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日和見日記
アンザイレン
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ついこの間、高校に入学したものだと思っていたのに、もう夏休み間近である。高校生活の九分の一を消費してしまった。外では蝉と蛙が大合唱をして、強い日差しが容赦なく降り注いでいる。
綿貫の宿題にそろそろけりを付けてもいい頃だ。
綿貫は昨日俺に見せるはずだったものを今日持ってくるという。綿貫が、それが雄清や、佐藤にもみられるのは気が進まないというので、あいつと以前に行った喫茶店に行くことにした。
校門で綿貫が来るのを待つ。
本当のところ俺は現地集合がよかった。綿貫と一緒に門から出たりなんてしたら周りの奴らに何を言われるか……。現地集合がいいと言ったのに綿貫は「どうしてですか」と。鈍いお嬢様だ。一緒に行く意味もないだろうと言うと、別々に行く意味もないと言われて、堂々巡り。言い争いをする気にもならなかったので、結局俺が折れた。将来、誰かと結婚するかなんて、全く予測はできないが(そもそも、結婚できないかも)、相手が誰であろうと俺はしりに敷かれるだろうなと思った。
そうこうしているうちに綿貫が歩いてやってきた。
「深山さんお待たせしました。暑いのにすみません」
「別に。……行くか」
「はい」
二人で喫茶店までの道を歩く。よく二人でいるから、周りの人間が俺たちの仲を誤解するのは不可避だ。つまり深山太郎と、綿貫さやかは付き合っているのだと思われても仕方ない。
唯一無二の俺の友人、山本雄清は、俺の前では、綿貫とお似合いだとか、いつデートに誘うのだとか、非生産的な冗談しか言わないが、俺の本当の気持ちをよく知っていて、そういう勘違い連中に、俺と綿貫の仲がただの部活仲間であり、それ以上でもそれ以下でもないことを説明する分別を弁えている。
それに対して佐藤のほうは全くひどい。嘘を言うわけじゃないのだが、何人かの(ゴシップ好きな)女子たちが、俺と綿貫の仲を聞いたときに以下のように答えたらしい。「あの深山がこっちゃんを?ないない絶対ない。あの朴念仁が誰かを好きになんてなれるわけないじゃない。あれはただの召使いよ」
……
いや、言い方がおかしいだろう、まったく。
「深山さん、どうしたんですか? 何が可笑しいんです?」
どうやら俺は笑っていたようだ。
「別に、思い出し笑いさ」
その時、傍から見たら、俺はただのでれ助だなと思い、唇をぎゅっと閉めた。
外にいるだけで汗は滝のように出てくる。一部の年配の人は最近の若者は適応能力が衰えているとのたまふ。確かに今ではどこに行っても冷房が効いている。しかし、日本の平均気温は二十年前より確実に上がっていると思う。猛暑日が当たり前なんてことがかつてあっただろうか。真夏日でさえ涼しいと感じてしまうのだから、適応能力の問題というより、産業活動の問題だと俺は思う。
暑い暑いと言っても無益なのは今も昔も変わらないが。
ぼんやりと考え事をしているうちに、かの喫茶店が見えてきた。店の中を見たところ、うちの高校の生徒はいなさそうだった。ほうっと、息を吐く。
この前のように俺たちは奥の席に座った。
例のごとく、チャイを頼み、綿貫がカフェモカを注文した後、俺は佐藤の様子がどうだったかを綿貫に尋ねた。
「それで、どうだった。佐藤の様子は? 今日会ったか?」
「はい、特に変わったところもなく、何も言われませんでしたよ」
「意外だな」
あの佐藤が昨日の大事件のことを綿貫に話さなかったなんて。
綿貫が言葉を続ける。
「それにしても深山さんすごいです。快刀乱麻って感じでした」
「やめてくれ、褒めても何も出んぞ」
「照れ屋さんですね」
「別に照れてない」
綿貫はうふふ、とさもおかしいという様子で笑う。そして目を細めて、
「いいですね、両想いって。羨ましいです」
と言った。
「……別にお前ならいろんな奴に好かれるだろう」
物言う花とも言うべき佳人にして、物腰柔らかな彼女が男に不人気である道理があるわけがない。
あの通り、ある意味佐藤に一途な雄清や、自分の立場を痛いほど理解するところの俺でなければ、山岳部の部室で綿貫さやかの笑顔と香りに中てられただけで、イチコロ必至だ。
