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30.

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 陛下からのプロポーズを受けて数日後。

 私は陛下の私室にいて、ソファーに座ってクリス様を待っていた。陛下の侍女さんが香り高い紅茶を淹れてくれていたけど、緊張であまりよくわからなかった。
 となりには陛下が座っていて「大丈夫だ」と手を握ってくれた。でも緊張しないわけがない。だってこれからクリス様に陛下と私の結婚のことを伝えるのだから。絡まる指が力強くて、そこから安心感が流れ込んでくるようだ。

「大丈夫だ。クリスはサーナが側にいてくれるなら俺が誰かと結婚して新しい母親ができてもいいといっていたから」
「本当に新しいお母さんが私だって伝えていないんですか?」
「サプライズだよサプライズ。大好きなサーナが母親になるんだ、クリスが喜ばないわけがないだろう」
「だといいんですけど……」

 だって小さな子どもにとって「お母さん」っていう存在は世界のすべてなんだもん。離ればなれになって何年か経っていても、クリス様の中でその存在の大きさが消えることはないんじゃないかな。

 私は私が「本当のお母さん」に取って代われるとはこれっぽっちも思っていない。
 それでももし拒否されたら辛いなあ――私がクリス様のことをかわいくてしょうがないからなおさらそう思うんだろうな。

 でもひとつだけ決めていることがある。
 結婚しても絶対にクリス様に淋しい思いをさせないようにしようって。
 結婚したら、私も王妃様になるんだから公務をこなさなければならない。今ほどべったりとクリス様と一緒にいられなくなるわけだから、今より寂しい思いをさせることになる。私自身が身寄りがないこともあって、親切な施設の先生や友達がいても決して埋められない何かがあることを知っているから。

 やがてノックの音がして、ふわふわの金髪が現れた。

「父上、クリストファーで……サーナ?」

 入ってきたクリス様の青い目が大きく見開かれる。何で私がここにレーンハルト陛下と一緒にいるのか、驚いているみたい。
 今はクリス様は日課の勉強時間が終わったところ、本来なら私は離れの自分の部屋にいるはずの時間なんだ。それが陛下の執務室にいるんだから、不思議に思うよね。

「よく来たな、クリストファー」

 陛下は立ち上がってクリス様に歩み寄り、私の隣に座るよう促して自分は向かい側の一人がけのソファーに腰をおろした。

「クリストファー」
「はい、父上」

 クリス様がぴっと背筋を伸ばす。

「この間、母親が欲しいか聞いたな。覚えてるか?」
「はい」
「で、だ。実はクリストファーの新しい母親が来ることになった」
「――!」

 クリス様が大きく目を見開く。そりゃあ驚くよね、前に話をチラッと聞いていたとしても大きな変化だもの。
 でも、クリス様はどこか驚くというよりショックを受けているみたいだ。

「新しい、ははうえ」
「ああ、そうだ」
「――」

 クリス様が少しうつむいて膝の上の手をギュッと握りしめている。知らない人が突然「あなたのお母さんよ」って来るなんて、まだ幼いクリス様には考えられないのかもしれない――それだけミカエラさんのこと、実のお母さんのことが大好きなんだなあ。

「サーナは? サーナは今まで通りボクの世話役のままですか?」
「まあ、ちょっと立場が変わるが世話役に近い役割になる、かな」

 クリス様の必死さに気がつかないのか、レーンハルト陛下はからかうように話す。ほら、みるみるクリス様の目がうるうるしてきちゃたじゃない!
 思わず陛下を睨みつけてしまった。陛下も「まずった」という顔をして一つ咳払いをした。

「クリス、安心しなさい。おまえの新しい母親は、おまえの隣にいるよ」
「隣――え?」

 クリス様の目が私を捉える。私はその視線に頷き返してみせた。

「はい、私です」
「サーナ、が、ははうえ……」

 様子がおかしいと気がついたときにはクリス様の目からボロボロ涙が流れ始めていた。

「い、やだっ! サーナ、が、ははうえになるなんて、いやだっ!」

 返ってきた言葉は激しい拒絶。驚きとショックで私はそのまま動けなくなってしまった。興奮したクリス様がそのまま続ける。

「サーナは今のままがいい! サーナがあんなふうになっちゃったらやだああああっ!」

 最後の方は完全に涙声になっちゃってる。慟哭ともとれる声を上げながら、クリス様が私に抱きついてきた。
 あれ? 嫌われてるわけじゃない?
 ますますわけがわからないけど、ついに泣き出した子を放っておくことなんかできるわけがない。慌ててクリス様をギュッと抱きしめた。
 今、「あんなふうになっちゃったらいやだ」って言ってたよね? じゃあお母さんになったら私が今と変わっちゃうと思ったんだろうか。

 うーん、確かに陛下と結婚するってことは私は王妃様になるってことで。王妃様の仕事は確かに忙しいだろう。だから今までみたいにずっとそばにはいられないかもしれない。そのことを言ってるんだろうか。
 それにしては反応が激しすぎるような――

「クリス様? サーナは何も変わりませんよ。今まで通りクリス様のことを大好きなサーナですよ」
「だって……っ、母上だって大好きって言ってたんだ! なのに、全部嘘だったんだ」
「嘘? 大好きだって言ってたのにいなくなっちゃったから?」
「違う――大嫌いだって、気味が悪いから近づくなって」
「――えっ?」

 虚を突かれるとはこのことだ。とっさには何を聞いたのか理解ができない。
 ミカエラさんが面と向かってそう言ったの? それともそう言ったように勘違いしてるの?
 私はミカエラさんという人を直接知らない。だからどちらが正解なのかわからない。

「クリストファー。ミカエラがおまえにそう言ったのか?」

 同じ疑問に至ったんだろう、私の聞きたかったことは陛下が聞いてくれた。途端に腕の中でクリス様がびくっと震える。
 怯えてるの?


「だっ、て、父上に話したらダメだって……」
「誰が怒るんだ? ミカエラか? ミカエラはここにはもういないぞ、心配するな。それに、ミカエラと俺のどっちが偉いと思う? うん、俺だ。なら、クリスは俺が聞いたことに答えるだけだ、ミカエラはクリスを怒ることはできない」
「――本当に?」
「ああ、本当だ。もしミカエラがクリスのことを怒ろうとしたら、俺がミカエラを怒ってやる」
「――」

 しゃくりあげながら少し考え込んだクリス様はやがてうつむいたまま小さな声で話し始めた。

「母上が、ボクを叱ったことを父上に言ったらダメだって」
「叱られたのか? 何で叱られたのか覚えているか?」
「その、ボク、あの頃はまだ魔法が使えてて、母上に褒めてほしくて、魔法を見せたら叱られて」
「何の魔法?」
「水魔法です。その、噴水みたいにしたらきれいかなって思って。でもボク、それで母上のドレスを濡らしちゃっ……て……」

 そこまで話したらクリス様の瞳がまた潤んできて、あっという間にぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「クリス様」

 もう一度ギュッと抱きしめる。
 でもわからない。それを叱られたからこんなに泣いているの?

 視線を上げて陛下と目が合うと、陛下もわからないといったふうな顔をしている。そうだよね、私だってロギィの一件でクリス様のことバッチリ叱ってるんだもん。どうしてミカエラさんのことだけこんなに泣いて――ううん、怯えているのかわからない。

 けれどあまりにクリス様が辛そうに涙をこぼすのでそれ以上追求することはできず、そこで話はおしまいになった。

 ――クリス様に結婚を反対されたまま。
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