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第二十章 失意の底で

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「ワークーさん! それワークーさん!」
やんやと囃し立てる声に応えて、
「よーし!」
ワクは酒を一口飲んでから勢いよく立ち上がり、上半身をはだけて、
「メチャクチャおどりー!」
を披露します。文字通りメチャクチャですから、踊るたびに振り付けが違うのですが、今晩のそれは、今までになく激しく、素頓狂すっとんきょうです。
わはははは!
大いに受けました。もっとも、周りは酔っ払いばかりです。誰が何をやっても爆笑するのです。
おどけた一礼をして腰を下ろしたワクが、上半身をはだけたまま、手酌で酒を流し込んでいると、若い衆が一人、酒をぎに来ました。
「ワクさん! まあ、一杯どうぞ。がせてください!」
相手も相当酔って、目がとろんとしています。
「やあ、ありがとう!」
ワクが猪口の一杯を飲み干すのを待って、
「いやあ、どうも! ワクさんには、色々教えてもらったっす!」
周囲がうるさいので、一言一言が叫び口調です。
「いや、お前よく頑張ったよな! 最後の頃は完全に一人前だったぜ。大したもんだ。」
「教える人が良かったからでさあ!」
ここは、村の公民館。今日は、秋の刈り入れの終了を祝っての大宴会です。
ワクは、訪れた村で、作業の人手が足りないと聞き、短期間ですが、手伝ったのです。農作業はもうこれまで数多あまたの農家で経験しています。ワクは、作業をしながら、自然と若い者たちに指導する役割も果たしました。専門の農業家ではありませんので、初心者の手ほどき程度でしたが、この村では経験者不足が進んでいるため、ワクは大変重宝されました。
「ほんとに、おかげで俺、農業でやっていく自信ができたっす。ワクさんのおかげだよ。」
「いや、俺はそんな。お前が頑張ったからだよ。」
この若者も、すぐにワクなど追い抜いて、いずれは立派な専門家になるのです。
村の長老的な老人に酒をぎに行くと、
「やあ、ワク、お疲れじゃったな。わしからもお礼を言わせてもらうぞ。」
そんな風に言われます。
「お前さんのおかげでやる気を出した奴が、今回、何人かおるでのう。」
「いやあ、俺の力じゃなくて、みんな素直で良いやつだからですよ。」
「どうじゃ、このままこの村で暮らすことを考えては。お前さんなら、すぐにこの村の農業の中心のひとりになれる。」
「…ええ、そうですね。分かりました! では、喜んでそうさせてもらいます。」
ワクは快く、長老の申し出を受け入れることにしました。この村に骨を埋めることになったのです。明日からは、農業に従事する、新しい人生が始まります。
そこでワクは、ふと思い出しました。
(しまった! そういえば、このことを母ちゃんに話してねえや。断りもなく、急にこんなに遠くの村まで来ちまって、もう二度と帰れねえ。今ごろ、晩飯の支度をして俺を待っているはずなのに。)
自分がヤエさんと一緒に暮らしている身であることを、忽然と思い出したワクは、とてつもなく大きな後悔の念と寂寥感に襲われました。
「ワク、ワク、帰ってきて…。」
そう訴えるヤエさんの隣に、夫らしき人物が立っています。が、それはよく見ると、ワクの父親でした。
「父ちゃん!」
そうか、自分は楽園にたどり着いて、父親を迎えに戻らないといけないのだった。しまった。もう手遅れだ。ただただ無性に悲しく、涙がとめどなく流れました。――
目覚めると、朝の眩しい光が目に飛び込んで来ました。涙で視界が歪んでいるのは、強い光のせいでしょうか、それとも夢の中で号泣していたせいでしょうか――。
宿の部屋の窓際で、布団も敷かずに眠っていたようです。昨夜の打ち上げでしたたかに酔った後、宿の部屋に戻って来たところまではうっすらと覚えていますが、きっとそのまま倒れるように眠り込んだのでしょう。
ワクは、横になったまま、しばらくぼんやりと夢の気分を反芻していました。
自分は山を目指す身。この村に定住するつもりはありません。現実には昨晩、あの時、長老に、
「やあ、ありがとうございます。そんな風に言ってもらって。」
などと、当たり障りのない返事をしたのでした。

