1 / 2
侯爵令嬢の置き土産
しおりを挟む
「マリエ・ボールドン。おまえとの婚約は解消させてもらう」
ノーランダ王国の王城、その庭に呼び出されたマリエ・ボールドン侯爵令嬢は、呼び出した張本人である婚約者ドナルド王太子に開口一番そう宣言された。
政略で決められた婚約だ。だが、うまくやっていると思われている二人がこのようなことになった原因は、どうやら王太子の斜め後ろで大きな瞳をうるうるさせて「いぢめる? いぢめる?」といわんばかりの小動物感を醸し出している美少女にあるらしいことはマリエにも想像がついた。
「婚約――――解消、でございますか?」
「そうだ。私は真実の愛を見つけたのだ、自分の心に嘘はつけない」
真実の愛。
そもそも国王の決めた婚約だ、真実の愛とやらでそれを王太子の一存で覆せるものなのかどうかはなはだ怪しいが、王太子にそういわれてしまえばしがない侯爵令嬢に否やは言えないだろう。
「ドナルド様……! 私は」
マリエが両手で口のあたりを覆い、震える声を絞り出す。今まさに婚約者に捨てられようとしているのだ、ショックを受けて当然だろうとドナルドは目を伏せた。
「ああ、わかっている。マリエ、そなたが私と婚約してからこれまで、将来の王太子妃、ゆくゆくは王妃としての厳しい教育を受けさせられていたことも。その時間を無駄にしてしまうことは申し訳ないと思う。が、このままおまえと結婚しても私はおまえを愛せない。私が愛しているのはこのパトリシアだけだからだ。おまえは今までのことを忘れて新しく一歩を踏み出すと良い」
「ドナルド様」
一瞬マリエの手が持ち上がる。ドナルドの方へのばそうとしていたその手はしかし彼の袖をとることはない。たとえ何があろうとも王族に逆らうことなど出来はしないのだから。マリエの手はそのままマリエの胸の前でぎゅっと握りしめられる。それから彼女は何かを抑え込むように笑みを作り、ドナルドに告げた。
「わかりました――――殿下のおっしゃるとおりにいたします。ただ」
「ただ?」
「――――私は、忘れません」
忘れません。
そういってマリエは毅然と去って行った。ドナルドは少しだけ感慨深く、そしてほとんどはホッとしてそれを見送った。なにせ、マリエは侯爵令嬢でありながら素晴らしい剣の腕を持っているのだ。逆上して斬りかかってでも来られたら確実に軽傷では済まない。そう思って安堵の息を吐いたところにぎゅっと服の袖を握られた。ドナルドのトゥルーラブ、真実の愛のパトリシアだ。
「ドナルド様」
「怖かっただろう、パトリシア。だがこれでひとつ関門を通過したわけだ。私は必ずおまえを后にする」
「ありがとうございます……でも、怖いですね」
「心配するな。私がついている」
「だって、忘れませんなんて、ちょっと恨みがこもって聞こえたので」
「恐がりだな、パトリシアは」
そういってドナルドはパトリシアを抱き寄せた。確かにこのときはそう思っていたのだ。
だが、パトリシアが帰り、夜に自室でぼんやりとろうそくのあかりで照らし出された天井を眺めていたらだんだんとマリエの言葉が気になり始めてきた。
「考えすぎだ。忘れろ、私!」
ドナルドはごろりと寝返りを打ち頭からその考えを追い出そうと試みた。
けれど体験上、夜中に悪い考えを思いつくとそれがどんどん膨らんでしまうものだ。今のドナルドはまさにその状態だった。
「確かに王太子に婚約破棄されたなんて、マリエの経歴に傷がついてしまったんだろうか。あのときはこれが最善の策だと思っていた。きちんとマリエとの関係に区切りをつけ、その上でパトリシアを娶る。けじめをつける、これは常日頃からマリエにも怒られてきたことだからな。未来の王太子妃としての能力は折り紙付き、その上剣の腕もあり容姿も優れている。嫁ぎ先には困らないはずだ。私の判断は間違っていない!」
なのに、何だろうこの得体の知れない不安感は。マリエのちょっと気の強そうな目つきのせいか? それともあまりに引き際が潔すぎたせいか? 考えれば考えるほど不安な心が深くなっていくようでドナルドは二度三度と寝返りを打った。
――――待てよ、私たちは政略結婚の婚約者同士だったから、私はマリエの気持ちを聞いたことはなかった。もしも実はマリエが私を愛していたとしたら――――?
