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 レーンハルト陛下から手紙を受け取ったのは昼前、クリス様の勉強時間中で私はアシュレイさんのところへ話をしに行ったときだ。

「まずはこちらを」

 アシュレイさんが手渡してきたその手紙に心当たりがなく首を傾げていると、アシュレイさんはにっこり笑って言った。

「レーンハルト陛下からです。正式にクリストファー殿下の様子をお話しする時間を定期的に取りたいとのことでしたので。ああ、誰か付き人を連れて行ってくださいね」

 にっこり笑っているけど、なんか――――怒ってる? どこか目が笑っていない。

「アシュレイさん、その」
「はい?」
「なにか……怒って、ます?」
「ええ、レーンにね。サーナ様にはむしろ申し訳なく思っています」
「え? どうして」
「だってあり得ないでしょう。サーナ様のようなうら若い女性と夜二人きりで会うなど。悪い噂を流してくれと言っているようなものです」

 あの三人組のことかと合点がいった。

「レーンもさすがに夜に二人きりで、というのは反省したようです。なので、今度からは侍女ないし護衛を連れて行って下さい。いいですね?」
「――――はい、私もうかつでした。ごめんなさい」
「あ、いや、私の執務室へお呼びしていたことも一因にはなっているのですが、私との時はきちんとソフィアを連れてきていましたからね――――それよりサーナ様」

 アシュレイさんの顔がおだやかに緩む。

「サーナ様はお嫌じゃないですか? 陛下と二人で会うことは」
「とんでもない! 陛下は忙しい王様としてのお仕事をこなしつつ、きちんとクリス様と向き合おうとがんばっていらっしゃるんです。私はそれがうれしいんです」

 だって私は知っている。世の中には実の親に無視されたり暴力をふるわれたりしている子どもがいるってことを。
 施設にもたくさんいた。
 ふとそんな子たちの顔が脳裏を横切った。
 その頃の私は今よりももっと子どもで、あの子たちに何もしてあげられなかった。そんな無力感は今でも私の胸のうちにくすぶっている。
 だからこそうれしい。クリス様が少なくともお父様に確かに愛されていることが。

「ならいいのですが。ひとまずこちらの書状の通り会いに行ってやってくださいますか」
「わかりました」

 私自身に託された使命なんてものはわからない。でも、少なくともクリス様とレーンハルト陛下の間をつなぐ橋くらいにはなれる。私は私にできることをがんばるんだ。

 そして胸の奥のもやもやには蓋をするのだ。

 そして今夜も私は庭園に歩き出た。
 朝受け取った手紙には今夜この時間にいつものベンチで待っているとあった。アシュレイさんの言っていたとおり「付き人を連れてくるように」という文言も入っていた。

 夜の空気は少し肌寒くて、私は羽織っているショールの前をかきあわせながらいつものベンチを目指す。
 ひとつだけ違うのは、今日は護衛役の女騎士ペニーさんが一緒ということだ。約束通りひとりでは行かない。
 遅い時間につきあわせてしまって申し訳ない、とペニーさんに伝えたら

「むしろ連れて行っていただけないことの方が悲しいですよ。私はお二人のお話は聞こえないところに控えておりますのでご安心下さい」

 なんて言われてしまった。
 今まで人を使ったことなんてないから、どこまでをお願いできてどこまでがだめなのかわからないんだよ……!

 大きな木の下にあるいつものベンチが見えてきた。と同時にベンチに座る人影が見えた。背もたれに寄りかかり片腕も背もたれに乗せてぼんやりと夜空を眺めているその人の髪は空の星と同じ金色。そしてその瞳がきれいな水色だってことはここからよく見えなくても私は知っている。

「陛下」

 呼びかける声に振り向き、灯りの下で微笑む顔はいつもより精彩を欠いている。
 呼ばれるままに陛下の隣に座る。その頃にはペニーさんは姿を消していて見当たらない。少し離れたところで待っていてくれるのだろう。
 チラチラと周囲を見回していたら「サーナ』と名前を呼ばれた。

 勧められるままいつも通り陛下のとなりに座り陛下の言葉を待つ。ベンチは夏の頃よりもずいぶんとひんやりする。石造りのそれにはクッションが敷いてあり、その上に座ればじんじんと冷えてくることはないのだが、そのクッション自体が冷たくなっていて季節の移り変わりをはっきりと表し寒くないか」
「大丈夫です。ちゃんとショールも巻いてきましたし」
「ああ。よく似合ってる」

 さりげなく褒められてひんやりしていた空気が暖かく感じる。
 なのにどうしてかそこから会話が始まらない。
 いつもならクリス様のことで話すことが一杯なのにどうしても話すことが浮かばない。ほら「あこがれの芸能人」に会ったときに好きすぎて言葉が出なくなる、あれに違いない。
 だってレーンハルト陛下は私にとってそういう立ち位置のはずだから。
 だからこんなに緊張して――――

