、また別の物語の紙芝居をりました。今度はワクも、フミも参加しています。ヒビキは今日も伴奏担当です。
昨日に続き、今日も大いにウケた一行。去り際には一人の女の子が、泣きそうな顔でシオリに寄って来ました。
「もう行っちゃうのー?」
「うん…ごめんね。」
「おねーちゃん、ずっとここにいてー!」
「…。」
横から、お母さんの一人が女の子に言います。
「フウちゃん、お姉ちゃんはね、旅の途中なの。行かなければならないのよ。」
「ふーん、つまんなーい。」
女の子は泣きそうになります。戸惑った顔をしていたシオリは、顔を手で覆って肩を震わせました。ケイが優しく、その肩を抱きます。
「泣いちゃった! ごめんなさーい、おねーちゃん、ごめんなさい…。」
フウちゃんは、泣き出しました。
シオリは涙を拭きながら、
「ううん、違うの。お姉ちゃんはね、嬉しかったの。フウちゃんがそんなふうに言ってくれて。」
フウちゃんは黙って隣の部屋へ走って行きましたが、やがて戻ってきて、シオリに小さな紙を手渡しました。
「これあげる。」
「?」
二つ折りになっている紙を開いてみると、それは、押し花でした。小さな、橙色の秋桜。
「まあ、きれい!」
シオリは、紙を手に持ったまま、フウちゃんを抱き締めました。その拍子に、大事な押し花に少しだけしわが寄ってしまいましたが、ご愛敬です。
「ありがとう。これ、大事にするわ。」
「おねーちゃん、また遊びに来て!」
「…う、うん。」
「ふふふ。」
「ふふふ。」
ワクはシオリの様子に心を動かされていました。シオリが内面に持っている優しさが、子供には分かるのだ、とそう思いました。

「どうも、お邪魔しました。」
「とんでもない。本当にありがとうございました。もし、またこの辺りにいらっしゃることがあったら、ぜひ寄ってくださいね。」
「ありがとうございます。是非そうさせてもらいますよ。」
「おねーちゃん、バイバイ!」
「さようなら、フウちゃん。お元気でね。」
ワク一行とフミ母子は、一緒に施設を後にしました。
「フミさん、ヒビキ、これからどちらの方へ行かれるつもりで?」
「ええ、そうですね。どうしようかしら。」
「よろしければ、しばらくご一緒しませんか?」
「お、オジキ、そんないきなり…。フミさんたちにも都合ってものがあるだろう?」
「ほほほ。私たちは先のことを特に決めていないんです。行き先を決めずに、あんなふうに歌を歌わせてくれる場があればそこへ行くし、でも、それこそ例えば、この子にいい人が見つかったら、定住して落ち着いてもいいし。」
「何と自由な。では、是非。」
フミはヒビキの方を見ました。
「僕はいいよ。てか、母さんの好きなようにしなよ。」
フミはしばらく考えた後、
「そうね。では、とりあえず、ご一緒させていただきます。その後のことは、また考えますわ。おほほほ。」
「よし! よろしくお願いします!」
ケイは、ワクの嬉しそうな顔を見つめていました。ずっとケイやシオリの心配ばかりして、自分自身の楽しみを二の次にしているようなワクが、今日は自分のために嬉しそうにしている様子。そのことをケイは喜ばしく思いました。ただ、ワクの顔色が少し悪いことが気になりました。いつもより老けたように見えて、
(あれ、オジキ、こんなに年寄りだったかな?)
とケイは思いました。
(昨日、今日と頑張ったから、疲れたのかな…。)
近い将来、旅の生活が体力的に厳しくなる時が来るのかもしれない。その時は――。
前をワクとフミが並んで歩き、後ろにケイとシオリ、そしてヒビキが並んで歩いています。
ヒビキと何やら話していたシオリがケイに、
「…ねえ、ケイちゃん? そう思わない?」
「え? ああ。何?」
「おじちゃんとフミさん、お似合いだね、って、今、ヒビキさんと話していたの。」
それからシオリは怪訝な顔で、
「何だかぼーっとしてたみたい。何か心配ごと?」
「いや、別に。大したことではないんだ。」
ワクとフミの方からは、時々、楽しそうな笑い声が聞こえてきます。
まだ凍てつくような寒さの午後、白い息を吐きながら、ワクは久しぶりに心が躍るのを感じていました。フミの頬も、ほんのり赤くなっています。こちらは寒さのせいかも知れませんが。
山は、冷たい空気の中、凛としてその姿をくっきり見せています。また少し、山が近く、大きくなったようです。そして、相変わらずいつでも、ワクの気持ちを大きな懐に包み込んで共感してくれます。
(もう楽園に着く日もそう遠くないのかもしれないな…。)
何となくそんな気がしてくるワクでした。
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