ヤエさんの家を出てから、二年半ほどが経っています。ワクは、立ち寄る町や村でいろんな人と触れ合っています。立場や境遇、目標などはそれぞれ違いますが、みんな輝いています。少なくともワクにはそう見えます。それに比べ、自分はどうだろうか。ふとした瞬間に動作が止まり、考え込むことが多くなっています。
(俺の人生って、一体何なんだろうか…。)
ヤエさんにもらった杖は、しばしば使っていました。その先端には、ジロウの首輪と、コウサクにもらったお守りがついています。もちろん年齢的には、杖などまだ必要ではありません。が、険しい行程に立ち向かう時、心が折れそうになった時など、杖によって、精神的に支えられているような気がするのでした。
深い森をやっと抜けたと思ったら、目の前に切り立つ崖を発見した時。
(またまわり道、か…。)
しんしんと降り積もる雪を、一歩一歩ゆっくりと踏みしめながら歩く時。
(慌てるな、慌てるな。腐るんじゃないぞ。)
そんなときにも、杖を突いていれば、ヤエさんの声援を聴いているように感じられます。
(さあ、まだまだこれからだ!)
と、心が強く持てるのでした。

そんな中、ある町で。
ワクは茶店で、居合わせた他の客たちと世間話に興じています。
「あの、例の疫病、いよいよ流行はやってきたな。結構な人間がられているらしいぜ。」
「へー、そいつぁ怖いな。」
「気をつけなよ、特に、旅をしていると人にうつされるかもしれないから。」
「流行っているといえば、その髪飾り。それ今、人気らしいな。」
「そうよ、似合うでしょ。」
「俺も、かみさんにひとつ買ったぜい。」
「お、俺も買った方がいいのかな。」
「ま、夫婦の潤滑油としては、な。」
「そうだな。それでうまくいきゃ、安いもんだ。」
あははは!
行きずりの人たちの世間話に適当に加わりながら、ワクは通りを行き交う人たちを眺めます。皆がとても幸せそうに見えます。先を急ぐ様子の親子連れ。その先にはきっと暖かい家が待っているのでしょう。肩を寄せ合って歩く恋人同士。この世の幸せを独占しているかのように微笑み合っています。川端には、のんびりと釣り竿を垂れる人。何の悩みもなさそうです。
ワクにだって分かっています。もう若造ではないのですから。一見幸せそうに、呑気のんきに見える人だって、皆それなりに悩みや苦しみを抱えているのです。何も抱えていない人間なんていやしません。分かってはいますが…。
本当に山にたどり着けるのだろうか。その前に、山の向こうに楽園などあるのだろうか。もう何年も、旅を続けています。山は相変わらず遠くに見えていますが、その実態は分かりません。

次の町の茶店で。
午後、ワクは一人、温かい緑茶をすすっていました。もうそろそろ、夕方に向けて冷え込んでくる季節です。
(今晩の宿はどうしようか…。まだ日暮れまでには少し時間があるが、秋は日足が速いからなあ。毎日毎日、寝床の確保に頭を悩ますのも、もううんざりだな。)
と、そこへ、ふと耳に入ってきた会話。
「…ねー。旅人なんて、格好いい呼び方しても、結局は半端者だよねぇ。」
少し向こうに座っている女性客たちの会話です。
「そうよ、あちこち、ふらふらと歩き回ってるだけで、他人様ひとさまのために何か責任のある仕事をするでもないし。」
「で、都合のいいときだけ、泊めてくださいなんて言ってくるしね。図々しいったら、ね。」
「うちにもこの間、来たのよー。なんでも、どこぞの楽園を目指しています、とか言っちゃって。で、今夜泊めろって。こう、目つきがおかしいの。ずっと夢を見てるって感じ?」
「そうそう。遊び人というか、放浪者というか。まあ、まともな人種じゃないわね。泊めない方がいいわ。しかも今は、あの流行り病を持っているかもしれないから、余計にね。」
「当たり前よー。ていよく追い払ってやったわ。」
二人で声を上げて笑います。
ワクは思わず、二人の方を見やりました。会話の主の女性のひとりと目が合いました。
女性は、はっとしたように目をそらし、相手の女性の耳元に何やらひそひそと囁いています。相手の女性が一瞬こちらを見、最初の女性が慌てて注意しています。
明らかに、ワクのことを、その「旅人」だと認識した様子でした。
ワクは一瞬、何か言ってやろうかと思いましたが、思い直して素知らぬ振りをしました。握りこぶしに力が入ります。
長い旅生活で、そんな言われ方をしたのは初めてでした。ワクにとっては、旅人は尊敬の対象。オジジ、カアサをはじめ、かすみ荘に泊まった、山を目指している男性も、センタも――ザクロベエも含めてよいかは分かりませんが――みんな目標を持って一生懸命に生き、他人のためにも尽くしている、立派な人たちでした。真面目に生きている人たちに寄生する害虫のように言われては立つ瀬がありません。
(世間は広いからな。中には、そんな価値観の人もいるだろう。)
そう自分を納得させるようにしました。