そういえば先日悪友ギュンターに勧められて読んだ東方の国の小説。ふとそれを思い出した。
男に裏切られた女が夜ごとに神殿へ人知れず出向き、ご神木に恨みを込めて男を模した人形を釘で打ち付けるのだ。男はその呪いでみるみる衰弱して――――という話だった。
「いやいやいや、創作! 創作だから!」
まさかマリエに限ってそんな回りくどい手を使うとは思えない。が、もし彼女が自分を心から慕っていたとしたら……嫉妬というものは視野を極端に狭め、判断力を著しく低下させるものだ。そんな突飛もない行動にマリエを駆り立てても不思議じゃない。
「まさか……まさか、マリエ」
どうどうめぐりの思考はぐるぐると螺旋を描きながらどんどん深みにはまっていく。
気がついたときには外が白白と明るくなり始めていた。
すっかり日が高く昇り、城に勤める者たちが次々と登城してくる。結局一睡もできなかったドナルドは柱の陰に隠れその様子を見ていたが、お目当ての人物をみつけてその襟首をひっつかみ、空いている部屋に引きずり込んだ。
「おいギュンター」
こそこそ小さな声で呼びかけた。万が一にも他の人物には聞かれたくない。ギュンターはドナルドを認めると落ち着き払った声で返した。
「おはようございますドナルド殿下。何ですか朝っぱらから」
いち文官と王太子という身分差があっても、二人は昔からの悪友だ。人目のないところでは慣れ親しんだ友人同士の口調になるのだが、この日のギュンターは人前モードのままだ。だが、テンパっているドナルドはそんなことすら気がつかない。
「ギュンター! 正直に答えてくれ! 私が聞ける義理じゃないのは百も承知だが――――マリエは、お前の妹はどんな様子だ」
ドナルドの悪友にしてマリエの兄ギュンターは途端に冷たい視線をドナルドに向けた。
「確かに聞ける義理じゃないよなあ」
「そこを何とか」
「いいかドナルド」
ギュンターがぎろりとにらみつける。なまじっか美しいと有名な顔立ちなので、凄まれると何というか……迫力がありすぎる。
「おまえは俺の大事な大事な妹を振ったんだ。そこは理解しているのか」
「してるしてる」
「軽いな! いいか、耳の穴かっぽじってよく聞け。マリエはな、昨日の夜こっそり一人で屋敷を抜け出した」
「――――えっ」
途端にぶわっとあの小説の場面が頭に浮かぶ。男に捨てられた女は一人真っ暗な道を進み、呪いの人形をご神木に夜な夜な打ち付けるのだ。この呪いは、釘を打っているところを他人に見られると効果が無い。だから侯爵家の令嬢だというのに夜更けにたった一人で出かけたのだろうか。
――――どんどん怖い考えになってきてしまった。
「や、やっぱり私を恨んで丑の刻参りを」
「おまえ人の妹をなんだと思ってるんだ」
マリエはそんなことする奴じゃない、とギュンターが憤慨した様子で詰め寄ってきた。さすがにドナルドもそこで頭が冷える。
「すまない、そうだよな。マリエはそんなことはしない……な」
ドナルドはマリエのことを思い出す。
きつめの顔の美人だが、中身は結構天然。剣の腕は素晴らしく、侯爵令嬢でなければ騎士団にスカウトしただろう。剣筋と同じく、曲がったことが嫌いな、気持ちいいほどまっすぐな女性なのだ、マリエは。
「だが、夜中に出かけてしまったものをギュンターは追いかけなかったのか」
「ああ、まあ、行き先はわかってるからな」
ご神木か。
いや、いまそれは否定したところだった。のろいから離れよう。
「ドナルド、もうマリエに構うな。あいつの心配をする必要はもうないだろう」
「――――必要、というか、俺はもうその権利もないのだな」
自嘲気味にそう笑ってドナルドはその場から離れた。
だがやはり「忘れません」という言葉は頭から離れない。執務室に戻って書類仕事をしていても頭のどこかにそれがこびりついてしまっていた。
――――ひょっとして私ではなくパトリシアに危害を……?
