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桐子の話
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『ナルセ』のカレーはスパイシーで辛いのに、ついついリピートしたくなる。
けれど桐子は大好きなこの店にもう半年は足を向けていなかった。それもこれも、別れ話をするのにこの店を選んだ元カレ・明のせいだ。
まさか二股かけられているとは夢にも思っていなかった。明のことは好きだったが、新しい恋人を連れて別れ話をしに来たのを見て桐子は気持ちがスッと冷めて行くのを感じた。
だから明への気持ちを引きずっているわけじゃない。引きずっているのは、そんな男の不実な面に気づくことができなかった自分の不甲斐なさだ。
「桐子は強いからひとりでも大丈夫だけど、美久は俺がそばにいないとダメなんだ」
そんな台本通りの言葉は桐子の心を冷やしていくだけだった。
その場でグラスの水をかけてやろうかと思ったが、店に迷惑がかかるとさすがに思いとどまった。「二度と顔を見せないで」ただその一言を残して席を立った自分を褒めてやりたい。けれどその出来事がひどく心に刺さって、あれ以来『ナルセ』に足を向けられていない。
だというのに、今現在桐子が『ナルセ』の席に座っているのは、向かいに座る友人圭太のせいだ。
気のおけないこの異性の友人には明との顛末をすべて話してある。時には優しく話を聞き、時にはズバリと核心をついてくる圭太は気心の知れた相談相手だ。だから彼が桐子を無理矢理『ナルセ』に引きずり込んだ理由が彼女にはわからなかった。この店が今現在桐子にとって地雷であるとわかっているはずなのに、どうして。
「――やだって言ったのに」
「俺、聞いてないもん」
奥まった4人掛けの席で机に突っぷす桐子に、引きずり込んだ張本人がにこやかに笑う。どちらかといえばベビーフェイスな圭太は、明と正反対のワンコ系男子――のはず。こんな強引な奴だったかと桐子は内心首をかしげた。
圭太は桐子を無視して二人分のカレーを注文した。ほどなくして店員のさくらが持ってきたのはほうれん草のカレー、桐子の大好物だ。
そしてあの日、明と最後に食べたカレー。
あからさまに機嫌が急下降している桐子に、圭太が人懐っこそうな笑みを向けた。
「あのね、嫌な記憶は上書きしちゃうに限るんだよ、ね?」
「――そう?」
「だからさ、俺とここで新しくいい思い出を作ればいいんだよ」
桐子の機嫌が遊園地のフリーフォールのごとく急降下していく。
あっけらかんと圭太は言うが、二股かけられたうえでの失恋なんてそう簡単に上書きできる記憶じゃない。人間、いい思い出よりも悪い思い出のほうが強く長く残ってしまうものだ。
「無理。無駄」
「やってみる前からそんなこと言うなんて、桐子らしくないなあ」
圭太は何事も挑戦する派のアクティブな桐子をよく知っているのでそんなことを言う。桐子は苦々しく視線をそらした。
桐子自身、自分らしくないことはわかっている。あれから半年も経っていて我ながら女々しいとは思うけれど、感情は自分の言うことなんて聞いてくれないのだから仕方ない。
「よっぽとパンチの効いた出来事じゃないと、上書きなんてできるわけない」
「じゃあ例えばさ、ここで俺が満を持して桐子に愛の告白をする、とか」
「――馬鹿にしてんの?」
「してないよ。本気だよ。桐子に必要なのはそろそろ新しい恋を見つけることだと思うからさ」
ニコニコした圭太とそれを睨みつける桐子。
「信じてくれないの? 桐子」
こてん、と首を傾げる様はさながら子犬のように愛らしい。それがまた憎たらしい。
失恋したなら新しい恋をしろ、それも手近で気心の知れた圭太はどうかなどと軽いにもほどがある。
誰でもいいわけがない。それに恋なんてもうこりごりなのに、冗談でもそんなことを言うなんて。
桐子は無言でスプーンを握ると、ほうれん草のカレーを勢いよく頬張り始めた。濃い緑色のカレーがみるみるうちに消えていく。それを圭太がニコニコ眺めている。
「そういうところも可愛いんだよね」
「うるひゃい」