その茶店の少し向こうに、ちょっとした広場がありました。子供向けの遊具なども置いてあり、母子連れが何組か遊んでいます。ワクはその雰囲気に惹かれ、ふらりとその広場に寄りました。
片隅の長椅子に腰掛け、さきほどのことなど考えてぼーっとしていると、ひとりの男の子が駆け寄ってきました。三歳くらいでしょうか。
「ちゃー。」
膝に乗ってきます。
「おじちゃ、あしょぼ!」
ワクは昔から、子供に懐かれる性質たちです。
「おー、坊主、元気だなー!」
と、子供を抱え上げ、頭を撫でようとしたとき。
母親が駆け寄ってきました。
「あ、どうもー。可愛い子で…。」
と言いかけているそばから――。
子供をさっと抱えて、足早に連れ去って行きます。ワクは、肩透かしを食った形。上げた手は行き場を失い、かけた言葉も虚しく地に落ちました。
その母親が、別の母親に告げている言葉が聞こえてきます。
「ああびっくりした! 良かった、何もされないうちに助けられて。気を付けないと、ああいう放浪者には何をされるか分からないからね。」
愕然とするワク。
放浪者。何をされるか分からない――。
思わず立ち上がりました。くだんの母親の怯えた顔が目に入ります。ワクは身体の向きを変え、その反対の出口の方へ足早に歩き去りました。背中に視線を感じ、振り返ることも出来ませんでした。

黄昏たそがれ時。
日が暮れて、世界がもう少しで闇に包まれてしまう、その直前。人の顔の判別も難しくなるから、「がれ」時。別名、逢魔おうまが時とも言います。
町の中心の通りから、小さな藪を隔ててすぐのところに、広い堀があります。ワクは先程からずっと、その堀の堤防の上に独り、座っています。ヤエさんの杖を両手で抱えて。
風はかなり冷たくなりました。もうそろそろ、今夜の宿を決めないといけません。が、ワクはじっと動きません。動くためのエネルギーが切れてしまったように。ずっと、堀の水面を見つめています。
自分のこれまでの人生は無駄だったのだろうか。
行く先々で色んな人と出会った。が、所詮は行きずり。出会っては別れ、出会っては別れを繰り返してきただけ。
いつになったら山へたどり着けるのか、未だに分からない。父親との約束はもう果たせない。仮に今すぐに山に着いたとしても、引き返して父親を迎えに帰る時間などありはしない。父親はヤエさんとほぼ同年代なのだから。
自分は何をやっているのか。
コハルにとっても、コマリにとっても、ヤエさんにとっても、自分は所詮、代用品。偽物。自分は何者でもない。
すべては失敗だったのか。そんな恐怖に苛まれ続けています。

