上 下
22 / 37

21.

しおりを挟む
 夢を見た。

 日本の施設で暮らしていた頃の夢だ。

 私は施設の庭で洗濯物を干していて、となりには小さなみいちゃんが立っている。

「今日はお天気がいいからよく乾くねえ」

 白いTシャツが青空にはためくのを見ながら私はみいちゃんに話しかけた。こんな天気のいい日、きっと洗濯物もすぐに乾くだろう。とっても気持ちのいい風にふかれながら私はみいちゃんを振り向いた。

 みいちゃんは笑っていた。にこにこ笑っていた。
 それはいつも見るみいちゃんの笑顔、人なつっこいように見えてまだ完全には心を許していない、はりつけたような笑顔だ。いつもはこの笑顔でマシンガンのように話し続けるのに、みいちゃんはただ笑顔を見せるだけで何もしゃべらない。

 途端に私は不安になる。
 この笑顔の下でみいちゃんはまた心に何かを押し込めているんだろうか。あのときのように。

「みいちゃ――――」

 声をかけようとしたけど声が出ない。みいちゃんの手を取ろうとしたけれど体が鉛みたいに重くて動かない。そして気がついたら爽やかに晴れ上がっていた周囲は暗い。まるで隔絶した空間に閉ざされているようだ。

(みいちゃん!)

 みいちゃんが遠ざかっていく。作りつけたような笑顔に泣きそうな目をして。なきそう――――いや、すべてを諦めたような目だ。

 だめ! 戻ってきて。
 止めたくても止められない。ひき止めるべきだとわかっているのにできない自分に絶望する。
 あのときとおなじなの?
 私はみいちゃんのサインを見逃していたの?
 みいちゃんのことも、誰のことも気づいてあげられないの?

「あ、あ――――」

 うめいた声が喉からすっと抵抗なく出て、そのショックで私は目が覚めた。明かりの落とされた室内はしんと静まり返っていて、自分の今発したうめき声が闇に溶けていくようだ。私は力が抜けて大きく息を吐いた。

「サーナ様、失礼いたします。いかがなされました?」

 その時ノックの音がしてソフィアさんが入ってきた。やだな、うめいてるの聞こえちゃったかな。ソフィアさんが枕元のランプをつけ私を覗き込む。

「ごめんなさい、怖い夢を見て」
「まあ、そうだったんですか」

 ソフィアさんが枕元に置いてある水差しから水を汲んで渡してくれた。自分でも気がつかなかったけど喉が渇いていたらしく、常温の水がとても甘く感じる。
 その間にソフィアさんが水でしぼった布を用意していてくれた。体も汗ばんでたんだなあ……ソフィアさんの気遣いがすごい。

 ああ怖い夢だった――――あれ? でもどんな内容だったっけ?
 心の奥にこびりついているような怖さ、不安感、そんなものだけが名残として残っている。思い出そうとすればまるで煙を掴んでいるようにたよりなく消えていく夢の記憶。
 忘れてはいけないような、思い出すのが怖いような――――

 どんなに心を揺さぶられた後でも等しく朝はやって来る。

「まあ、目の下にくまが」

 ソフィアさんの驚きの声で寝ぼけていた頭が覚醒した。

 昨日の夜、陛下とお話した。陛下にとって私は「女神の恵み」であり、私にとって陛下は「王でありクリス様の父親」なのだ、とはっきりお互いに口に出した。
 夜にこっそり二人で会う、なんて秘密めいた真似をしていたせいで、私は危うくかんちがいをするところだった。ちょっと親しくなった気がしていたんだ。恋とかそういうことじゃないけど、身近に感じ始めていたんだろう。

 きちんと線引きできてよかったじゃない。
 私は今まで通りクリス様の世話役として頑張る。陛下にもクリス様の様子をお伝えする。
 それでいい。

 ――――だけど何だか昨夜は眠れなかった。

 ソフィアさんが用意してくれた水で顔を洗い身支度を整え、クリス様と朝食をとるために食堂へと向かった。
 そう、ちゃんとしなきゃ。私がこの世界へ呼ばれた理由がわからない以上、できることをしてしっかり役に立つって決めたじゃない。それがお世話になっているお返しだって。
 いまの私にできること、それは与えられた「世話役」という仕事をがんばること。
 ソフィアさんに案内されながら私は手をぎゅっと握りしめた。

「サーナ。何考えてるんだ?」
「はい?」

 その日の午後、クリス様が口をとんがらせて言った。
 なにかまずいことしたかなあ? 私は首を傾げた。

 今はこの日の勉強などの予定が終わり自由時間。クリス様はここのところ庭の散策がお気に入りだ。以前ロギィを捕まえたこともあったことからわかるように、クリス様は動物が大好き。城内の庭を隅から隅まで探検し、なにかしらの動物や鳥、虫などを見つけては観察したり時には絵を描いたりもするようになった。絵はお世辞にも上手とはいえないけれど、特徴をとらえようとする観察眼は鋭いと思う。
 今も厩舎に来てパーシェルの絵を一生懸命描いているところだったりする。

