悪魔の公爵

月野犬猫先生

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  雑巾を絞った手が悴む、真冬の鳥小屋。
  リアンは急いで離れ家に戻ると空のバケツに水を汲み、鳥に餌をやり、土で汚れた衣服を少しはたいた。
  そして慣れた手つきで鳥小屋の檻をしめ、「またね」と餌を突つき合いながら取り合う鳥たちに挨拶をするとその場を後にする。
  そして皮の剥けた煤だらけの手を井戸から汲んだ水で軽く濯ぐと、そのついでに顔も洗う。
これがいつもの日課。まだ日も出ないこの時間に鳥小屋を掃除し、餌をやり、水を汲むのがリアンの仕事なのだ。
  疲れは出るけれど、これをサボるとまた継母がリアンの頭を殴ったり蹴って、更にはお手伝いさんに言いふらし、お手伝いさんにも叱られる事がわかっていたから、リアンはずっと欠かさずにこなしてきた。
  リアンは、ふと空を仰ぐ。
  体の芯からどっと疲れが出て、もうヘトヘトだった。
  疲労と空腹。
  リアンはお腹をさする。するとお腹が大胆に鳴り響いた。
  リアンは慌てて周りを見渡す。
誰もいないことはわかっているけれど、誰かいたら大変だ。
(みんなが起きる前に、お菓子ひとつでもいいから食べたい……)
 リアンは離れ家からお屋敷に戻ると、裏口の扉を使ってそっとキッチンに入り込んだ。
  静まり返るキッチンでリアンは食料を漁る。
  この時間になってもこの広い屋敷にはまだ起きている人はおらず、リアンの足音だけが時計の音と共に鳴り響く。
 リアンはなるだけ背を縮こませ、音を最小限にした。
 あの人たちが起きてくる前に行動しなければ、また何か言われてしまうんだーーー
 リアンは食料庫からお菓子をひとつ手に入れるとそのまま急いで階段を登り、自分の部屋ーーーとはとても言えない、古い書物置き場だった1階の物置部屋に戻った。
 昨日の夜から何も食べていなかったから、お菓子は三口ほどで食べ終わってしまった。
 またの一貫として、リアンの食事が昨日の昼からお預けだったのだ。
 ここ暫く、そういう日が続いた。
 あの人の体調と気分が優れない日は躾もかなり厳しくなる。
 リアンは身を縮こませると、前より痩せてしまった体をさする。

    あの人ーーーーそれはリアンの継母の事だ。
   リアンが10歳の時に病気で亡くなった実の母親の代わりとして父親と再婚したのだ。
ーーーよく覚えている。
自分で歩くことも、食べることもままならぬまま弱り果てた実の母親、ソフィアにつきっきりでいたリアンに対し、父親はとても冷たい態度をとった。
   もう他に好きな人がいるから心残りはないーーーー父親は最期の母親にそう言い残した。
   母親は仕方ないと笑っていたけれど、思っている言葉ではないと幼いながらにリアンにはわかっていた。
   そして母親が亡くなった翌日、父親は待ち侘びていたかのように、新しい女とすぐ再婚した。
   それが今の継母ーーーーマリアンヌ。金持ち貴族の愛娘だった。
  ーーーーお前に若くて綺麗で周りに自慢できる母親が出来て良かったじゃないかーーーー泣きじゃくっていた自分に対し、父親にそう言った。リアンはそれが許せなかった。
    確かに若くて綺麗な女性だった。いつも華やかで周りの目を惹く。
  でも父親の財産目当てなのはリアンにもわかっていた。
 何故ならリアンの父親は、金持ちのジーヴァ公爵家の一人息子だったからだ。
  最初ーーー実母ソフィアと結婚する前、父親には婚約者がいたという。しかし、村の開拓を調査に仕事に連れられた父親はイングランドの村で一番貧乏な家の娘、ソフィアに一目惚れをし求婚しーーーーそしてリアンが産まれたのだと、母親からそう聞かされた。
  しかし、リアンは母親や父親のような、綺麗なブロンドヘアーでは無かった。
  黒髪で、黒い瞳。どう見てもイギリス人から産まれた血筋の子供とは似つかわしい容姿。
 父親はすぐ母親の浮気を疑い、リアンを冷たくあしらった。
 それから暫くリアンは母親と2人で暮らしていた。
 けれどリアンが8歳の時、母親は謎の重い病におかされてしまい、ベットから起き上がることもできなくなった。
   リアンは母親のことが大好きだった。
   いつも花の香りがして、笑顔は優しくて、怒った顔など誰一人として見たことがなかったという。
   そしてリアンの頭を優しく撫でてはいつも子守唄を歌ってくれた。
   そんな母を父親は捨てた。そして自分のことすらもーーーーリアンはそう思った。
   父親が幼いリアンを引取りに来た時、リアンは母親の元を離れないと言った。しかし、母親はこの時既に息を引き取っていたため、1人では何も出来ない子供のリアンは仕方なく、再婚しイギリスの街に建てられた新しい父親の御屋敷の子供として暮らすことになったのだ。だが、新たな家でのリアンへの扱いはとても酷かった。
  継母はまず、リアンの見慣れない髪色や瞳の色を気持ち悪がった。そしてまた、実母の連れ子ということもあり、躾と称した嫌がらせをしてくる日々が始まった。毎日の掃除の日課も1つでも怠ればご飯は貰えないしお風呂にも入れないーーーそして少しでも逆らえば、実母の血が汚いからだと、貶し始める。まるで奴隷だった。
   お手伝いさんやメイド、執事はそんなリアンをみて気の毒に思い、たまにお菓子を分けてくれたりもするが、マリアンヌに仕えているため逆らうことは出来ないのか、それ以上リアンに助けの手を差し伸べてくれることは無かった。ただただ奥様を怒らせぬようにーーーーと、そう口を酸っぱくして言うだけだった。

「もう疲れたよ……お母さん」

リアンはふとそんな言葉を漏らした。
  その時だった。
ドカドカドカ!と、扉の向こうから足音が聞こえるかと思いきや、突然ドンドンドン!とドアを激しく叩かれた。
「ちょっと!リアン!起きてるの?奥様が、奥様が!」
「え、どうされたんですか…?」
「子供を身篭ったのよ!」

ーーーーえ?