――――いや、そんなふうに疑ってはいけない。
――――けれどもし彼女に危害が及べば私が絶望の淵に立つことは容易に想像できるだろう。
「こうしちゃいられない」
ドナルドは椅子から勢いよく立ち上がり執務室から飛び出そうとした。
「殿下! どちらへ」
ドナルドの秘書ニルスが慌てて後を追いかけてくる。ドナルドは足を止めることなく答えた。
「パトリシアのところだ! 無事を確認しなければ気が済まない」
「お待ち下さい、まだ仕事がわんさと」
「ニルス、おまえがなんとかしておけ」
「無茶言わないで下さい! パトリシア姫を案じられているのでしたら、使いの者をやって様子をうかがわせます! そもそもこれから姫と二人で国王陛下との謁見も予定に入っております、姫は登城なさいますよ。ですから外出などだめですよ~~! 殿下ああああっ!」
「だが登城途中で何かあったら」
廊下で大騒ぎしていたら「なんだなんだ」と野次馬が集まってきた。ニルスの必死の訴えに、結局集まってきた文官や騎士に取り囲まれてドナルドは執務室へ戻されることになるのだった。
「とにかく、パトリシア姫には多めに護衛をおつけいたしますから。とっとと仕事を終わらせてください」
「おまえ、なんだか遠慮が無くなってきたな」
ニルスに見張られながら仕方なく羽ペンでがりがりと羊皮紙にサインをしていく。そのうちに少し頭が冷えてきた。
(そうだよな、少なくとも私の知っているマリエは卑怯な真似をする女性ではない。いくら剣の腕が立つからといって)
マリエと婚約したのは2年前だった。その頃から「王太子としてしっかりなさいませ」と剣の相手をさせられていたので、ドナルドは過不足なくマリエの剣の腕を知っている。
ぴたり、と羽ペンがとまった。
「――――ニルス」
「はい?」
「パトリシアの護衛はどのくらいいるのだ」
「姫はまだ王族ではないので近衛隊は動かせませんでした。近衛は王族を守るための部隊ですからね。ですので、第一騎士団から5人ほど行ってもらっています。ですから」
「だめだ、5人じゃ。マリエ相手なら一個師団くらい連れて行かないと」
「どこの怪獣ですかそれ。盛りすぎです」
ニルスが呆れて冷たく切り捨てるのを気にもとめず、ドナルドはさらなる対策を考え始める。ドナルドの手が止まったままなのを見てニルスの眉間がぴくぴくしていることには気がついていないようだ。
「そうだ……マリエは多少とはいえ水の魔術が使える。とすると、魔術師団からも精鋭を借りてこなければ」
「大丈夫ですよ、第一騎士団なら魔術障壁を備えた装備をしていますから」
「いや! 万が一ということがある。そうだ、ここはラック魔術師団長を」
「さっきご自分で『多少使える』っておっしゃいましたよねえ? そこに魔術師団最強の団長を投入するってあきらかにオーバーキルでしょうが」
「だから言っただろう、万が一だ! マリエが捨て身の攻撃を仕掛けてきたらどうする! 命を捨てる覚悟の攻撃は、どんな破壊力を秘めているかわからない。だから」
「だからだからって、そもそもマリエ姫が襲ってくるって決まったわけじゃないでしょう。いい加減その妄想癖なんとかしないとパトリシア姫にも愛想つかされますよ」
「ぐっ……!」
「とにかく。何度も言いますが仕事ちゃっちゃと終わらせて下さい。頭ん中ぐるぐるさせるのはそれからにしてくださいね、殿下」
ニルスの毒舌に口をつぐむしかなくなったドナルドだが、頭の中はずっとぐるぐるしっぱなしだ。口に出さなくなったぶん、妄想は更に闇に染まる。
(そうだ。王宮の警備をさらに厳重にしよう。バリゲートを作り、弓部隊を常駐させ、部屋の周囲はすべて近衛で固める。部屋の上下は魔術師団に常時警戒させて、とにかくネズミ一匹通れないほどの厳重な警備を。私とパトリシアはそこに住めばいい。いつマリエがおそってきてもいいように――――)
だが、ドナルドは知らない。
あのあと王城から辞したその足でマリエが隣国へ向かったことを。
