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恋慕日記

来てほしくなかった

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 この場所が好きだ。誰にも邪魔されない。私だけの場所。
 私を傷つける人はいない。
 私が愛する人もいない。

 高層ビルの最上階から、名古屋の街を見下ろし、ポツリとつぶやいた。
「大阪に帰ろうかな」
 希望にあふれた高校生活。それがここにはあると信じて疑わなかった。
 故郷を離れることはそれほど不安に感じなかった。
 本家で暮らせることに、喜びすら感じた。
 
 だが深山君は全てを変えてしまったのだ。
 私の可愛い、本当の妹のような存在。私の従妹、さやか。大好きなさやか。
 さやかが好きになったのは、深山太郎。

 私が深山太郎のことを初めて見たのは、去年の初夏の頃だった。従妹《いとこ》の綿貫さやかが家に連れてきたのを、遠目で見たのがお初だ。
 そのときは従妹いとこの友達としてしか認識していなかった。表面上では外交的に振る舞う、さやかだったが、内心では人見知りするのを、私は知っていたので、家に友人をつれてきたのは印象深かった。

 次に彼に会ったのは、生徒会の映画撮影の協力を求めたときだった。そのときまでには深山太郎の聡明さと、特異な人柄をさやかからよく知らされていたので、興味を持って彼と話をした。
 伝え聞いていた通りに、その思慮深さを目にしたときは至極感心した。
 けれども、深山太郎という男は、内心に暗いものを持っていた。陰鬱そうな表情と、物事に対する無気力さ、そして何より、彼は人に対する関心を全く見せなかった。彼は己の世界に閉じ籠っているようにも見えた。
 彼を見た人の多くは、彼をつまらないやつ、と思うに違いない。それは、さやかにとっては良いことなのかもしれないけれど。

 あるとき、一年で執行委員であり、山岳部員でもある山本雄清に、深山太郎の更生を頼まれた。私はまず彼のことをよく知ろうとして、買い物に連れ出し、彼の本性を見ようとした。
 歪んだ存在。人は彼をそう評するかもしれない。確かに歪みがあった。
 けれども、歪んでいたのは、世界であり、私たちだった。

 深山太郎は、正しさであり、優しさそのもの。
 
 伯父さんや、隆一兄さんがどのように思っているのかは知らないけれど、私は深山君がさやかにはふさわしい人間に見えた。笑顔を多く見せるようになったさやかの様子を見るに、その考えが間違っているとは思えない。
 私は可愛い従妹の恋を応援したかった。
 だから、彼らが二人きりになれるように、画策をして、クリスマスイブには、クルーズに行かせた。
 山本に連絡をして、作戦は上手く行った。
 だけど、私の気分が晴れるということはなく、むしろ暗い気持ちになった。心がチクチクして、悲しくて寂しい気持ち。

「いいな」 
 ポツリと一人で呟いたその言葉に、自分で驚いて、私が本当は何を思っていたのかに、そこでようやく気が付いた。
 自分が変になったのだと思った。

 けれどその日のうちに、映画館で彼と、彼の妹に遭遇して、急遽見る映画を変更して、彼の方ばかりを見ていた。
 そういう自分がいることに気が付いた。
 彼の声を聴き、彼が微笑むたびに、ドキドキしていた自分に気が付いた。
 はじめは嫌な予感だと思った。だから、単なる勘違いなのだと、確認するために何度も彼に近づいてみた。
 でも、勘違いなどではなかったのだ。彼のそばにいる時、動悸は速くなるばかりで、収まる気配など一向に見せなかった。はじめは、自分の気持ちを確かめる為だけだったのに、だんだんと、彼と話すことそのものが目的になっていた。何かと理由を付けては、執行部の仕事だからと、クラスの行事の事なのだからと、彼を説得する理由を、私が彼のそばにいることを正当化するために使った。
 その一方で、さやかに幸せになってほしいという気持ちも本当の気持ちだった。
 だから、従妹と恋仲にある男の子に話しかけられて、優しくされて、微笑まれて、喜んでいる自分に心底嫌気がさしていた。
 彼を好きでいる自分が嫌いだった。
 さやかよりも後に、彼と出会った運命を呪った。
 従妹の幸福を心から祝福できないようになってきた自分が憎かった。

 私の気持ちを知りもしないで「人の気持ちは結局人にはわからないのだから、ちょっと聞いただけで知った気になるような傲慢な奴にはなりたくない」と言って、知ることを拒む彼に怒りさえ覚えた。

