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 そうして一月ほどが過ぎた。

 毎日クリストファー殿下の話し相手をして、たまに夜の庭でレーンハルト陛下に殿下の様子を話す。そんな毎日の生活パターンにやっと慣れてきた。

 私自身の勉強は、クリストファー殿下の勉強タイムに合わせてメルファスさんやロゼさんに教わっている。
 魔法についても教わったけど、根本から魔力を持たない私は当然実践することはできない。

「あああいいなあ、私も魔法使ってみたい」
「こればかりは、ねえ。でも知っているのと知らないのとではいざ魔法と相対したときに違いますからしっかり勉強なさって下さいね」

 そう言ってにっこり笑うロゼさんの顔にちょっとだけ悪寒を感じたのはひみつだ。ロゼさん、結構厳しい。
 見た目は同性でもむしゃぶりつきたくなるような美女。ミルクティー色の長い髪をいつも片側でひとつにまとめ、それがうらやまけしからんボディーに沿って流れ落ちている。どうやったらあんなスタイルをキープできるんだろう。

「さて、今日はこのくらいにしておきましょう。今ソフィアに言ってお茶を淹れさせますね」

 ロゼさんの言葉にほっとして姿勢を崩した。今日もびしびしとしごかれました。
 でも授業が終わってのお茶のひととき、ロゼさんは打って変わってとっつきやすく話して楽しい相手になる。この一ヶ月で私とロゼさんはすっかり友人になってしまっていた。
 話す内容はごくごく普通。ドレスの話やお菓子の話、最近の市井の流行なんかも話してくれる。ロゼさんは着ているもの話していることもとってもセンスがよくて憧れちゃう。

 今日も今日とてそんな雑談に花を咲かせていた、そんなときだった。
 誰かが私の部屋を訪ねてきた。

「――――ッ、サーナ様! お勉強中の所を失礼いたします!」
「あれ? シシリーさん」

 慌てて駆け込んできたのはクリストファー殿下付きの侍女のひとりシシリーさんだ。酷く慌てていて、いつもきれいに揃えている栗色の髪が乱れている。必死に走ってきたのだろう、はあはあとあがってしまっている息を整える暇もなく言葉を続ける。
 その言葉に私が驚くことになる。

「お願いいたします! 殿下をとめて下さい!」
「殿下? クリストファー殿下がどうしたの?」
「突然怒り出して大暴れなさってます! お願いいたします、どうか……」
「殿下が?!」

 正直、私がお世話役を始めてから暴れたりすることはなかったから驚くばかり。
 けれどシシリーさんの様子もただごとじゃないし放っておけない。ロゼさんに挨拶もそこそこに私は部屋を飛び出した。

 殿下の部屋にたどり着いた私が目にしたのは見るも無惨なほど荒らされた殿下の私室。机や椅子が倒れ、クッションはばらばら、細々したものが床にばらまかれている。かろうじて無事なソファーの後ろにはアデラさんがしゃがみこんでふるえていて、クリストファー殿下はいない。

「アデラさん! 何があったんですか? 殿下は?」

 真っ青な顔で震えているアデラさんに駆け寄ると、アデラさんは震える手でクリストファー殿下のプライベートルームを指さした。

「と、突然、怒り出されて――――ものを投げつけられたので怖くなって、か、隠れたのですが、殿下、殿下は、閉じこもって――――」

 指の先、プライベートルームは物音一つしないで静まりかえっている。アデラさんたちはその静寂がまた怖いらしい。
 一体何があったんだろう。

「アデラさん、怪我はありませんか」
「い、いえ、ありません」
「よかった。では、殿下が怒り出す前に何かありましたか」
「いいえ、何も。エドガー先生の授業が終わった後サーナ様がいらしていないことは気にされていましたが」

 私がいなかったから怒り出した? いや、そうじゃないだろう。だって今まででも今日みたいにクリストファー殿下の授業が先に終わってしまったことは何度もあった。でもそのときは怒り出したりしなかったし――――
 原因はわからないけどひとまずアタックしてみようと私はプライベートルームの扉の前に立った。