暮れ行く世界。
水面を滑って吹き付ける風の冷たさ。
思わず身震いして襟を合わせながらも、そこを動けません。立ち上がる気力もなく、とうとうその場、草の上に、杖を抱えたまま横になりました。
体は少しずつ、少しずつ冷えて行きます。
すぐ背後にある大通りにも、人の往来が少なくなってくる時間帯です。本格的に、泊まる場所の工面をしなければなりません。
が。
コハル――。
コハル。コマリ。今頃どうしているだろうか。カイジさんと一緒に、楽しく食卓を囲んでいるだろうか。真っ当な人間同士。俺はやっぱり半端者。お前たちにふさわしい人間じゃなかったんだな。
カイ先生。今も周りのみんなを癒し続けているんだろうな。俺には真似できねえよ。
センタ。キミちゃんと幸せにやってるか。子供なんか、できたのかい。おばあさんはもう亡くなっているんだろうな。いや、でも、キウエモンさんのように長生きしているかもしんねえよな。
ユキ坊。もう立派な青年かな。俺はあれからもっと、「メチャクチャ踊り」が上手くなったぞ。見せてやりてえよ。
ナズナ。会いてえな。もうお母さんになっているかな。でも、俺にとっては永遠の憧れだ。
サブ。今ごろはもう、親父さんの跡を継いで、家長になっているのかなあ。お前は偉いよ。ひとつのところで、ひとつのことに打ち込んで。真っ当な生き方だ。
ミイル。アミ。もう夫婦になっているのかな。お前たちの活動は立派だ。誰が何と言ってもな。俺はそう思う。
エキボウも、元気かな。背もだいぶ伸びただろうな。
オジジ、カアサ。静かに穏やかに暮らしているかい。たまにはミイルの家族とも一緒に呑んだりしてな。
ギンジさん。奥さんとは順調かい。俺、あん時のあんたの気持ちが、最近もっとよく分かるようになったよ。
ヤエ母ちゃん。俺。俺、どうしたらいいか、分かんないよ。あのまま母ちゃんのところにずっと居たら良かったのかな。
ジロウ。無理やり連れ出してごめんよ。最後の最後にしんどい思いをさせて。でも俺はお前といられて楽しかったよ。ありがとう。
父ちゃん、ごめんよ。俺、約束が果たせねえ。いまだに山へたどり着けねえ。迎えにも行けねえ。それどころか、放浪者のように、こんな川沿いで草の上に寝っ転がっている。最低な野郎だ。とんだ親不孝息子だ。ごめんよ、父ちゃん、父ちゃん。

俺、帰りてえよ――。

一晩中、熟睡できないまま、かと言って、暖かい場所へ移ろうともせず、うつらうつらとし続けました。

長い長い夜の後に、堀の向こうの方が、うっすらと明るくなり始めました。朝陽が、みるみるうちに、周囲を暗闇からまた光溢れる世界に連れ戻しました。
ワクは明るい陽光の中、横たわったままぶるぶると震えていました。全身がだるい。悪寒がする。どうやら、熱を出したようです。無理もありません。冷たい川風に一晩中吹きさらされ続けたのですから。
明るい陽射しに安心したのか、いったん、眠るように意識を失いました。

「…ねえ、ねえ。」
「…。」
「ちょいと、あんた、しっかりおしよ!」
「あ…。」
呼びかける声に、意識を取り戻しました。目を開けると、頭上に、女性の顔。
身体が重い。熱いのに寒い。吐き気とめまい。
「立てるかい? 肩をかしてやるよ。ほら!」
ワクはふらふらしながら女性にしがみついて立ち上がります。症状は重いとはいえ、ただの風邪の症状です。ですがワクは、もう自分はここで死ぬんだな、と思っていました。
「どこのどなたか存じませんが。すまねえこって。ご迷惑をおかけして。葬式はいりませんので。」
「なに馬鹿なこと言っているの。このくらいで死ぬ人間なんざ、いやしないよ。ほら!」
ようやく立ち上がると、ワクは女性の肩を借り、なんとか歩き出しました。左手で杖をつきながら。何かしゃべろうとしましたが、もうこれ以上は、吐き気がして無理でした。
「すぐそこに医者の先生の診療所があるんだよ。そこまで何とか歩いてよ。あたしはか弱い女だから、あんたをおぶって行くなんてできやしないよ。」
ワクは半分意識を失いながら、女性の肩によりかかり、引かれるままに、かろうじて足を前に出し続けました。そこからは、ほとんど記憶がありません。ただ、知らない男性が自分の前に座り、何か喋っていたような気がします。