口いっぱいにほおばったほうれん草のカレーは苦みもなく、くせになる味わい。あの時を思い出して苦く感じるかと思っていたのに、久しぶりに食べたからかたまらなく美味しい。くやしい。
「あんたが引っ張ってきたんだからおごりでしょうね」
「もちろん。食後にチャイはどう?」
「飲む」
二人分のチャイを注文する圭太をチラ見しながら桐子は心の中で毒づいた。
やけにこいつは自分の扱いがうまいじゃないか。手玉に取られているようで腹が立つ。
圭太のことを異性と意識したことはなかった。ただいつも圭太といる時は肩肘張らずに自然体でいられる。一緒にいて楽な友人だと思っていた。
なのに何だ、急に告白めいたことをしてくれちゃって。
――まさか、ひょっとして本当に本気なんだろうか。
じっと圭太の横顔をにらんでいたら、注文を終えた圭太が振り返って目が合った。一瞬圭太が目を見張る。けれどすぐに調子を戻し、ごく普通に口を開いた。
「――ところで桐子、溝口教授のレポートなんだけどさ」
なぜ突然講義の話になるのか。あまりに普段通りすぎて、今の告白はやっぱり冗談だったとしか思えない。
桐子はますますイラついてきた。
――本気の告白なんじゃないかと一瞬でも思った私がバカだった。こんな子犬ちゃんみたいな顔に騙されるなんて、どうかしてた。
桐子は大ぶりのバッグを手に立ち上がった。
「帰る」
「えっ! ちょっと待ってよ、桐子!」
店のドアに取り付けられたベルがカラランと涼やかな音を響かせ、桐子は出て行ってしまった。
後に残された圭太は閉じたドアをしばらく呆然と見つめていたが、深くため息をついてドスンと席に腰を落とした。
「――ったく、人の気も知らないで」
かなり勇気出したんだけどな、とまだほんのり赤さの残る耳をこする。
もちろんあの圭太の告白は本気だった。今日ははっきり告白するつもりで『ナルセ』に桐子を連れてきたのだが、彼女の様子を見ているうちにあまり強引に迫るのも気が引けてきた。それであんな態度を取ったのだが――どうやら失敗だったらしい。おまけにじっと見つめられて慌てた挙句、全然違う話に逃げてしまうなんて格好悪い。悪すぎる。
「次は間違えない」
はあ、と吐いた息はほんのり白く、ふわりと冬の空に消えて行った。
けれど桐子は大好きなこの店にもう半年は足を向けていなかった。それもこれも、別れ話をするのにこの店を選んだ元カレ・明のせいだ。
まさか二股かけられているとは夢にも思っていなかった。明のことは好きだったが、新しい恋人を連れて別れ話をしに来たのを見て桐子は気持ちがスッと冷めて行くのを感じた。
だから明への気持ちを引きずっているわけじゃない。引きずっているのは、そんな男の不実な面に気づくことができなかった自分の不甲斐なさだ。
「桐子は強いからひとりでも大丈夫だけど、美久は俺がそばにいないとダメなんだ」
そんな台本通りの言葉は桐子の心を冷やしていくだけだった。
その場でグラスの水をかけてやろうかと思ったが、店に迷惑がかかるとさすがに思いとどまった。「二度と顔を見せないで」ただその一言を残して席を立った自分を褒めてやりたい。けれどその出来事がひどく心に刺さって、あれ以来『ナルセ』に足を向けられていない。
だというのに、今現在桐子が『ナルセ』の席に座っているのは、向かいに座る友人圭太のせいだ。
気のおけないこの異性の友人には明との顛末をすべて話してある。時には優しく話を聞き、時にはズバリと核心をついてくる圭太は気心の知れた相談相手だ。だから彼が桐子を無理矢理『ナルセ』に引きずり込んだ理由が彼女にはわからなかった。この店が今現在桐子にとって地雷であるとわかっているはずなのに、どうして。
「――やだって言ったのに」
「俺、聞いてないもん」
奥まった4人掛けの席で机に突っぷす桐子に、引きずり込んだ張本人がにこやかに笑う。どちらかといえばベビーフェイスな圭太は、明と正反対のワンコ系男子――のはず。こんな強引な奴だったかと桐子は内心首をかしげた。
圭太は桐子を無視して二人分のカレーを注文した。ほどなくして店員のさくらが持ってきたのはほうれん草のカレー、桐子の大好物だ。
そしてあの日、明と最後に食べたカレー。