 まずは扉に耳をつけて中の音をうかがう。ことりとも音がしない。
 そこでノックしてみる。
 こんこんこん、という音だけが響いて、これまた何の音もしない。

「クリストファー殿下、サーナです」

 それでも何の反応もない。どうしよう、少し時間をおいてあげた方がいいのだろうか。いやいや、まだ五歳のちびっこなんだからほっておく訳に行かないでしょ。私はもう一度ノックした。

「殿下。いらっしゃらないんですか? 入りますよ」

 断りの文句を言ってからそっと扉を開けると、部屋の中は窓から差し込む日の光でさんさんと明るく暖かい。突き当たりには天蓋付きのベッドがあって、ロイヤルブルーのベッドカバーがぽっこりと丸く盛り上がっているのが見えた。

「殿下」

 ベッドに近づいてそっと布団をめくり上げてみる。布団の奥に金色の髪の毛が見えた。

「で~んか」
「――――」

 つとめて明るく声をかけたけど返事はない。でももぞりと動いたので眠ってはいないようだ。

「殿下、おやつにしませんか?」
「――――いらない」

 おや、返事があった。

「今日は殿下のお好きなジャムのクッキーもありますよ。それもイチジクのジャムとあんずのジャム! はちみつケーキにアップルパイ、それからナッツのたっぷり入ったクランチも」
「それはサーナの好物だろう」
「ばれました? それにミルクティーにお花の砂糖漬けが乗った角砂糖も用意させますよ」

 くぅ、とベッドの中からかわいらしい音が聞こえた。そりゃそうだ、ちょうどおやつの時間だもの。

「さ、サーナのおやつにつきあってくださいな」
「――――ここでたべるんだったら、たべる」
「よし、今日は特別ですよ。今持ってきますから待っていて下さいね」

 ドアの外でこちらをうかがっていたシシリーさんにお願いしてお茶とおやつをワゴンで運んできてもらった。侍女さん達にはそのまま待機してもらって私ひとりがワゴンを押して殿下の元へ戻る。

「クリストファー殿下、おやつですよ。でもせめてベッドからは出ましょうね。お布団がお菓子のかすだらけになって、お休みになるとき痛いですよ」

 そう話したらもそもそと布団から出てきた殿下は目の周りが赤い。泣いていたんだろうか。それにしては泣き声も聞こえなかったけど。
 ばつがわるそうな表情だったのでそのことには触れず、勉強用の椅子に殿下を案内して私はエドガー先生用の椅子に座った。

「さあて、何からいきますか」

 たっぷりと湯気の立ったミルクティーのカップに約束の角砂糖を添えて机に置き、お菓子のお皿を見せた。クリストファー殿下はちらりと視線をお皿に走らせてから「アップルパイ」と小さい声で答えてくれた。
 りんごの砂糖煮がぎっしり詰まったアップルパイをひとつお皿に載せて手渡してから私は私のお皿にも一切れ乗せて、そこにナッツのクリスプをひとつ添えた。
 クリストファー殿下はさくさくのアップルパイをのろのろと口に運び、ゆっくりと食べ始める。

「あまい」
「甘すぎますか? 私はちょうどいいですけど」
「あまいけど、すっぱい」
「それが美味しいんですよね」

 こっちのりんごは紅玉みたいにすっぱいりんごが多いらしく、こうやって砂糖煮にしても酸味がはっきりとしている。子供にはこの酸味はきついのかな、と思ったけど殿下は平気そうだ。
 しばらく黙々とパイを食べていたけれど、やがてフォークを置いて小さな声で殿下が言った。

「怒らないの?」
「そうですねえ、ものを粗末にしたのは良くないと思いますけど」

 私もフォークを置いてクリストファー殿下の目を見た。

「殿下は理由もなくそういうことをしないと思うので」
「――――!」

 その時のクリストファー殿下の表情をどう表したらいいだろう。見ているこっちが切なくてたまらなくなるような、何かが溢れ出してしまいそうな切羽詰まった顔。
 こんなに小さいのに、この子は何をそんなに抱え込んでいるんだろう。

