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日和見日記

さしも知らじな燃ゆる思ひを

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「深山さん、好きです」
 私は絞り出すようにして声を出しました。ですが深山さんには届かなかったようです。
 私は肩を落とし、プラットホームへと上がります。
 あるいは、走っていって、深山さんを呼び止めれば良かったのかもしれません。留奈さんは言ってました。深山さんは、面と向かって誰かに告白されても、その言葉の意味を飲み込めずに、ポカンとした顔をするような人だと。これはおおよそ合っているように思えます。
 つまり深山さんは自分が誰かに告白されるような人間だとは思っていないのです。自己肯定感が著しく欠如しているんです。なぜかは分かりません。私は深山さんのそんな心を解きほぐす方法も知りません。
 プラットホームがどんどん離れて行きます。私の思いは捨て置き、せめて感謝の気持ちはしっかりと深山さんに伝わったのでしょうか。深山さんは私の兄を取り戻してくれました。深い深い谷間の檻に閉じ込められた私の兄の心を解き放ってくれたのです。
 深山さんは素晴らしい人です。私はできることなら深山さんとずっと一緒にいたいと思います。ぶっきらぼうな話し方をして、愛想なんてあったものではないですけど、あの人は本当は誰よりも私をまっさらな目で見て、優しく接してくれました。
 私が綿貫の娘だと知った人は皆よそよそしい態度を取り、慇懃な接し方しかしません。多くの家の人と付き合ってきましたが、誰もが私を一人の女の子として見ずに、綿貫の娘として見るのです。そんな中私を一人の女の子として認識し、気の置けない仲間だと考えてくれた山岳部の皆さんには感謝してもしきれません。
 特に深山さんは口では、厄介ごとは好かない、なんで俺が、面倒だ、俺には関係ないだろう、などなどはねつけるようなことしか言いませんが、誰よりも親身になって私の問題を解決してくださいました。あの人はすごく優しい心を持っているのですが、とっても照れ屋さんなんです。
 はじめ、私が深山さんに抱いていた感情は誰に話しても恥ずかしくないものでした。それは尊敬の念であり、親愛の気持ちでした。
 いつからでしょうか。私の深山さんに対する親しみは、より個人的な感情へと変わっていきました。
 私は自負しています。神宮高校で一番深山さんのことを理解していると。山本さんや留奈さんでさえ、深山さんがどんなに心温かい人か理解していないように思われます。
 深山さんは誤解を受けやすい人です。だってこちらが黙っていれば何も言わない人ですから。でも彼は他の人が考えている何倍ものことを頭の中で考えているのです。
 私にはわかります。あの人の目が何を見て、何を思い、何に怒り、何に喜び、何に悲しみ、何に笑うのかを。わかるんです。
 あの人の数少ない言葉の後ろに見え隠れするあの人の真意が。
 私は知っています。
 あの人が多くを語らないのは、人の言葉が危ういものであることをよく知っているからです。あの人は口で言うよりもまず、態度で、行動で示すような人です。
 今の時代において深山さんほど日本男児の心意気を体現しているような人がいるでしょうか。
 次第に私は深山さんのことを直視できなくなりました。自分の気持ちに気付いたからです。
 私は綿貫の女です。自分を産み、育てた家に身を尽くさないで生きる選択肢など私にはありません。私の愛するべき人は私の家を愛する人です。私の愛すべき人は私の叔父が、祖父が、家が決めます。
 私は綿貫の女として生きることを悲しいこととも嬉しいこととも思いません。それが私が天に授けられた生き方だからです。
 でもふと思うんです。ああ、深山さん、あなたが時折見せる、その笑顔を横でずっと見ていられたらどんなにか良いでしょうか、と。大好きで大切で特別な人。彼のそばにいられたらどんなにか。
 しかしそれは叶いません。それは私のなすべき生き方ではないのです。わかっています。
 私は好いてはいけない人を好いてしまったのです。お爺様は決してお許しにならないでしょう。こんな想像の話をすることさえ。
 わかっています。わかってはいますが、どうして涙がポタポタと溢れてくるのでしょうか。

 今となってはもう見えなくなった、深山さんのいるあの町の方を見ます。そしてもはや彼には決して聞こえることのない心の叫びを私は静かにつぶやくのでした。
「私は、あなたが好きです」
 その言葉は今まで私が口にしたどんな言葉よりも儚いものでした。


 俺はふらふらと歩いていた。
 好きじゃない。好きじゃない。好きじゃない。
 何度唱えても、その言葉に俺の気持ちを変える力はない。俺は綿貫さやかがどうしようもなく好きになっていた。目をつむれば、浮かんでくるのは彼女の屈託のない、この世で一番美しい笑顔だ。身分違いの恋に心を焦がれる日がこようとは、想像だにしていなかった。
 自分の卑屈な思いは、彼女への、熱情からくるものだった。
 彼女と対等な位置にいられない、俺というちっぽけな人間が嫌だった。
 俺は綿貫さやかが好きだ。好きで好きで好きでたまらない。それなのに、この気持ちをぶつけることが出来ない。歯がゆくて、切なくて、やるせなくて、俺は叫びたかった。心が叫んでいるのに従って。
 辛くて、苦しくて、胸が焼かれる。熱いものが俺を足先から、頭のてっぺんまで貫いているような気がする。
 ふらふらふらふら、道を歩く。
「おい、太郎」どこかで雄清の声がする。頭までおかしくなったか?「太郎、大丈夫か。熱中症じゃないか?」
 顔を上げると、雄清がいた。自転車に乗っている。こういうのなんて言うんだっけ?ロードレーサー?