 それでも、私の彼に対する思いが薄れることはなかった。

 南の島で、彼を誘い出して、二人きりになって話をしたときのことを思い出す。

「俺も好きですよ」 

 何の意味もない。なのに私は彼の顔を見ることができなくなってしまった。
 深山君が向こうに戻ったのを確認してから、一人にんまりと笑う。不思議だ。口角が上がるのを制御できないなんて。
 足をぶらぶらとさせて、くすくすと一人笑ってから、私もみんなのいるところに戻ることにした。
 ハンモックから降りて、砂浜に立ち、別荘のほうを見たら、そこには夏帆ちゃんが立っていた。こちらをじっと見ている。深山君を探しに来たのだろうか。
「お兄さんならもう戻ったわよ」
「知ってます。さっきすれ違いましたから」
 彼女は中学生のころから大阪に住んでいるらしいが、口調は標準語のままというか、名古屋人のそれに変わりない。
 私の故郷でもあるので、何かシンパシーを感じる気がしなくもないが、夏帆ちゃんは私のことが何となく苦手なようだ。この春から高校生らしいが、高校一年生にとって二歳差というのは大きい。
「どうかした? トイレならば別荘にしかないけれど」
「……どうして兄にちょっかいを出すんですか」 
 それは唐突だった。
「今日ずっとそうでした。車の中でもやたらボディータッチは多いし、そんな胸元のはだけた格好でやたらと体を摺り寄せる。兄を誘惑して、からかって楽しいですか?」
「私はそんな……」
 言い淀んでしまう。夏帆ちゃんが言っていることが真実だから。
「私は別に深山君を、あなたのお兄さんをからかっているわけではないよ」
「だったら、本気だって言いたいんですか?」
「……違うわよ。お兄さんはさやかのことが好きだし、さやかも彼のことが好きだ。私はそんな二人を応援したい。私にとって深山君は、そうだな……弟のようなものだよ」
「嘘でしょう。姉弟ならばそんな目で相手を見たりしません。あなたは好きなんですよ、兄のことが」
 違う。とは言えなかった。これ以上嘘をつくのが辛かった。
「弟みたい? 笑わせないで下さい。あなたは怖いだけです。傷つくのが怖いだけなんです。だから、気のないふりをして、姉であるかのように振舞って、自分の傷つかない距離から、でもとっても近い距離で兄のことを見ていたいだけです」
 やっぱり深山君の妹だ。頭が切れる。彼と同等、もしかしたら彼よりも。
「ふふっ、君はお兄さんにそっくりだな」
 そう言って、余裕を見せようとした。二歳年下の子供をあしらおうとして。
「私と兄は正反対ですよ。兄はひねくれてはいますが、根本的には善人です。誰かを無条件で助ける。そのとき、ぶつくさ言うのは、癖みたいなもので意味はありません。ですが私は性格悪いですよ。真っ黒黒です。必要とあらば年上にも容赦しません。姉のふりして近くにいようとするだけの、弱虫を見ているといじめたくなります」
 善人であるがゆえに世界から爪弾きにされてきた深山君を見て育ったからこうなったのだろうか。優しさとはこの世で生きていく上では弱点になる。だから彼女は強くなろうとした。強《したた》かに生きようとした。
「年上に対する口の利き方じゃないわね」
「だったら、弱虫じゃないことを証明してください。好きな人を眺めて満足するだけのかっこ悪い年上に威張る権利はありませんよ。……言っても、兄はあなたなんて選ばないでしょうけど」
 彼女はそれだけ言って向こうへと行った。彼女の後姿を見て思う。
 性格悪いというのは本当か? 違う。やっぱりあなたはお兄さんに似てとても優しい。あなたは私というお邪魔虫を払いのけようとしているだけだよ。

 それから数刻経って合宿中の夜だったが、夏帆ちゃんが私の部屋にやってきた。
「失礼します」
「どうぞ」
 夏帆ちゃんは入ってくるなり、頭を下げた。
「すみません。日中は言いすぎました」
 お昼のことを謝りに来たのだ。
「……いいのよ。あなたの言うとおりだから。私は弱虫。全くその通りだわ。でもね、私には、さやかを泣かすなんてことできないのよ」
「……さやかさんはいい人です。でも萌菜先輩も負けないくらい素敵な人だと思います。お昼は、萌菜さんはお兄ちゃんには選ばれないだなんて、ひどいこと言いましたが、私としては、お兄ちゃんがさやかさんを、好きでいようと、萌菜さんを好きでいようとどうでもいいのです。ただお兄ちゃんが幸せならば、それで十分だと思っています。急に鞍替えなんてしたら、周りからはいいイメージを持たれないでしょうが、萌菜さんが時間をかけて、良いところをお兄ちゃんに気づいてもらって、その上で、お兄ちゃんが、さやかさんか萌菜さんかを選ぶのなら、全くその選択に間違いはないと思います。どちらも正解なんですよ」
「……そう。でもやっぱり彼は、さやかを選ぶわ。それが分かるから辛いの。先月もチョコレートを渡したのだけれど、全く私がどんな気持ちでいるか気づかないんだから。いつもありがとう、だなんてわかりにくいメッセージを書いた私も悪いのかもしれないけど」
「はあ、本当鈍い兄ですみません」
「いいのよ。多分そんなところにも、私は惹かれたんだと思う」
「そうですか。……兄を好きになるのは構いません。ですが一つだけお願いがあります」
「何?」
「ちゃんと兄と話して下さい。そして自分の気持ちを伝えてください。さやかさんは複雑な気持ちになるでしょうが、結局人間は、誰にでもいい顔なんてできないんですよ」
「……少しだけ、時間をくれるかしら」
「分かりました。失礼します」
 夏帆ちゃんはそう言って、部屋の外に出ていった。