隣国の王子とマリエが、ドナルドとの婚約以前から慕いあっていたことを。そしてドナルドとの婚約のために別れていたことを。
マリエの慕う王子クラウディオは隣国の第3王子だが妾腹であり、母親が平民であることから王族内でも立場が弱く「忘れられた王子」だったのだ。住まいも王宮では無く、マリエの国との国境近くにぽつんとある屋敷ととことん冷遇されていたため、マリエの両親が結婚を悩んでいるうちにドナルドとの縁談が命令として来てしまい断れなくなったのだった。
しかし、その婚約も白紙に戻った。マリエの両親も、嫁きおくれるよりはずっといいとクラウディオとの結婚に賛成してくれた。
きちんとした王妃教育を受けてきた評判の侯爵令嬢は隣国に歓迎され、とんとん拍子に縁談が決まってしまう。
マリエの王子妃としての手腕、クラウディオ本人の能力に人柄で次第に夫婦の立場は上がっていき、クラウディオの国はどんどん繁栄していった。
愛する男性と結ばれたマリエは自国で受けた王妃教育を忘れることなく、ドナルドのことはすっぱりと忘れてしまった。そう、マリエがあのとき「忘れません」と言ったのは2年間に受けた教育のこと。決してドナルドのことではなかった。もちろん恋愛感情なんて持っていたわけがない。
そしてマリエは愛するクラウディオとともに末永く幸せに暮らしたのだった。
が――――
疑心暗鬼に囚われてしまったドナルドは、王として即位した後もマリエの嫁いだ隣国からの報復を恐れて国の防衛に力を注いだ。後の世で「防衛王」という異名で呼ばれ、堅牢な防衛体制を築き上げたと評価をされるものの、それを構築した理由は語り継がれていない。
主に「恥ずかしすぎる」という理由で。
ノーランダ王国の王城、その庭に呼び出されたマリエ・ボールドン侯爵令嬢は、呼び出した張本人である婚約者ドナルド王太子に開口一番そう宣言された。
政略で決められた婚約だ。だが、うまくやっていると思われている二人がこのようなことになった原因は、どうやら王太子の斜め後ろで大きな瞳をうるうるさせて「いぢめる? いぢめる?」といわんばかりの小動物感を醸し出している美少女にあるらしいことはマリエにも想像がついた。
「婚約――――解消、でございますか?」
「そうだ。私は真実の愛を見つけたのだ、自分の心に嘘はつけない」
真実の愛。
そもそも国王の決めた婚約だ、真実の愛とやらでそれを王太子の一存で覆せるものなのかどうかはなはだ怪しいが、王太子にそういわれてしまえばしがない侯爵令嬢に否やは言えないだろう。
「ドナルド様……! 私は」
マリエが両手で口のあたりを覆い、震える声を絞り出す。今まさに婚約者に捨てられようとしているのだ、ショックを受けて当然だろうとドナルドは目を伏せた。
「ああ、わかっている。マリエ、そなたが私と婚約してからこれまで、将来の王太子妃、ゆくゆくは王妃としての厳しい教育を受けさせられていたことも。その時間を無駄にしてしまうことは申し訳ないと思う。が、このままおまえと結婚しても私はおまえを愛せない。私が愛しているのはこのパトリシアだけだからだ。おまえは今までのことを忘れて新しく一歩を踏み出すと良い」
「ドナルド様」
一瞬マリエの手が持ち上がる。ドナルドの方へのばそうとしていたその手はしかし彼の袖をとることはない。たとえ何があろうとも王族に逆らうことなど出来はしないのだから。マリエの手はそのままマリエの胸の前でぎゅっと握りしめられる。それから彼女は何かを抑え込むように笑みを作り、ドナルドに告げた。
「わかりました――――殿下のおっしゃるとおりにいたします。ただ」
「ただ?」
「――――私は、忘れません」
忘れません。
そういってマリエは毅然と去って行った。ドナルドは少しだけ感慨深く、そしてほとんどはホッとしてそれを見送った。なにせ、マリエは侯爵令嬢でありながら素晴らしい剣の腕を持っているのだ。逆上して斬りかかってでも来られたら確実に軽傷では済まない。そう思って安堵の息を吐いたところにぎゅっと服の袖を握られた。ドナルドのトゥルーラブ、真実の愛のパトリシアだ。