 殿下の隣に移動して、衝動的に彼をギュッと抱きしめた。本当は何か言うべきだったのかもしれないけれど、何を言っていいかわからない。慰めの言葉? 同調する言葉? 理由を尋ねる言葉?
 そのどれもが正解ではない気がして、クリストファー殿下の頭を抱え込んでギュッと抱きしめた。

 クリストファー殿下はしばらく抵抗していたが、やがて力を抜いて肩を震わせ始めた。ドレスの胸のあたりが暖かく湿っていく。それでも殿下は声を上げなかった。少しすすり上げる音がするだけ。
 しばらくして小さな声が聞こえた。

「僕は……魔法が使えないから父上の跡継ぎになれないって」
「えっ」
「僕がお勉強してることは無駄なんじゃないの? 父上だって厳しいのは僕をきらいだからなんでしょ? 魔法が使えないから」
「殿下、そんなことは」
「それにみんないやな顔で笑うんだ。殿下、殿下って。さすが殿下、陛下のお子様ですって――――僕じゃなくて殿下に、なんだ。さすがだなんて全然思ってないくせに」

 話が飛び飛びだけど、いろいろなことがないまぜになってクリストファー殿下の心を押しつぶしているらしいことだけはわかった。
 私はカウンセラーじゃないからどうするのが正解かわからない。ただ抱きしめるしかできなかった。

 そのまましばらく沈黙が続いて、私はふと気がついた。
 この子は誰かに抱きしめてもらっているのだろうか。お母さんはいなくてお父さんは忙しくて厳しい。まわりにいるのは侍女さんたちだけど、殿下のことを抱きしめてはくれなさそうだ。
 私はクリストファー殿下をもう一度ギュッと抱きしめ、髪をそっと撫でた。
 けれど殿下は突然ガバッと私から離れた。

「――――サーナ、今のは全部忘れろ」
「え?」
「いいから忘れろ! 王族たるもの、弱みを見せるわけにはいかないんだ!」

 視線を合わせようとしない殿下の顔は真っ赤。でもそこにいるのはいつものクリストファー殿下、さっきまで押し殺した声で泣いていた子どもじゃない。
 ホッとしたような、痛々しいような。
 そして殿下はアデラさんたちのいる部屋へと続く扉をチラチラ見ている。
 あ、出ていきにくいのか。

「ひょっとして顔を出しにくいですか?」
「う、うるさい! そんなことはない!」

 言うなり立ち上がってずんずんと扉へ近づいた。
 ――――で、扉の前で立ち止まる。
 ふふ、しょうがないなあ。

「クリストファー様、散らかしたお部屋を私と一緒にお片付けしましょう」
「え?」
「ですから、お片付けしましょう」
「あ、ああ……」

 私は敢えて「クリストファー様」と呼んだ。
 あの言葉を聞いたあとでは「殿下」って呼ぶよりいいと思ったから。それに多分私の立場なら不敬にならない……はず。

 クリストファー様はドアノブを握り、深呼吸してから私に振り向いた。

「――――クリスだ」
「はい?」
「だから! クリストファーでは長すぎるからな、特別にクリスと呼ばせてやる! わかったか!」
「――――はい、クリス様」

 そうしてやっとプライベートルームから出たクリス様は、私と一緒にバラバラになったクッションの綿を拾い集めてギュウギュウとクッションの布の中に詰め込んでいった。ちなみに他のものはすでに侍女さんたちが片付けたあとだったので、まだ残っていたクッションを片付けたのだけど、クリス様は結構悪戦苦闘していた。入れてもぽよんと出てきてしまう綿を頑張って詰めて、全部入ったときは「できた!」と満足げな表情をしていた。

 その顔を見てアデラさんたちがとてもびっくりした顔をしていたのが印象的だった。
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