「――――サーナ、すまなかった」
「ひゃ、ひゃい」

 噛んだ。恥ずかしい。
 でも陛下はそんなことに気がつかなかったかのようにぽつぽつ話を始めた。

「俺がこの周りに結界を張っている限り俺たちの姿は見えないし声も聞こえない。自分はこの国一番の魔力を持っていて他の人間がこの結界を破ることはほぼ不可能だ。だから第三者に俺とサーナがこうやって会っていることを悟られる心配はない。
 だから油断していたんだ。あの時驚いて結界が揺らいだことに気がつかなかった。そのせいで――――いや、そもそも俺が妙な意地を張ったからいけないんだ」
「意地――――ですか?」
「ああそうだ。クリスのことをこんなに放置していたのに今更知りたいだなんて、親として情けないだろう? たぶんそんな考えが俺の中にあって、だからサーナにクリスのことを教えてもらっていることを誰にも知られたくなかったんだろうと思う。そう意識してやっていたわけじゃないが、本来なら未婚の女性と夜の庭で二人きりなんてあるまじきことだ。なのに護衛も侍女もいない状態のまま……」

 レーンハルト陛下が顔を伏せた。
 そんなふうに考えていたの?

「そんなことないです。私の方でも気をつければよかったんです。陛下はクリス様のためにがんばっていらっしゃる、それが大事じゃないですか」
「だが――――! そのせいでサーナが言いがかりをつけられたと聞いた。それに、サーナが『女神の恵み』であることを伏せるように指示しているのも俺だ。『女神の恵み』だとわかっていればあの者たちにあのように侮られることもなかっただろうに」
「それこそその立場は私自身の功績ではありませんから。私、自分がそんな高い身分だなんて思えないです」
「サーナ、君は」

 レーンハルト陛下のせいじゃない。そういう気持ちを込めて陛下を見つめた。
 陛下の向こうには庭の街灯があって、陛下の顔は少し逆光気味。なのにその澄んだ青い瞳の色がわかる。何かを求めてやまないような、揺れる瞳の色が。
 そして私はその瞳から目が離せなくなっていた。

 まるで時が止まってしまったかのように。

 どれだけそうしていただろうか。そんな逆光の中で突然苦しそうに陛下の顔がゆがむ。その青い瞳を伏せ、その心の内で何かと戦うように。

「陛下?」
「――――サーナ、俺は、俺たちは君を召喚してしまった責任がある。住み慣れた土地をひとり離されてどれだけ不安で心細いか想像に難くない。だから、だから――――君を守らせて欲しい。君の身を脅かす者からだけでなく、あの女性たちのような悪意からも。君は大切な――――」

 レーンハルト陛下が一瞬言いよどむ。言葉を探すように視線を動かし、それから静かに続けた。

「大切な、女神の恵みだから」

 そう告げた陛下の瞳は伏せたまぶたに遮られて私からは見えなかった。
 そして陛下の言葉は私の心の奥を少しだけすりつぶす。
 大切な女神の恵み。女神の恵みだから――――だからみんな私のことを大切に扱ってくれる。
 わかってる。わかっているの。陛下にとって、ファルージャにとっては私に価値があるんじゃなくて、女神ロリスから遣わされたという事実が大切なんだってこと。はっきり言葉にしなくってもわかってる。

 なんだか寒い。急にそう感じてショールをぎゅっと握って胸の前にかき合わせた。けれどちっとも暖かくならない。私はベンチから立ち上がった。

「――――冷えてきましたね。そろそろお部屋へ戻ります」
「サーナ」

 名前を呼ばれて陛下に背を向けたまま立ち止まる。でもこのまま会話を続けるのはちょっと辛くて言葉が口から出せない。

「サーナ……迷惑だったか? 城で君を保護することや、クリスの世話役を頼んだことや、こうやって時間を作ることや」

 振り向かないまま首を横に振った。迷惑だなんて思っていたらこんなふうにクリス様のことを楽しく話さない。庭で陛下と話をすることもなかったかもしれない。

「私、クリス様のことがかわいいです。そして陛下は――――尊敬する王様で、クリス様のステキなパパです。だからこうやってお話しできて光栄だと思っています」
「なら、これからもこうして話を聞かせてくれるか? もちろん付き添いをつけて、執務室で」
「――――はい」

 おやすみなさい、と小さくつけくわえて私はその場を後にする。
 背後から陛下の声は聞こえなかった。

 うん、これが正しい返事のはず。私の気持ちも正しく伝えたはず。

 風も吹いていないのに私の身も心もずっと寒いままだった。
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