「ドナルド様」
「怖かっただろう、パトリシア。だがこれでひとつ関門を通過したわけだ。私は必ずおまえを后にする」
「ありがとうございます……でも、怖いですね」
「心配するな。私がついている」
「だって、忘れませんなんて、ちょっと恨みがこもって聞こえたので」
「恐がりだな、パトリシアは」
そういってドナルドはパトリシアを抱き寄せた。確かにこのときはそう思っていたのだ。
だが、パトリシアが帰り、夜に自室でぼんやりとろうそくのあかりで照らし出された天井を眺めていたらだんだんとマリエの言葉が気になり始めてきた。
「考えすぎだ。忘れろ、私!」
ドナルドはごろりと寝返りを打ち頭からその考えを追い出そうと試みた。
けれど体験上、夜中に悪い考えを思いつくとそれがどんどん膨らんでしまうものだ。今のドナルドはまさにその状態だった。
「確かに王太子に婚約破棄されたなんて、マリエの経歴に傷がついてしまったんだろうか。あのときはこれが最善の策だと思っていた。きちんとマリエとの関係に区切りをつけ、その上でパトリシアを娶る。けじめをつける、これは常日頃からマリエにも怒られてきたことだからな。未来の王太子妃としての能力は折り紙付き、その上剣の腕もあり容姿も優れている。嫁ぎ先には困らないはずだ。私の判断は間違っていない!」
なのに、何だろうこの得体の知れない不安感は。マリエのちょっと気の強そうな目つきのせいか? それともあまりに引き際が潔すぎたせいか? 考えれば考えるほど不安な心が深くなっていくようでドナルドは二度三度と寝返りを打った。
――――待てよ、私たちは政略結婚の婚約者同士だったから、私はマリエの気持ちを聞いたことはなかった。もしも実はマリエが私を愛していたとしたら――――?
そういえば先日悪友ギュンターに勧められて読んだ東方の国の小説。ふとそれを思い出した。
男に裏切られた女が夜ごとに神殿へ人知れず出向き、ご神木に恨みを込めて男を模した人形を釘で打ち付けるのだ。男はその呪いでみるみる衰弱して――――という話だった。
「いやいやいや、創作! 創作だから!」
まさかマリエに限ってそんな回りくどい手を使うとは思えない。が、もし彼女が自分を心から慕っていたとしたら……嫉妬というものは視野を極端に狭め、判断力を著しく低下させるものだ。そんな突飛もない行動にマリエを駆り立てても不思議じゃない。
「まさか……まさか、マリエ」
どうどうめぐりの思考はぐるぐると螺旋を描きながらどんどん深みにはまっていく。
気がついたときには外が白白と明るくなり始めていた。
すっかり日が高く昇り、城に勤める者たちが次々と登城してくる。結局一睡もできなかったドナルドは柱の陰に隠れその様子を見ていたが、お目当ての人物をみつけてその襟首をひっつかみ、空いている部屋に引きずり込んだ。
「おいギュンター」
こそこそ小さな声で呼びかけた。万が一にも他の人物には聞かれたくない。ギュンターはドナルドを認めると落ち着き払った声で返した。
「おはようございますドナルド殿下。何ですか朝っぱらから」
いち文官と王太子という身分差があっても、二人は昔からの悪友だ。人目のないところでは慣れ親しんだ友人同士の口調になるのだが、この日のギュンターは人前モードのままだ。だが、テンパっているドナルドはそんなことすら気がつかない。
「ギュンター! 正直に答えてくれ! 私が聞ける義理じゃないのは百も承知だが――――マリエは、お前の妹はどんな様子だ」
ドナルドの悪友にしてマリエの兄ギュンターは途端に冷たい視線をドナルドに向けた。
「確かに聞ける義理じゃないよなあ」
「そこを何とか」
「いいかドナルド」
ギュンターがぎろりとにらみつける。なまじっか美しいと有名な顔立ちなので、凄まれると何というか……迫力がありすぎる。