あからさまに機嫌が急下降している桐子に、圭太が人懐っこそうな笑みを向けた。
「あのね、嫌な記憶は上書きしちゃうに限るんだよ、ね?」
「――そう?」
「だからさ、俺とここで新しくいい思い出を作ればいいんだよ」
桐子の機嫌が遊園地のフリーフォールのごとく急降下していく。
あっけらかんと圭太は言うが、二股かけられたうえでの失恋なんてそう簡単に上書きできる記憶じゃない。人間、いい思い出よりも悪い思い出のほうが強く長く残ってしまうものだ。
「無理。無駄」
「やってみる前からそんなこと言うなんて、桐子らしくないなあ」
圭太は何事も挑戦する派のアクティブな桐子をよく知っているのでそんなことを言う。桐子は苦々しく視線をそらした。
桐子自身、自分らしくないことはわかっている。あれから半年も経っていて我ながら女々しいとは思うけれど、感情は自分の言うことなんて聞いてくれないのだから仕方ない。
「よっぽとパンチの効いた出来事じゃないと、上書きなんてできるわけない」
「じゃあ例えばさ、ここで俺が満を持して桐子に愛の告白をする、とか」
「――馬鹿にしてんの?」
「してないよ。本気だよ。桐子に必要なのはそろそろ新しい恋を見つけることだと思うからさ」
ニコニコした圭太とそれを睨みつける桐子。
「信じてくれないの? 桐子」
こてん、と首を傾げる様はさながら子犬のように愛らしい。それがまた憎たらしい。
失恋したなら新しい恋をしろ、それも手近で気心の知れた圭太はどうかなどと軽いにもほどがある。
誰でもいいわけがない。それに恋なんてもうこりごりなのに、冗談でもそんなことを言うなんて。
桐子は無言でスプーンを握ると、ほうれん草のカレーを勢いよく頬張り始めた。濃い緑色のカレーがみるみるうちに消えていく。それを圭太がニコニコ眺めている。
「そういうところも可愛いんだよね」
「うるひゃい」
口いっぱいにほおばったほうれん草のカレーは苦みもなく、くせになる味わい。あの時を思い出して苦く感じるかと思っていたのに、久しぶりに食べたからかたまらなく美味しい。くやしい。
「あんたが引っ張ってきたんだからおごりでしょうね」
「もちろん。食後にチャイはどう?」
「飲む」
二人分のチャイを注文する圭太をチラ見しながら桐子は心の中で毒づいた。
やけにこいつは自分の扱いがうまいじゃないか。手玉に取られているようで腹が立つ。
圭太のことを異性と意識したことはなかった。ただいつも圭太といる時は肩肘張らずに自然体でいられる。一緒にいて楽な友人だと思っていた。
なのに何だ、急に告白めいたことをしてくれちゃって。
――まさか、ひょっとして本当に本気なんだろうか。
じっと圭太の横顔をにらんでいたら、注文を終えた圭太が振り返って目が合った。一瞬圭太が目を見張る。けれどすぐに調子を戻し、ごく普通に口を開いた。
「――ところで桐子、溝口教授のレポートなんだけどさ」
なぜ突然講義の話になるのか。あまりに普段通りすぎて、今の告白はやっぱり冗談だったとしか思えない。
桐子はますますイラついてきた。
――本気の告白なんじゃないかと一瞬でも思った私がバカだった。こんな子犬ちゃんみたいな顔に騙されるなんて、どうかしてた。
桐子は大ぶりのバッグを手に立ち上がった。
「帰る」
「えっ! ちょっと待ってよ、桐子!」
店のドアに取り付けられたベルがカラランと涼やかな音を響かせ、桐子は出て行ってしまった。
後に残された圭太は閉じたドアをしばらく呆然と見つめていたが、深くため息をついてドスンと席に腰を落とした。
「――ったく、人の気も知らないで」
かなり勇気出したんだけどな、とまだほんのり赤さの残る耳をこする。
もちろんあの圭太の告白は本気だった。今日ははっきり告白するつもりで『ナルセ』に桐子を連れてきたのだが、彼女の様子を見ているうちにあまり強引に迫るのも気が引けてきた。それであんな態度を取ったのだが――どうやら失敗だったらしい。おまけにじっと見つめられて慌てた挙句、全然違う話に逃げてしまうなんて格好悪い。悪すぎる。
「次は間違えない」
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