コハルが、台所で食事の支度をしています。ワクは隣に立って、何か手伝おうとします。が、久しぶりなので、あ・うんの呼吸というわけにはいきません。コハルは一人で淡々と料理を進めます。ワクには気づいてもいないかのように。ああ、そうではなく、だけでしょうか。そもそも、彼女は自分のことを覚えているのだろうか。顔を覗き込んで、俺だよ、俺、と言いかけると…。母ちゃん! それは、ヤエさんでした。よくこうして一緒にご飯の支度をしたねえ。遠い遠い昔にね。悲しみが胸を満たします。母ちゃん。ごめんよ。一人で淋しい思いをさせちまって。ワクはその場に倒れます。仰向けの状態で、涙が次々と溢れて止まらず、手足をばたつかせて子供のように泣きじゃくります。母ちゃんが上から心配そうにワクの顔を覗き込みます。もう駄目だ。なにもかも駄目だ――。

ヤエさんの顔は、徐々にある見知らぬ女性の顔に変わりました。意識がはっきりし始め、自分が夢を見ていたということを覚りました。頬が濡れています。ワクは布団に横になっていました。
「気が付いたかい?」
「…。」
女性はワクの額に手を当て、
「よかった。熱は下がったみたいだね。」
ワクはまだ節々の痛む身体を起こして、眩む目を瞬き、周囲を見回しました。
見たことのない部屋。民家ではなく、何かの施設でしょうか。
見たことのない女性。いや、どこかで会ったことがあるのだろうか。うっすらとそんな感じがしますが、思い出せません。気のせいでしょうか。
「ここは?」
「診療所さ。」
「診療所…。俺はどうしたんだ?」
「何も覚えてないのかい? あんた、あのお堀のきわで、熱出してぶっ倒れていたんだよ。」
「ああ…。」
お堀の堤防で寝ていたところまでは、かろうじて思い出しました。
「それでこの診療所へ来たのが昨日の朝で、それから今まで、丸一日ちょっと寝てたのさ。」
「あんたが、助けてくれたのかい?」
「まあ、助けるっていっても、ちょっと肩を貸しただけだけどね。あんた、自分でここまで歩いてきたんだよ。」
「…あんたは?」
「え?」
「いや。どこかで、俺、あんたに会ったことがあるかい?」
女性は、何かを含んだような薄笑いを浮かべて、何も答えず、そのまま部屋を出て行きました。
やがて、また入口の戸が開いて、医者らしき男性が入ってきました。
「やあ、気が付いたかね。」
「はい。すみません、先生、ご厄介をおかけしました。」
「いや、まあ、医者だからね。病人を診るのが仕事だから。」
「すんません。」
「朝っぱらから、女の人に抱えられて来たときには、ちょっと驚いたけどね。奥さんかね?」
「…いや。」
「じゃ、お姉さんかな?」
「い、いや。」
「?」
「分かんねえんです。」
「は?」
「…。」
「まあ、いいや。とにかく、ちょっと診察をするよ。立てるかね?」
「はい。」
「隣の診察室へ。」
医者は一通りワクを診察すると、
「まあ、ただの風邪だ。今流行っている、例の疫病ではないので、安心しなさい。」
「はい、ありがとうございます。」
「寒いところで身体を冷やしたんじゃないのかい?」
「ええ、まあ。昨晩ゆうべはちょっと、お堀沿いで…。」
昨晩ゆうべじゃなくて一昨日おとといの晩だよ、もう。はめを外して騒いで、そのまま寝たんだろう?」
「はあ。」
「いけないよ。そろそろ野宿は厳しい季節だ。そんな無茶は。」
「すいません。」
「自分の身体は自分で大切にしないと。」
「…。」
「粉薬を出しておくからね。」
そこで少し口調を変えて、
「君も――私もそうだが――一番頑張り時の年齢じゃないか。」
医者は、見たところワクより少し年上に見えます。
「家族のために一生懸命働いて、守っていかなきゃいかん年代だものな、お互い。頑張らないと。でもそのためには体が資本だからな。自分を大切にしなさい。な? 若い頃のような無茶は、だんだん利かなくなるぞ。」
「…。」
ワクは、やるせない気持ちに襲われました。
家族――。働いて家族を守る――。
自分には縁のない言葉。耳の痛い言葉。ひとつの場所に落ち着いて家族を持ち、医者という人助けの最たるような仕事をしっかりと続けているこの人と比べたら、自分はなんてお粗末な、半端な人間なのだろう。大切にする価値なんか、ありゃしない。
「まあ、ただの風邪だし、熱は下がったから、帰れるなら、家へ帰ってよろしい。」
「はい。」
(帰る家なんかねえよ。)
と、そこへ先ほどの女性が入ってきました。振り向いて女性の顔を見たとき、女性の顔に、先ほどの医者の言葉がなぜか重なりました。
自分を大切にしなさい。
あ――。
整った容姿。涼し気な目。自分を大切にしなさい。カアサが言った言葉。
「あん時の! あんた。あんた、カアサの姪っ子じゃねえか?」
女性は薄笑いでこちらを見つめます。
「思い出したのかい。」