「おまえは俺の大事な大事な妹を振ったんだ。そこは理解しているのか」
「してるしてる」
「軽いな! いいか、耳の穴かっぽじってよく聞け。マリエはな、昨日の夜こっそり一人で屋敷を抜け出した」
「――――えっ」
途端にぶわっとあの小説の場面が頭に浮かぶ。男に捨てられた女は一人真っ暗な道を進み、呪いの人形をご神木に夜な夜な打ち付けるのだ。この呪いは、釘を打っているところを他人に見られると効果が無い。だから侯爵家の令嬢だというのに夜更けにたった一人で出かけたのだろうか。
――――どんどん怖い考えになってきてしまった。
「や、やっぱり私を恨んで丑の刻参りを」
「おまえ人の妹をなんだと思ってるんだ」
マリエはそんなことする奴じゃない、とギュンターが憤慨した様子で詰め寄ってきた。さすがにドナルドもそこで頭が冷える。
「すまない、そうだよな。マリエはそんなことはしない……な」
ドナルドはマリエのことを思い出す。
きつめの顔の美人だが、中身は結構天然。剣の腕は素晴らしく、侯爵令嬢でなければ騎士団にスカウトしただろう。剣筋と同じく、曲がったことが嫌いな、気持ちいいほどまっすぐな女性なのだ、マリエは。
「だが、夜中に出かけてしまったものをギュンターは追いかけなかったのか」
「ああ、まあ、行き先はわかってるからな」
ご神木か。
いや、いまそれは否定したところだった。のろいから離れよう。
「ドナルド、もうマリエに構うな。あいつの心配をする必要はもうないだろう」
「――――必要、というか、俺はもうその権利もないのだな」
自嘲気味にそう笑ってドナルドはその場から離れた。
だがやはり「忘れません」という言葉は頭から離れない。執務室に戻って書類仕事をしていても頭のどこかにそれがこびりついてしまっていた。
――――ひょっとして私ではなくパトリシアに危害を……?
――――いや、そんなふうに疑ってはいけない。
――――けれどもし彼女に危害が及べば私が絶望の淵に立つことは容易に想像できるだろう。
「こうしちゃいられない」
ドナルドは椅子から勢いよく立ち上がり執務室から飛び出そうとした。
「殿下! どちらへ」
ドナルドの秘書ニルスが慌てて後を追いかけてくる。ドナルドは足を止めることなく答えた。
「パトリシアのところだ! 無事を確認しなければ気が済まない」
「お待ち下さい、まだ仕事がわんさと」
「ニルス、おまえがなんとかしておけ」
「無茶言わないで下さい! パトリシア姫を案じられているのでしたら、使いの者をやって様子をうかがわせます! そもそもこれから姫と二人で国王陛下との謁見も予定に入っております、姫は登城なさいますよ。ですから外出などだめですよ~~! 殿下ああああっ!」
「だが登城途中で何かあったら」
廊下で大騒ぎしていたら「なんだなんだ」と野次馬が集まってきた。ニルスの必死の訴えに、結局集まってきた文官や騎士に取り囲まれてドナルドは執務室へ戻されることになるのだった。
「とにかく、パトリシア姫には多めに護衛をおつけいたしますから。とっとと仕事を終わらせてください」
「おまえ、なんだか遠慮が無くなってきたな」
ニルスに見張られながら仕方なく羽ペンでがりがりと羊皮紙にサインをしていく。そのうちに少し頭が冷えてきた。
(そうだよな、少なくとも私の知っているマリエは卑怯な真似をする女性ではない。いくら剣の腕が立つからといって)
マリエと婚約したのは2年前だった。その頃から「王太子としてしっかりなさいませ」と剣の相手をさせられていたので、ドナルドは過不足なくマリエの剣の腕を知っている。
ぴたり、と羽ペンがとまった。
「――――ニルス」
「はい?」
「パトリシアの護衛はどのくらいいるのだ」
「姫はまだ王族ではないので近衛隊は動かせませんでした。近衛は王族を守るための部隊ですからね。ですので、第一騎士団から5人ほど行ってもらっています。ですから」