「ええと、クリス様はよくパーシェルを観察してるなあと感心していたところです」
「そ、そうか? ――――いや、サーナはなんだか今日は違うこと考えてる。僕に隠そうったって無駄だからな! サーナはすぐ顔に出るんだからな!」

 安定のタカビーな態度満載で胸を張るクリス様、かわいすぎる。
 いやいや、それよりもそんなに変な顔をしていたんだろうか、私。
 違うこと考えてたって――――まあ、レーンハルト陛下との会話が頭の中をぐるぐるしてるのを必死に考えないようにしてはいる、けど。

 それか。

「いえ、実は今日は少しだけ頭が痛くてですね。そのせいかと」

 頭が痛いのは本当。寝不足のせいだと思うけど。

「頭? 痛いのか?」

 クリス様が描いていた絵をぱっと置いて私のところへ駆け寄ってきて、必死に手を私の顔に向かって伸ばしてきた。何をしてるんだろうと思わずその必死そうな顔をじっと見ていたらクリス様に怒られてしまった。

「気の利かないやつだな! 少しかがめ、手が届かないだろう!」
「かがむ? こうですか?」

 軽く腰を折って顔を低くした。すると小さなクリス様の右手が私の額にぺたりと貼り付いた。そして空いている左手をクリス様自身の額にあてて――――あれ? ひょっとして。

「うん、熱はないようだなっ」

 あ、熱を測ってくれたんだ。
 うわ、どうしよう。かわいい。
 内心萌え萌えなのを表情に出さないよう気をつけつつ笑顔を作る。

「大したことないんですよ。心配してくださったんですね、ありがとうございます」
「だ、誰が心配なんか! ――――そりゃちょっとは大丈夫かなって思ったけど……って、サーナ!」

 はっと気がついたときにはクリス様を抱きしめてた。
 サラサラの金の髪、世界をまたいでも共通の男の子独特の匂い。腕の中にすっぽりおさめるとちょっとびっくりしていたけどすぐにおとなしくなり、少し私に体重をかけてくる。
 ああもう、なんでこんなに可愛いんだろう!
 髪の毛をワシャワシャなでて――――

 そこでハッと我に返りました。
 この子、王太子様だから!
 でもいつの間にかぺったり寄り添ってくれているクリス様を無碍に離すこともできなくて。
 だってすごく幸せそうな顔してるんだもん。

 そのままクリス様が我に返るまでそのまま抱きしめていたのだった。

 夜になり室内で本を読んでいたクリス様が大きなあくびを一つした。そろそろベッドに入る時間だ。
 そもそも本を読んでいるというよりも考え事というか言いたいことがあるようで、考え込んだりチラチラこちらを見たりしていたから本の内容はあまり頭に入っていないだろう。
 あくびを合図に私はクリス様を促した。

「さあクリス様、お休みの時間ですよ」
「あとちょっとだけ読みたい」
「また明日にしましょう。ほら、本は逃げませんから」

 何とかクリス様を着替えさせベッドに押し込め、いつも通り挨拶をした。ここから先は侍女さんたちが担当なのだ。

「では私はこれで。ゆっくりお休みください」
「あ、サーナ……」

 けれどいつもと違いクリス様がか細い声で私を呼び止めた。扉へ向かっていた足を止め振り向くと、口の中でもごもご言いながらまた私をチラチラ見ている。何か言いづらいことがあるんだな、とクリス様の言葉を待った。
 やっと私に視線を定めてクリス様が聞いた。

「その――――あの時はどうしてぎゅっとしたんだ?」
「ぎゅっと……お庭でのことですね。ひょっとしてお嫌でしたか? もし嫌だったら」
「いやじゃ、ない」

 再び視線をそらしぽそりとつぶやかれた言葉はどこか子どもらしい色を含んでいてこれまた微笑ましい。
 自分の顔がにやけてしまうのがわかる。

「あれはクリス様があんまりカッコよかったから感動したんです。クリス様がやさしいいい子だったからうれしくなったんです」
「――――そしたら、またいい子だったら……なんでもない」

 言いかけたのを途中でやめてクリス様はガバッとベッドにもぐりこんでしまった。
 けれどクリス様の胸に飲み込まれた言葉が私には想像できる。扉の前で立っていた私はもう一度クリス様のベッドに近づき、掛け布団から覗く金色の髪をそっと指ですいた。

「クリス様が許して下さるならいつだって」

 布団の上からぎゅっとクリス様を抱きしめ、金の髪の間に覗く額におやすみのキスを落とした。その間クリス様は固まって動かなかったが、布団の奥から「――――いつでもゆるす」とうわずった声が漏れてきたのを私は聞き逃さなかった。
しおりを挟む

処理中です...