 誰かを好きになったのは初めてだった。
 彼と話がしたくて、ちょっかいを掛けた。
 映画館で偶然出会ったときは、見る予定のなかった映画を見た。
 街で偶然出会ったときは、他の予定を殺して、彼と一緒に散策した。
 深山君をつけて、駅ビルの本屋まで付いて行ったときは、塾を探しているだなんていう嘘をついた。
 

 彼を好きで居続けたかった。そばに居たかった。
 彼のそばで笑っていたかった。
 
 彼に私を見てほしかった。

 そして、他の人を餌にして、島に誘った。
 
 たとえ、彼が見ているものが私でなかったとしても、知ってほしかった。 
 彼に知ってもらえるだけで、いいと思った。

 でも、いざ現実を前にしたとき、私は足が震えて立つことができなくなってしまう。

 綿貫萌菜は深山太郎が好き。
 深山太郎は綿貫さやかが好き。

 大好きな私の従妹。可愛い従妹。

 それなのに、彼女から大切なものを奪おうとした私は、最悪だ。
 お姉さん面をして、彼らを見守るふりをして、彼のそばにいようとした私は最低だ。
 夏帆ちゃんの言う通り、私はずるいのだろう。
 強い嫌悪感が、私からついて離れなかった。


 辛かった。誰にも相談することなんてできなかった。私が深山君を好きでいること自体が、さやかを苦しめることになるのだから。
 可愛い従妹を裏切るようなことが私にできるだろうか。再三自分に問う。

 彼を別荘の外に呼び出し、聞かずにはいられなくなっていたことを聞く。「さやかの事をどれくらい好きなのか」と。
 彼は、こんなことを言われたら、心が動かされない女もなかなかいないだろうな、というようなことを恥ずかしそうに語った。それはさやかに対する熱情と言ってもいいものだった。
 彼の一途な思いは、私をどうしようもないほど滅茶苦茶にした。

 壊れてしまいそうだった。一人になりたかった。だからここに来た。

 そっとしておいて欲しかった。来て欲しくなかった。君の優しさが私を追い詰める。

「萌菜先輩。探しましたよ」
 
 エレベーターの音がして、誰かがここまでやってきたのは分かった。いや、多分彼が一番最初に来るであろうことも、根拠はなかったがなんとなく分かっていた。

「何で来たの?」
 私は椅子に座り、彼に背を向けたまま尋ねた。
「何も言わずにいなくなりもすれば、探さずにはいられないでしょう」
 ここまで来て、まだ何も気づいていないというのだろうか。
「……」
 私はゆっくりと立ち上がり、プールの前まで歩いてきていた、深山君の方に行き、彼の眼をじっと見た。
 そこにある表情は、何かを探るような眼をしていた。おそらく夏帆ちゃんが彼に何か言ったのだろう。彼が急に、人の気持ちに敏感になるとは思えない。

「大丈夫ですか? 萌菜先輩」
 もう気を遣うのは、疲れた。終わりだ。全部吐いて、終わりにしてしまおう。
 前置きはなしだ。
「一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なんです?」
「君は本当にさやかのことが好きなんだね?」
 幾度となく、聞いたセリフなのかもしれない。だが他に言うべき言葉が私にはわからなかった。
 二、三秒の間を置いて彼は答えた。
「……はい」

 深山君が欲しい。私はそう思った。さやかが彼のことを好きになった理由は今ではもうよくわかる。
 私は悲痛な思いを抱く。
 どうして私じゃないの?
「偶然入学した高校の、偶然入部した部活で、偶然さやかに出会った。それには必然性など存在しない。それなのにどうしてさやかにこだわるの?」 
 もしかしたら私のほうが先に君に出会っていたかもしれない。
 ……もしかしたら、私のことを好きになっていたかもしれない。
「あいつが好きだからです」
「そんな答えが聞きたいんじゃない。君は理知的な考えのできる男だろう。客観的な意見を言いなさい」
 深山君はよく言葉を選ぶようにして言った。
「……あいつは俺を許容した。雄清はもちろん友達だが、雄清は俺のすべてを受け入れているわけじゃない。意見の相違なんてしょっちゅうです。それはそれでいいんですけど、……ただ、さやかさんは俺のすべてを受け入れた。すべてを包容した。誰がそれ以上のことを他人に求められますか?」
 私だって君のことを……。
「君を受け入れるのはさやかだけじゃない」
 言うべきではない。けど言わずにはいられない。

「私は君が好きだ」


 
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