「だめだ、5人じゃ。マリエ相手なら一個師団くらい連れて行かないと」
「どこの怪獣ですかそれ。盛りすぎです」
ニルスが呆れて冷たく切り捨てるのを気にもとめず、ドナルドはさらなる対策を考え始める。ドナルドの手が止まったままなのを見てニルスの眉間がぴくぴくしていることには気がついていないようだ。
「そうだ……マリエは多少とはいえ水の魔術が使える。とすると、魔術師団からも精鋭を借りてこなければ」
「大丈夫ですよ、第一騎士団なら魔術障壁を備えた装備をしていますから」
「いや! 万が一ということがある。そうだ、ここはラック魔術師団長を」
「さっきご自分で『多少使える』っておっしゃいましたよねえ? そこに魔術師団最強の団長を投入するってあきらかにオーバーキルでしょうが」
「だから言っただろう、万が一だ! マリエが捨て身の攻撃を仕掛けてきたらどうする! 命を捨てる覚悟の攻撃は、どんな破壊力を秘めているかわからない。だから」
「だからだからって、そもそもマリエ姫が襲ってくるって決まったわけじゃないでしょう。いい加減その妄想癖なんとかしないとパトリシア姫にも愛想つかされますよ」
「ぐっ……!」
「とにかく。何度も言いますが仕事ちゃっちゃと終わらせて下さい。頭ん中ぐるぐるさせるのはそれからにしてくださいね、殿下」
ニルスの毒舌に口をつぐむしかなくなったドナルドだが、頭の中はずっとぐるぐるしっぱなしだ。口に出さなくなったぶん、妄想は更に闇に染まる。
(そうだ。王宮の警備をさらに厳重にしよう。バリゲートを作り、弓部隊を常駐させ、部屋の周囲はすべて近衛で固める。部屋の上下は魔術師団に常時警戒させて、とにかくネズミ一匹通れないほどの厳重な警備を。私とパトリシアはそこに住めばいい。いつマリエがおそってきてもいいように――――)
だが、ドナルドは知らない。
あのあと王城から辞したその足でマリエが隣国へ向かったことを。
隣国の王子とマリエが、ドナルドとの婚約以前から慕いあっていたことを。そしてドナルドとの婚約のために別れていたことを。
マリエの慕う王子クラウディオは隣国の第3王子だが妾腹であり、母親が平民であることから王族内でも立場が弱く「忘れられた王子」だったのだ。住まいも王宮では無く、マリエの国との国境近くにぽつんとある屋敷ととことん冷遇されていたため、マリエの両親が結婚を悩んでいるうちにドナルドとの縁談が命令として来てしまい断れなくなったのだった。
しかし、その婚約も白紙に戻った。マリエの両親も、嫁きおくれるよりはずっといいとクラウディオとの結婚に賛成してくれた。
きちんとした王妃教育を受けてきた評判の侯爵令嬢は隣国に歓迎され、とんとん拍子に縁談が決まってしまう。
マリエの王子妃としての手腕、クラウディオ本人の能力に人柄で次第に夫婦の立場は上がっていき、クラウディオの国はどんどん繁栄していった。
愛する男性と結ばれたマリエは自国で受けた王妃教育を忘れることなく、ドナルドのことはすっぱりと忘れてしまった。そう、マリエがあのとき「忘れません」と言ったのは2年間に受けた教育のこと。決してドナルドのことではなかった。もちろん恋愛感情なんて持っていたわけがない。
そしてマリエは愛するクラウディオとともに末永く幸せに暮らしたのだった。
が――――
疑心暗鬼に囚われてしまったドナルドは、王として即位した後もマリエの嫁いだ隣国からの報復を恐れて国の防衛に力を注いだ。後の世で「防衛王」という異名で呼ばれ、堅牢な防衛体制を築き上げたと評価をされるものの、それを構築した理由は語り継がれていない。
主に「恥ずかしすぎる」という理由で。
396
あなたにおすすめの小説
【短編】誰も幸せになんかなれない~悪役令嬢の終末~
真辺わ人
恋愛
私は前世の記憶を持つ悪役令嬢。
自分が愛する人に裏切られて殺される未来を知っている。
回避したいけれど回避できなかったらどうしたらいいの?