 そのとき、後で思い返せば、自分でもあほらしいと思うようなことを思いついたのは何故なのだろうか。
 だが俺に見えているものは、もはやひとつのものだった。
 今ここで行動を起こさなければ、俺の人生は永遠にくずの人生だ。情けなくて、卑怯で、誰にも気に留められない。俺はそういう生き方をして来たのだと思う。
 俺は自分という人間がこの世で一番嫌いだ。
 だけど、今なら。
 今だけはせめて。

「おい、雄清」
 俺はポツリと言った。何?と雄清は聞き返してくる。
「自転車貸せ」
 言うが早いか、奪い取るようにして、雄清を自転車から押しのけ、俺は線路沿いに自転車を走らせた。雄清が呼び止めるのにも構わず、必死で漕いだ。
 真夏の空の下、太陽はさんさんと照っている。額に汗して、俺は自転車を必死に漕いだ。

 柵《しがらみ》なんぞ知らない。自分の生きたいように生きなくて人間を名乗れるか。
 俺は人間だ。人間ならば人間らしく生きてやる。身分の差なんてぶっ壊してやる。
 綿貫さやか。長い黒髪が似合っていて、肌は白く、鼻筋が通っていて、大きな瞳に、みずみずしい唇。すらりとした背格好に、きれいな太もも。
 美しく、はかなげで、同時に強さを秘めている。
 優しくて聡明で、思いやりがあって、よく笑い、ちょっと強引なところもあるけれど、およそ、人付き合いが得意とは言えない俺が、不愛想な態度をとっても気を悪くせずに、付き合ってくれた。彼女ほど、素晴らしい人間がいるだろうか。綿貫さやかは俺にとって唯一無二の存在だ。この世のどんなものより価値のある存在だ。
 彼女のすべてが愛おしい。どんなところも全部大好きだ。
 彼女と一緒にいられるのならば、俺は何でもする、何にだってなる。
 先ほど見送った電車が、次の駅で停止しているのが見えた。窓際の席に座る綿貫が見えた。
「綿貫!」俺は大声を上げた。生きてきて、今まで一度も出したことのないくらい大きな声を。
 
 自分の名前が呼ばれた気がして、電車の窓の外を見ました。そこには驚いたことに深山さんが立っています。私はすぐに外に駆け出しました。プラットフォームに降り立ち、改札口を出て、深山さんのところに向かいます。
「深山さん!」
 
 俺は息も絶え絶え。呼吸を整えようと深呼吸をする。
 駅舎から出てきた綿貫に向かって言う。
「……その、トラブルか?電車止まっているみたいだけど」違う、そんなことを言いに俺はここに来たんじゃない。
「……はい。機器の調子が悪いみたいで、今点検をしています」綿貫はもじもじと言った。
「俺は……えっと」どうしてだろう。俺の心の中の気持ちを吐き出すだけなのに、なんで言いよどんでしまうのだろうか。言わなきゃだめだ、言わなきゃだめだ。「えっと、じゃあ気を付けて帰れよ」ああ、馬鹿、馬鹿。俺は何しにここまで来たんだ。帰りたくないのに、俺は引き返そうとしてしまう。

「深山さん!」私は思わず、呼び留めました。自分が恋した人でありながら、さすがに呆れます。深山さんいくらあなたが、行動しても、言葉じゃないと伝わらないことがあるんですよ。
「なにか私に言いに来たんじゃないですか?」私はじっと深山さんの目を見ました。「話して下さい」
 
 女にそこまで言わせてしまう自分のことを情けないと思う。だけど、もう俺は逃げない。言うんだ。
「綿貫、前に北岳の近くの旅館に泊まった時俺に、将来の夢がないか聞いたよな」
「はい。覚えています」
「決まったんだ。俺の夢」
「なんですか」
「医者だ。俺は医者になりたい」
 そう言ったら、綿貫は、顔を伏せてしまった。怒らせてしまったのだろうか?
 だが、彼女は顔を上げてこういった。
「そうですか。だったら勉強頑張らないといけませんね」
 
 そういう私の頬を涙が伝うのがわかります。深山さんの言葉を聞いて、うれしくてあたたかくて幸せなはずなのに、ぽろぽろ涙が流れるんです。

 そういった彼女の顔は、頬が涙でぬれ、目元が赤くなっていて、泣いているのか笑っているのか、よくわからない顔であったが、俺には世界で最も美しく、愛おしいものに見えた。
 
 深山さんは口を開いて言いました。
「俺はお前が好きだ」
 
 綿貫は俺の目を見てこう言った。
「私は深山さんが好きです」

 同時に言ったその言葉に二人して笑った。
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