女性の名前はシノと言いました。あの、カアサの生まれ故郷の近くの村で、カアサを訪ねてきていた姪っ子です。
今、ワクは女性と、診療所の近くの茶店で話をしています。
「あたしは一目見て、あんときの坊やじゃないかと分かったんだよ。」
「坊や…。」
「ちょっとあたし好みのいい男だからねえ。でも、あんたが思い出してくれるとは思わなかったよ。」
すぐに思い出せなくて当然です。あれから――そう、六年ほども経っている計算です。でもワクだって、あの時、ちょっといい女だと思ったのでした。だから、六年も経ってからの再会で、思い出せたのです。
二人はそれから、お互いの身の上を語り合いました。ワクはあれから、カアサたちと別れて一人旅をしていること。シノは、娼婦から足を洗って、今はやはり一人旅をしていること。特に目的地があるわけではなく、行く先々の人々との触れ合いを楽しみながら、なんとか暮らしているとのこと。
「ま、このくらいの年齢になったら娼婦をやっていくのは難しい、というのもあるし、もっと自分を大切にしなさい、とスミレ伯母さんにも言われていたし。」
「スミレ伯母さん?」
「ああ、伯母さんの本名だよ。あんたたちが、カアサン? とか呼んでいる。」
「カアサ。」
「そうそう、それ。」
カアサの本名を、今になって知ることになろうとは、夢にも思いませんでした。スミレ。カアサにぴったりの名前です。いえ、「カアサ」の次に似合う名前です。
シノはワクよりも五歳年上でした。娼婦は難しい、と自分では言いますが、なんのなんの、成熟した大人の女の魅力がぷんぷん、といった感じでした。
ワクとシノは、その日しばらく、一緒に歩きました。
「ふうん、それじゃあんたは、その「山」とやらを目指して、実家を出てからずっと旅をしているんだね?」
「ああ。」
「大した根気だね。あたしにはとてもできないよ。あたしゃ特に目的地も何もないしね。」
(いや、俺も決して大したもんじゃないけどな。)
シノはいくぶん斜に構えているところがありますが、そんなところもワクにとっては新鮮で、小気味よく感じられました。
「あたしはね、別にいつ死んでもいいと思っているのさ。あたしを大事に思ってくれてる人がいるわけじゃなし。せいぜい美味しいものを食べて、いい男と付き合って、それで突然お迎えが来れば、それが一番いいと思っているのさ。」
いい男と付き合って――。その言葉に、思わずドキンとするワクです。
夕方、今日の宿泊先を決める段になって、シノは言いました。
「よかったら、一緒に泊まるかい?」
「え!」
「やだねぇ、もちろん、別々の部屋でだよ。」
「え、ああ。そ、そうか、そうだな。」
ワクはしどろもどろ。
「嘘だよ。いいよ、一緒の部屋で。一緒に泊まろうか。」
「!」
最初に見つけた一軒の宿屋へ、二人は連れ立って入りました。ワクはずっと下を向いたままです。二人は一体どんな関係に見えるのでしょうか。姉さん女房の夫婦? それとも、姉と弟? それとも――娼婦とその客?

その夜、ワクは久しぶりに人肌の温もりを堪能しました。人とつながる悦び。相手とその悦びを共有しているという幸福感。
果てた後、ワクはシノに抱かれながら静かに泣きました。淋しかった…。自分はとても淋しかったのだと、今ようやく自覚していました。
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