継母が子供を??

  リアンは驚きながらも急いで立ち上がり、お手伝いさんと共に継母のいる2階の広間へと向かった。


ーーーー
ーーーーーーーー

  広間につくと、マリアンヌは既に正装に着替えていた。
近くには執事やメイド、父親もいた。
「遅かったわね、リアン。いつまで寝ているつもり?」
「申し訳ありません。お母様」
リアンはそういって頭を下げつつ、体に力を入れるように目をぎゅっと瞑った。
しかし、今日は大勢がいるからかいつものように頭を殴ったり、はたかれたりはしなかった。
「まあ、いいわ…。今日はリアンにとって凄く嬉しいお知らせがあるのよ」

ーーーー僕にとって?継母にとってじゃないのか?

「私は子供を身篭ったわ。きっと息子よ」
マリアンヌの満面の笑みに、リアンは顔を伏せた。
「おめでとうございます…」
「ふふ…だから跡継ぎが出来たわけ、ようやくね」
ーーーー跡継ぎ。
その言葉を聞き、リアンはハッと顔をあげる。
「だから今日であなたの役目も終わり」
「お、お母様。それは…どういうことでしょうか…?」
「あら、ちゃんと言わないと分からないかしら?あなたは、この屋敷の仮の子供だったの。でももうそれも必要ない。私たちの血を受け継ぐ子供が産まれるのだからね。だから今日で、あなたとは完全な決別をするのよ。いい?分かったら家を出る支度をしなさい」

ーーーーえ?
リアンは動揺し、思わず周りを見る。
しかし誰もがリアンから目を逸らし、黙ったまま顔を伏せた。
ーーーそんな、あんまりだ。
リアンは絶望的な気持ちだった。
「お父様!僕は、これからどこへ行くんですか…教えてください。お父様。どうして…」
  ーーーーまた捨てられる。またあの時みたいにーーーリアンの目には涙が溢れた。
「お父様はまた、僕を見捨てるんですか…?母を捨てた時みたいに…」
リアンの言葉に今まで黙り込んでいた父親は大きく目を見開き、口を開いた。しかしーーー父親が何かを答えようとするや否や、マリアンヌが声をあげた。
「リアン。いいから黙って支度しなさい!」
マリアンヌの怒声に、リアンはビクッと体を揺らした。
 周りの空気にも一気に緊張感が張り詰める。
怒らせると怖いということはこの御屋敷全員がわかっている。
 「ごめんなさい…お母様…お父様」
「ふ、最後まで本当にめんどくさい子だわ」
「マリアンヌ……リアン!は、早く支度をしなさい。今日の夜には出るから」
  父親はそういうと、マリアンヌの腰に手を当てた。
「行こうか、マリアンヌ。今日は客人も来るから。ロード伯爵が会いたがっていたぞ」
「あら、会えるのが楽しみだわ。行きましょ」
マリアンヌはそう言うと軽くリアンを肘で押しといて、広間を後にした。
  父親はマリアンヌのご機嫌取りに必死なのだとリアンは思った。
ーーーー父親はもう変わってしまったのだ。あんなに実の母には冷たくしていたのに、今では全てが継母の手の中だ。
もうあの人に逆らうことは誰も出来ないんだーーーー自分の居場所も、完全に無くなる。
  自分は父親に愛されなかったんだ。いやーーー愛されるわけがなかったんだ。たったひとり愛してくれたのは母親だけだ。
  立ち尽くすリアンに、お手伝いさんはそっと声をかける。
「…あの、リアン。ごめんなさい。その…言い難いけど…でも、私たちはあなたがここで辛そうにしてるのを見てきたから離れた方が良いと思ってたの。奥様に反対できなくてごめんなさい。だからどうか、引き取り先では…幸せになるのよ」
お手伝いさんはそう言って、初めてリアンの頭を撫でた。
 その感触はどこか、母親に似ていた。
リアンの目には涙が溢れて止まらなかった。
「ねえお手伝いさん、僕はどこへ行くのですか…?」
  その質問に、お手伝いさんは顔を伏せた。
「それが私にも分からないんです。奥様は引き取り手がいるということ以外、教えて下さらなかった…でもきっと、そこまで酷いお人じゃないはずよ。これもきっとあなたのためだわ。ここにいることで、あなたは色んな人に比べられて、世間から冷たく見られてきたけれど、ここから離れれば標的にされることもないし…一般的な幸せもきっと……ね?」
 お手伝いさんの必死の励ましに、リアンは首を振った。
 きっといい未来なんて来ない。僕に幸せなんて来るわけないんだ。
「お手伝いさん、今までありがとうございました」

リアンはそうお礼だけ告げると、自分の部屋に戻った。
 薄汚れた服に傷だらけの身体。綺麗なブロンドヘアーなんかではなく、黒髪で黒い目。きっとこんな自分がいなくなって、みんなどこか安心しているに違いない。
そうだーーーきっとーーー
リアンは、昔お母さんと採りに行った四つ葉のクローバーをポケットに入れると最後に軽く部屋を掃除をした。
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