*後編投稿済み。これにて完結です。
*ハピエンではないので注意。
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
悪役令嬢に相応しいエンディング
無色
恋愛
月の光のように美しく気高い、公爵令嬢ルナティア=ミューラー。
ある日彼女は卒業パーティーで、王子アイベックに国外追放を告げられる。
さらには平民上がりの令嬢ナージャと婚約を宣言した。
ナージャはルナティアの悪い評判をアイベックに吹聴し、彼女を貶めたのだ。
だが彼らは愚かにも知らなかった。
ルナティアには、ミューラー家には、貴族の令嬢たちしか知らない裏の顔があるということを。
そして、待ち受けるエンディングを。
【短編】復讐すればいいのに〜婚約破棄のその後のお話〜
真辺わ人
恋愛
平民の女性との間に真実の愛を見つけた王太子は、公爵令嬢に婚約破棄を告げる。
しかし、公爵家と国王の不興を買い、彼は廃太子とされてしまった。
これはその後の彼(元王太子)と彼女(平民少女)のお話です。
数年後に彼女が語る真実とは……?
前中後編の三部構成です。
❇︎ざまぁはありません。
❇︎設定は緩いですので、頭のネジを緩めながらお読みください。
悪役令嬢にざまぁされた王子のその後
柚木崎 史乃
ファンタジー
王子アルフレッドは、婚約者である侯爵令嬢レティシアに窃盗の濡れ衣を着せ陥れようとした罪で父王から廃嫡を言い渡され、国外に追放された。
その後、炭鉱の町で鉱夫として働くアルフレッドは反省するどころかレティシアや彼女の味方をした弟への恨みを募らせていく。
そんなある日、アルフレッドは行く当てのない訳ありの少女マリエルを拾う。
マリエルを養子として迎え、共に生活するうちにアルフレッドはやがて自身の過去の過ちを猛省するようになり改心していった。
人生がいい方向に変わったように見えたが……平穏な生活は長く続かず、事態は思わぬ方向へ動き出したのだった。
悪役令嬢カタリナ・クレールの断罪はお断り(断罪編)
三色団子
恋愛
カタリナ・クレールは、悪役令嬢としての断罪の日を冷静に迎えた。王太子アッシュから投げつけられる「恥知らずめ!」という罵声も、学園生徒たちの冷たい視線も、彼女の心には届かない。すべてはゲームの筋書き通り。彼女の「悪事」は些細な注意の言葉が曲解されたものだったが、弁明は許されなかった。
死に戻り令嬢の華麗なる復讐(短編まとめ)
水瀬瑠奈
恋愛
「おねが、い、しにたくな、」
最後に見えたのは、それはそれは嬉しそうに笑う妹の顔だった。
そうして首を切り落とされて死んだはずの私はどうやら過去にループしてきたらしい!?
……あぁ、このままでは愛していた婚約者と私を嵌めた妹に殺されてしまう。そんなこと、あってはなるものか。そもそも、死を回避するだけでは割に合わない。あぁ、あの二人が私に与えた苦しみを欠片でも味わわせてやりたい……っ。
復讐しなければ。私を死に追いやったあの二人に。もう二度と私の前に顔を表さなくなるような、復讐を――
※小説家になろうでも掲載しています
※タイトル作品のほかに恋愛系の異世界もので短めのものを集めて、全部で4本分短編を掲載します
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる