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 夕食を終え、私は離れの自分の部屋で外を眺めていた。体調がずいぶん良くなったので、昼過ぎに寝かされていたあの医務室からこちらへ戻る許可をもらった。数日ぶりの自分の部屋は落ち着く。すっかりファルージャに落ち着いちゃってるなあと自分のことながら苦笑がもれてしまった。

 ここから陛下とよく会っていた庭は見えない。なのに窓から外を見ているとなぜだか目がその光景を探している。

「女神の恵み」として公式に発表されること、それが私の身を守ることになるとレーンハルト陛下は言っていた。私が「女神の恵み」だから、王族のそばで保護されていることや陛下とクリス様とも親しくさせてもらっていることには大義名分が立つ、と。
 わかってはいるけれど、その理屈に寂しさを感じてしまうのは私が贅沢になってしまったからだろう。

 クリス様のことは本当にかわいい。今日だって勉強が終わってお見舞いに来てくれたときに「早く良くならないとただじゃおかないぞ!」なんていばりくさっていったのは本当にかわいかった。私がこの子を心底愛おしく思ってしまうのは決して仕事だからだけじゃない。

 レーンハルト陛下は――立派な人だと思う。尊敬すべき王様で、真面目で、でも不器用だから息子に素直に愛情表現するのにワンクッション必要だとか、人としても魅力的だ。それはあの夜の庭で何度かお会いして実感した。
 そして私や彼らを取りまく人々もみんないい人たちばかり。メルファスさん、アシュレイさん、ロゼさん、ソフィアさんにペニーさん。
 もう私はみんなのそばから離れたくなくなっている。

 ――私が女神の恵みなら、少しはわがまま言っていいのかな。たとえ私の本当の立場を公表してよその国に呼ばれてもファルージャにずっといたいって。クリス様と陛下のそばにいたいって。

 そんなことを考えていたからだろうか、窓の外に陛下が歩いてくる幻が見えた。
 幻の陛下は夜目にも映える白のマントを着て、髪もきっちりと整えてある。式典の話なんか出たからそんな幻を見てしまったんだろうか。
 私のいる離れに向かって歩いてくる陛下の幻はまっすぐ歩いていたが、ふと顔を上げ私のいる窓を見上げた。そして私と目が合い、にっこり笑ってマントから出した片手を軽く上げる。よくできた幻だなあ――

「サーナ! 起きていて大丈夫なのか」

 じゃない。
 あれ、本物の陛下だ――!

「どうなさいました、サーナ様」
「ソフィアさん、あれ、陛下、ですよね?」
「あら、まあ」

 控えていたソフィアさんが窓の外を見て思わず声を漏らす。うん、驚くよね。私も驚いてる。
 急いで私は自室のある二階から階段を降りて一階へ向かった。玄関ドアを開けるとレーンハルト陛下まで少し驚いた顔をして立っていた。

「陛下、お一人なんですか? 護衛の方は?」

 思わず詰め寄ってしまった。お城の敷地内とはいえ、彼のような立場の人に護衛がいないなんて危なすぎる。

「これでも鍛えてるからな、大丈夫だ――と言いたいところだが、少し離れた所にいるはずだ」

 ああよかった。それが表情に出たのだろう。陛下が「心配してくれたのか」とやわらかく微笑んだ。
 とたんにドキッと跳ね上がる私の心臓よ、落ち着け。どうどう。陛下がイケメンで、本当はとっても優しい人だってことはとっくに承知の上じゃない。

「サーナ。顔が赤いぞ、まだ熱が」
「あっ、ありましぇん!」

 噛んだ。
 一瞬の沈黙の後「失礼」と断ってから後ろを向いた陛下、肩が小刻みに震えてる。いいんですよ、面と向かって笑って下さっても。

「すまない、夜に訪ねておきながら。中に入っても?」
「あっ、すみませんいつまでも玄関に立たせておくなんて。どうぞお入り下さい」

 道を空けて陛下を屋敷の中に招き入れる。そのときふと感じた違和感――いつもとは違うレーンハルト陛下の雰囲気に気がついた。いつもよりどこか固い雰囲気をまとっている気がする。
 もしかして、私の立場を公表することで何か問題が発生したんだろうか? そう気がついて何だか不安になってきた。たとえば他国から苦情が来たとか――

「へっ、陛下! 何か問題が起こったんですか?」

 レーンハルト陛下を追いかけるように応接室に入った私は勢い込んで聞いてしまった。陛下はまだ座ってもいないしマントを脱いでもいないのに礼儀知らずかもしれないけれど、気がはやってしまったのだ。
 けれど陛下は首を横に振った。

「いや、特に問題はない。問題はない――が」
「――?」
「あるとしたら俺自身の弱さ、かもしれない――ソフィア、すまないがサーナと二人きりで話したい。席を外してくれ」

 それまで応接室の壁際で控えていたソフィアさんが「かしこまりました」と一礼して部屋から出て行ってしまった。
 ぱたん、とドアの閉まる音が聞こえて、途端に私は不安になった。何だろうこの妙な空気は。陛下と二人きりで話をするなんてあの夜の庭でさんざんやっていたのに。

「サーナ」

 陛下が扉近くにいる私の方へ数歩近づく。何か真剣な話があるんだ、そう気がついて私は動けない。

「昨日話せなかったことがあるんだ」

 部屋の中はただただ静かで、空気がぴぃんと張り詰めている。話せなかったことが何なのか尋ねることもできずレーンハルト陛下の言葉を待つしかできない私の鼓動だけが耳の奥に聞こえる。

「サーナがここにいたいともし望んでくれるなら、横槍を入れられにくい確実な方法が一つだけある」
「確実な――方法?」
「この国の男と婚姻を結ぶことだ」
「婚姻……」

 婚姻。つまり結婚。

「え、えええっ! 婚姻って、つまり私が結婚するって」
「そういうことだ」

 待って、ちょっと待って。
 私まだ高校生だよ? 確かにファルージャで結婚してますって言えば他国もおいそれと私を呼び寄せて囲い込むことは難しくなるだろうから確実っちゃ確実だけど、さすがにそれは思考の外だった。日本の法律でも年齢的に合法だけど、考えたこともなかったよ?
 え、でも結婚ってことは一人じゃできないわけで――

「あの、でも相手が」
「最初に言っておく。この縁談はサーナが気乗りしなければ断ってかまわない。断ったとしてもサーナの立場が悪くなることはないし、誰も不利益は被らない。今までも全く変わらずここで暮らすことができる」
「は、はい」
「君は自由だ。この国を出て他国へ行くのも自由にしていいんだ。婚姻は君のその自由を阻むものかもしれない。
 ――そうだな、ファルージャにいて欲しいというのはただの我儘なのかもしれない。それでも俺は」

 そこまで言うとレーンハルト陛下は着ていた白いマントを脱ぎ捨てた。少し厚手のマントがばさりと床に広がった。
 マントの下は同じく白の礼服だ。金のモールやレースのタイが陛下のきれいな金の髪に映える。正装? だよねこれ。あまりにカッコよくてドキドキして顔が火照る。

 そして何より目を惹くのは、マントに隠れて見えなかったけれど陛下が手に持っていた――色とりどりの花束。

 赤、白、オレンジ、黄色。
 カラフルなバラがレーンハルト陛下の腕の中で咲き競っている。途端に広がる華やかな香り。むせ返りそうなほど。
 その大きな花の塊が私に差し出された。反射的に受け取ったけど、なかなかの重みだ。一体何輪あるんだろう。よいしょ、と抱えなおしもう一度視線を陛下へ戻したが、私の視線よりも陛下の方が低い位置にいる。
 片膝をついて私を見上げているのだ。

「本来ならもっと場を整えたかったが、状況が状況だ。許せ」

 そして花を抱えていない私の右手をそっと取った。

「サーナ。私の妻になってくれないか」



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