「そんなことないですよ」
だが、綿貫は否定する。無論、それを自ら誇るような女は綿貫ではないが。
「謙遜だな」
「本当にないですって」
ぴしゃりと綿貫は言った。
そこまできっぱり否定されるとそうなのかと思えてくる。言ってみればお姫様だから、大抵の男には高嶺の花として映るのだろう。綿貫は頬を赤らめて話を続ける。
「実は気になっている人がいるんですが、その人私のことをちっとも見てくれないんです」
俺は何だか居心地の悪さを覚えた。そして狼狽えた。
「悪いが恋バナはよしてくれ。そういうのは佐藤とでもしてくれよ。俺はラブマスターには程遠い存在なんだから」
綿貫は一瞬唇を横にきゅっと閉めて、
「そうですね、すみません」
という。
それにしても、このような美少女を全く相手にしないというのは随分と尊大で傲慢で高飛車な奴に違いない。けしからんな。……まあ、俺には関係ない話か。
俺は咳ばらいをした。そして、
「で、話ってなんだ。兄貴のことで何が分かったんだ」
と尋ねる。
「はい、今日お持ちしたのはこれです」
綿貫はそういうと、手垢にまみれた手帳を取り出した。
「兄の手帳です。付箋を貼ってあるところを見て下さい」
俺は言われた通り、付箋のあるところを開き、そこに書かれてあることを読んだ。記述された日は昨年の六月。
「お前の兄貴が家から出て行ったのはいつだったか?」
「昨年の八月六日です」
つまり、失踪の二か月前に書かれた記述だ。こうあった。
『俺は籠の中の鳥だ。生きながらも死んでいる。空に飛び立つことはもちろん、自由に空を仰《あお》ぐことさえできない。つながれたザイルがまだ見える気がする』
綿貫は尋ねる。
「どういう意味でしょうか? これを見ると昨年の六月に何かあったように思えます。雅英さんのことを思い出すような何かが」
「どうだろうな、いくら七年経ったとはいっても、親友が目の前で自分の命を守るためにザイルを切ったんだ。忘れることは容易でないだろう。時には思い出すのも当然だ」
「そうですか。では籠の中の鳥とはどういう意味なんでしょうか?」
「お前の兄貴が失踪するころ、研修医だったんだろう。心身ともに疲弊し、見ていた患者さんが死ぬような環境だ。感傷的になってこんな文を書いてもおかしくない。つらい時に昔のつらいことを思い出すなんてよくあることだろう。連想的に雅英のことを思い出したんだろう」
「そうなんですかね」
綿貫は納得しかねる様子である。
「私は何かあったんだと思えるんですよ」
「これだけじゃ何とも言えんな」
「……そうですよね」
綿貫はしょんぼりとした様子になった。その時、店員が注文した品を持ってきた。
俺と綿貫がそれぞれの飲み物に口を付ける。
そうして一息付けてから、
「ここまでのことを整理したいんだが、まずお前の親父はお前が生まれてすぐに立山連峰の剣岳で遭難、現在も行方不明。八年前、高橋雅英と綿貫隆一は赤石山脈の北岳に中部山岳会と同行して、高橋雅英が滑落、自らザイルを切り死亡、遺体は後日発見された。そして去年の夏、隆一は『亡者を帰るべきところに帰す』というメモを残し失踪、現在行方不明。合ってるな?」
と俺は言った。綿貫が答える。
「はい、その通りです」
「現時点では隆一がどこに向かったのかも検討もつかない。剣岳かもしれないし、北岳かもしれないし、そもそも山に行っていないのかもしれない」
「それは考えていませんでした。登山道具一式を持って出かけたものですから山に行ったとばかり」
「まあ、あくまで山に行ったと断言できないってだけだ。だが、もし普通に散歩しに行ったのなら、家に帰って来ないのがおかしい。山で遭難したと考えるのが自然だろうな。親父を探すために、剣岳に行ったと考えるのは父親の死から長い時間が経っていることから、不自然だとお前は考えている」
「おっしゃる通りです」
「しかし、大学を卒業し、前期研修が終盤を迎えた時、自分のルーツである父親のことをもっと知りたいと思って父親が登った剣岳に登りに行ったという可能性は否定できない、と俺は言った」
「でも私はそれを否定しました。兄は何度か剣岳に行ってますので今更になってすることではない、といって」
「だな。それはそれとして、八年前に起きた事件を回顧して、雅英が死んだことに責任を感じ、北岳に行ったとお前は考えた。だが、今度は俺が疑問を持った。雅英の遺体は戻ってきている、そして七年たってなぜ今更? と」
「そうです。そこが問題です。深山さんは兄にとって雅英さんが父親ほど強い影響をもたらすものではないとお考えですよね」
「そういうことになるな」
「でも、実際は深山さんが考えているよりもっと強い影響を持つものだとしたら?」
「どういうことだ」
「兄にとって雅英さんは父親以上に影響をもたらすものだったということです。兄がよく言ってました。『ザイルでつながれた絆は家族のそれよりもずっと強いものなんだ』って。兄は山でザイルでつながった親友を失いました。その衝撃は私たちに計り知れないものです。そして兄はその後一度も北岳に行ってません。気持ちの整理がつかなかったからでしょう。深山さんは時間が経てば傷は癒えるものだと言いました。そうです、だからこそ、傷が癒えたからこそ、兄は北岳に行ったんじゃないでしょうか」
「なるほど、だが、『亡者』の説明にはなっていない」
「それは深山さんの考えを借りましょう。兄がしたかったのは遺体の回収ではなく、故人を偲《しの》ぶことだったとしたら?」
「よくわからんのだが」
「……深山さんは魂の存在を信じますか?」
「いや」
「兄が信じていたとしたら? 兄がしに行ったのは、雅英さんの鎮魂、亡者として北岳を彷徨っている雅英さんの魂を取り戻すことだった、と考えられませんか?」
「俺はお前の兄貴のことを知らんが、医学科を卒業し医師になろうって人間が、魂だ、鎮魂だということを信じるとは思えんな。おまえ自身『兄貴は馬鹿じゃない』といっていたじゃないか」
「それは」
「だいいち、論拠がない。全部想像だ」
「それは、深山さんの考えだってそうでしょう」
うっ、それはそうだが。
「今のところ、私は雅英さんの魂の鎮魂に行って、何か事故があって家に戻って来られなくなったというのが妥当かな、と思います」
綿貫は答えが出なくて、焦って冷静な判断が出来なくなっているのかもしれないなと思った。
「……どっちにしろ、まだ調査は続ける必要があるだろう。何か見つかったらまた教えてくれ」
「分かりました」
「戻るか」
「そうですね」
俺たちは喫茶店を後にした。
部室には雄清と佐藤がいた。見ると佐藤は少しむくれている。また雄清がいらんことを言ったのかもしれない。
「今日は走らないのか?」
雄清に尋ねる。
「こうも暑いと走る気にならないな。山は涼しくていいんだけどね」
「あっ」
綿貫が何かを思い出したのか声を上げた。
「すみません言い忘れていました。今週山です」
「えっ、そうなの?やった。どこ?」
「伊吹山です」
おー、校歌で何度も称えている山だ。滋賀と岐阜にまたがる百名山のひとつだ。そこそこ高い。残念ながらここからはビルの陰になり見えないのだが。
「山頂は涼しいかなあ。今の時節だと二十度前後ってところかな。うん、悪くない」
雄清は一人合点している。
のどが渇いたっと言って雄清は水を飲みに、綿貫は飯沼先生のところにしおりをもらいに行くって部室を出て行った。
佐藤と俺が部室に残された訳だが、特に話すことはない。佐藤も好んで話しかけては来ないだろうと思い、俺は文庫本を開いた。夏は汗で文庫本も湿って不快だ。
数行読んだところで、佐藤が俺に話しかけてきた。
「ねえ深山」
「なんだ」
「あんた制服とったの誰か分かっているんじゃない?」
俺はぎくりとした。
「そんなわけないだろう」
ああ、つい声が上ずってしまう。俺は表情で悟られないように窓のほうを向いた。
「深山、目をそらすな」
そういって、俺の顔を覗き込んでくる。
「なんなんだよ、急に。もう済んだことじゃないか」
「だって変よ。制服を捜しに行って帰るごろになって『もう戻ってきているんじゃないか』だなんて。あんたまさか共謀してたんじゃないでしょうね」
「馬鹿なこと言うな。昨日言ったように俺はお前の乳臭い制服なぞ興味なっ、いててててっ」
佐藤に腕を思いきりつねられた。
「痛いなもう。そんなに怒るなよ。……俺がお前の制服とって何になる」
「それはそうだけど。……あと気になることがあるのよ」
「なんだ」
「SNSの履歴が消されていたことよ」
「ただのいたずらだろ」
「それがおかしいのよ」
「何がだよ」
佐藤はそれには答えないで、
「ねえ深山、あんた友達を庇おうとしているんじゃないの?」
どうやら佐藤はいろいろ勘づいているらしい。だが、事の次第を話すわけにはいかない。
「何を言っているのかわからんな」
「……いい、普通はスマホには本人しか開けられないようにロックをかけるの。私の制服を取ったのはそのロックを外してしまうような人よ」
「それが何だっていうんだ」
「その暗証番号がある人の誕生日だったのよ。……ねえ深山本当に何も知らないの?」
「さあな、俺は何も知らんさ。で言っとくがな、俺の友達には他人の荷物を意味もなく物色するような奴はおらん」
「やっぱり何か知っているのね」
ここまで来たらもはや言い逃れはできない。が、雄清が何のために制服とスマホを盗ったかは言うわけにはいかなかった。
「……すまんが話せんのだ。だがこれだけは言っておこう。俺の友達は、雄清は誰かを傷つけるような奴じゃないんだ」
「そんなことはずっと前から知っていたわ」
「だから、すべて水に流して忘れてくれないか。あいつはお前のためを思ってこんなことをしたんだ」
「雄君にも何も話せないって言われたのよ」
「あいつがお前のことを大切に思っているからこそだ。頼む。雄清を信じてやってくれ」
「……わかった。このことは忘れる。どっちみち、あんたも雄君も教えてくれないんじゃ知りようがないし。でも後でアイスおごってよね。それならすんなり忘れられそうだわ」
「それは雄清に言えよ」
「黙ってた罰よ」
その時、雄清と綿貫の二人が戻ってきた。
「戻りました」
「ありがとう、こっちゃん」
「伊吹山のしおりです」
と言って、綿貫がみんなにしおりを配る。
今回は現地集合か。JRの近江長岡駅に朝8時に集合。
ほう、滋賀県のほうまで出るのか。岐阜側に登山道はないのか? ああ。
地形図を見ると伊吹山南側斜面は等高線が密に書かれている。所によっては崖登りをしなければならないのかもしれない。山に登り始めて日の浅い素人がそんなことをすれば、クライマーズハイを通り越して本当にハイな場所に召されてしまうだろう。
「綿貫さん、今日も金曜にミーティングでいいのかな?」
と雄清が尋ねる。
「あー、そうですね。先生に確認してきます」
「悪いね」
「いえ、私部長ですから」
そういうと、綿貫は出て行った。ご苦労なこって。
「健気だよな、あいつ」
俺はポツリとそう言う。
「何、急に? こっちゃんのこと好きになっちゃった?」
佐藤はすぐに軽口で返す。本当こいつはくだらんことしか言わんな。
俺は少々、むっとして返した。
「違う。お前はどうしてそう物事を短絡的にしか見られないんだ。かわいそうなやつだ」
「何よ! 偉そうに」
「まあまあ。落ち着いてよ二人とも。……確かに綿貫さんはいい子だね」
と雄清が仲介に入ったところ、ムウと佐藤は膨れ面をする。はっは、嫉妬していやがる。
「なんかなあ、世間擦れしていなくて、あいつを見ていると、この世には確かに善人もいるんだなと思えてくる」
俺は言葉を続けた。
「何よ、私はずるがしこいって言いたいの?」
「賢くはないな」
「ひどいっ。そんなんだから彼女もできないのよ」
「できなくて結構。別に欲しくもない」
雄清が横やりをいれる。
「うーん、けんかするほど仲がいいというのはまさに逆説だな」
「「うるさい」」
俺と佐藤が同時にそう言う。すかさず、
「ほらっ!息ピッタリじゃないか」
と雄清があまりにもおどけた調子で言うので、俺も佐藤もなんだか笑えてきてしまった。
「そうそう、けんかしていてもいいことなんてないよ。どうせなら笑って過ごそうよ」
「そうね、こんな奴の相手しても馬鹿らしいわよね」
「おかしいな。俺が相手してやっているはずなんだが」
「バーカ」
そういった後、佐藤は笑う。俺も佐藤の行儀の悪い言葉に気を悪くすることもなく、笑いあっていた。あれ、なんだか楽しいな。
佐藤が幾分か落ち着いてから話を続ける。
「そうね、こっちゃんは確かに特別よね」
「だろう。ほらあんなこともあったじゃないか。佐藤の国語力について話した時」
「あー、あったね。あれは傑作だったよ」
と雄清が言ったところで、佐藤も思い出したようだ。
「もうやめてよ。済んだことでしょ」
このような話である。
部室で佐藤が話をしている。いつものような取るに足らないゴシップだ。山岳部一同が部室に会していた。
「それでさ、とうとうあの二人もよりを戻したわけ。やけぼっくりに火が付いたっていうの」
俺は文庫本を読みながら、佐藤の誤りを訂正した。
「それを言うならやけぼっくいだ。松ぼっくりじゃないんだから栗に火はつかんぞ」
「そうだったっけ?」
「そうだ。まったく、これくらいの言葉を正しく使えないとはかわいそうな奴だな」
「なっ、なによ。たまたまよ。ほら何か問題出してごらんなさいよ」
「そうだな……、じゃあ、腹に一物があるの意味は?」
「ちょっ、変なこと言わせないでよ」
「はあ? お前何言ってんだ。わからんのか?」
「わかるけど、わかるけどさ、そんなこと人前じゃ言えないわ」
こいつ絶対分かってないな。面白そうだから追求してみよう。
「答えてみろよ。国語の苦手な留奈さんよ」
「っ、わかったわよ。ええと、その」
佐藤はためらいながら至極小さな声で答えた。
「お腹の上に、ナニが乗っかってるってことよ」
……。雄清は爆笑している。
「お前何言ってんだよ。ナニってなんだよ」
「……マラよ」
ああ、どうやらこいつは一物をあれと勘違いしているらしい。雄清はもはや耐えられないといった表情である。抱腹絶倒とはこのこと。
「佐藤留奈、国語はしっかり勉強しましょう。人として信用されないぞ」
「なっ、何よ。ちゃんと答えたじゃない。あんな意地の悪い質問して!」
「何言ってんだよ。この変態が」
「変態はそっちでしょ! ねえ雄君」
そう言って佐藤は雄清に助けを求める。しかし雄清も今回ばかりは擁護しきれない。
「ごめん留奈、今回は留奈が悪いよ」
「えー」
すると、綿貫がおずおずと会話に参加してきた。
「あのう、まらって煩悩のことですよね」
さすが綿貫である。お嬢様は世俗に疎い。元の意味はそうなのかもしれない。
「まあ、ある意味、煩悩の本ではあるな」
「つまりなんのことですか」
「佐藤、お前詳しいだろう。説明してやれよ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
「深山さん意地悪しないで教えてくださいよ」
……、むしろ俺のほうが困ってるんだが。
「そうだな、とりあえずお前は数年は触ることも見ることもないだろうな」
いや、永遠に触らない可能性もある。いや、そうあって欲しい。この世には、汚れるべきではない存在が、少なからず存在していて、綿貫もその一つだ。
「そんなに貴重なものなんですか?」
「いや、世界の半分はそれでできているとも言える。普段は目に見えないんだ」
見えていたら、通報ものだ。
「そうなんですか。何だか妖精みたいですね」
そんな素敵なものでは決してないのだが。横を見ると、雄清は爆笑、佐藤は必死にこらえてはいるが、口元が笑っているのが見える。どうやらこの部室で汚れていないのは綿貫だけのようだ。
綿貫は
「どうして、お二人は笑っているんですか?」
と言って首を傾げるばかりである。
以上のようなことがあったのだ。
綿貫が部室に戻ってきた。
「戻りました。金曜にミーティングでいいそうですよ」
「ありがとう、綿貫さん」
「なんだが皆さん楽しそうですね。何かあったのですか?」
綿貫が俺達の様子を見て言った。
「深山がこっちゃんのこと褒めてたのよ」
「おい」
畜生、佐藤の奴、さっきからかったことの復讐をする気でいる。
「そうなんですか?なんだか照れますね」
形勢は不利だ。とっととずらかろう。
「俺は知らん。帰る」
俺は足早に部室を後にした。
佐藤が俺が帰ったのちに、綿貫に何を吹き込むか全く知りえない。思えば部室に残っていたほうがよかったかもしれなかったが、今となってはもう遅い。
*
その日、帰った後、何気なく、PCを起動させた。
ネットニュースを眺めていると、山についての記事が出ていることに気が付いた。『遭難救助に協力、感謝状』気になったので開いてみた。記事の最後には感謝状を受け取っている人の写真が出ていた。人の顔を覚えるのは得意なほうだ。その人の顔に見覚えがあったのでどこで会ったのか考えたら、すぐに思い出すことが出来た。
「日和見荘の店主だ」
『中部山岳会会長、松下銀次さん(五三)は北岳で、足を怪我したほかの登山客を,近くの山小屋まで運び、救助隊を呼んだ。助けられた坂田洋一さん(三五)は命に別状はない。松下さんは単独で北岳に登っていた。松下さんは「登山家はみな助け合うものですから」と誇ることもなく、「感謝状をいただくことは、大変光栄です」と述べていた』
記事の内容もなかなか興味深いものではあったが、俺は「中部山岳会」という言葉に引っかかった。確か綿貫隆一と高橋雅英が北岳に登攀したときに随行したのも中部山岳会であったはずだ。俺は綿貫に渡されていた、今までの調査をまとめた資料を見た。
『兄は高橋雅英と中部山岳会の冬期登攀に参加。高橋雅英と兄とをつなぐザイルが切れ高橋雅英は滑落死』
中部山岳会。そこの会長が日和見荘の店主だったとは。
俺と綿貫が初めて日和見荘を訪れた時、店主つまり松下さんは『よくお父上が許されましたな』といったあれは単に危険なスポーツをすることに対してではなく、あいつの兄貴のことを知っていたからなのかもしれない。今会長なのだから、決してにわか会員ではないだろう。滑落事故が起きた時に会に所属していた可能性は高い。もしかしたら、北岳登攀に同行していたかもしれない。
「話を聞いてみるか」
出歩くのは好まない質だが、問題の先延ばしはもっと好かない。それにマットやザックなどまだそろえていない用具もある。遅かれ早かれ日和見荘には行かねばならないのだから、今日行ってもいいだろう。今四時半だ。急げば夕食には間に合う。
俺は身支度をして、家を出た。
夏の日は長い。まだ空は明るく、電車からは街を行く人が良く見えた。真夏の空の下だ。サラリーマン風の男性は、ハンカチを手にして汗をぬぐっている。こんなに暑いのに、スーツを着なければならないというのはたいそう不条理なことのように思えるが、これがこの国の風習である。いずれは俺も従わなければならないのだろう。
名古屋駅で電車を降り、日和見荘へと向かう。
「いらっしゃい」
店主、松下銀二さんは快活な様子で俺を迎えた。
「あのう、すみません」
俺は声をかける。
「何をお探しですか?」
「今日は聞きたいことがあってこちらに伺ったのです」
「何でしょうか」
「高橋雅英さんのことについてお尋ねしたいのです」
俺の言葉を聞いた、松下さんは顔を曇らせた。訳知り顔である。やはり、北岳冬期登攀に同行していたのだろう。
「君は誰だね」
「綿貫さんの知り合いです」
「もしかして、綿貫の御嬢さんと一緒に当店にお越しくださっていた人かな?」
「はい」
「すまないが、名前を覚えていない。お聞きしたかな」
「言ってないと思います。深山太郎といいます」
「して、深山君、いったい何を聞きたいというんだね。新聞社に話した以上のことは話せないと思うんだが。そのくらいのことは君も知っているんだろう」
「ちょっとした確認をしたいのです」
「答えられることなら答えるが、その前になぜあの事件のことを調べているのか教えてくれないか」
「さやかさんに頼まれているんです。さやかさんは彼女のお兄さんが失踪した原因があの事件と関係があるのではと睨んでいるんです」
「まってくれ、隆一君が失踪したって?」
「ご存じなかったですか?」
「ああ、ちなみにいつ頃?」
「去年の夏だそうです。綿貫家の主人の話を聞くに山に行ったそうなんですが」
松下さんは暗い顔で「そうか」といっただけで他に何も言わなかった。あまり驚いた様子はない。年を取ると人は滅多に驚かなくなるらしい。松下さんは話を変える。
「それで話とは何かな?」
「簡単な質問です。隆一さんと雅英さんは仲が良かったのですか」
「深山君、それは君、愚問だよ。逆に聞くが、君はさして好きでもない人間、信用できない人間に命を預けられるか? あるいは、命綱でつながった相手に特別な感情を抱かないということがあるか? ザイルでつながった絆は、家族のそれよりも強い。よく言われていることだ」
「そうですか。では、北岳に登る前、何か変わったことはありませんでしたか?」
「というと」
「例えば、二人が喧嘩していたとか」
「君、あれは事故だったんだぞ。それに雅英君は自分でザイルを切ったんだ。喧嘩してたからって何だっていうんだ」
「ええ、一応確認です。特に意味はありません。たださやかさんはお兄さんのことについてどんなことでも知りたがっていると思うんです。彼女の狭い意味での肉親は隆一さんだけですから」
なぜか、流暢に綿貫がしゃべりもしないことが口をついて出てくる。俺は少し軽薄な人間なのかもしれんなと自嘲する気分になった。
松下さんはしぶしぶ話し出した。
「喧嘩か。そういえば行きの電車で大声上げて喧嘩していたな」
「どんな内容でしたか」
「うろ覚えだが、『お前の家は今も昔も人殺しだ』と言っていたのは覚えている」
「雅英さんがですか?」
「ああ、あまりに衝撃的な言葉だったから覚えていたよ。あれは喧嘩というより、雅英君が一方的に騒いでいる感じだったな。隆一君は怒りもせずにそれをなだめている感じだった。すぐに雅英君も落ち着いたから、私もあまり気にしていなかったんだが。だから、関係ないだろう。滑落事故にはもちろん、隆一君の失踪についても」
「そうでしょうね。ありがとうございました。質問は以上です」
「この話が御嬢さんの調査の役に立つとも思えんがな」
「何が役に立つかは、調べているときはわからないものですよ」
「それは道理だが……。それで、今日は話だけなのかな?」
「あっ、いえ、マットとザックを買いに来たんです」
俺は必要な用具を購入したのち、家に帰った。
今日、あのような話を聞いたのには理由がある。高橋雅英の母親から話を聞いた時から、引っかかっていたことがあったのだ。
いくら友達を救うためといっても自らの命をみすみす捨てるようなことができるのか、ということだ。高校一年生がそのような行動をとっさにできるのかと。
俺は考えられる原因を思索した。
高橋雅英は引きこもりがちで、どちらかというと、精神的に不安定なところがあった。それがザイルを切って自らの命を捨てるという行為につながっているのならば、事故の起きる前に何か予兆があったのではと思ったのだ。
今日は興味深いことを聞けた。『お前の家は今も昔も人殺しだ』。これの意味するところのものは大きいだろう。このことを綿貫に報告するのは少々気が重たいが、これは綿貫の調査だ。知らせないわけにはいかない。あいつは真実を知るためには多少痛い目にあってもいいという覚悟でいる。ならば俺がためらうべきではないだろう。
明日になったら綿貫に伝えようと思い、俺は寝床についた。
俺は翌日、部室で綿貫と二人だけの時を見計らって、昨日知り得たことを綿貫に伝えた。
「高橋さんがそんなことを言っていたなんて」
「そうだな。俺も驚いた」
「どういう意味なのでしょうか」
「お前の家が人を死なせているということだろう」
「いえ、そうではなくてですね、そういうことを言った背景がわからないんです」
「そうだなあ。……昔というのがどのくらいか分からないが、お前の家が腰にチャンバラをぶら下げていた時のことを指すのならば、複数人、人を殺していてもおかしくないだろう。それが武士の仕事であるからな。
それに対して今というのは、当然俺達が生きている時代の事だろう。そしてお前の家は病院経営をするに至っている。そこで人殺しとはどういうことか。医者というものはむしろ人を助ける仕事だ。だが、医術は、お前のほうがよく知っていると思うが、万能ではない。人は必ず死ぬ。病院で助けられない命も当然あるだろう。医者にしてみれば理不尽なことかもしれないが、死んだ患者にしてみれば、病院に殺されたと思われても仕方ないのかもしれない。
……飽くまで推論に過ぎんが、高橋雅英は極親しい人をお前の家の病院で亡くしている可能性がある」
綿貫はしばらく何も言わなかったがポツリと口を開いて言うには、
「……井上奏子さん」
「ん?なんだ」
「井上奏子さん。高橋さんの恋人だったようです。彼の日記に名前がよく出ていました。そして最後に出てきたのが『奏子はもう永遠に俺のもとには戻ってこない』北岳登攀の一か月前の記述だったと思います」
俺は綿貫の化け物並みの記憶力に舌を巻いた。綿貫の言う日記とは、高橋家で一度見せてもらったもののことだ。たった一度見た記述を綿貫は覚えていたのである。
「よくそんなこと覚えていたな」
「私、記憶力には自信があるんですよ。それに『永遠に』という言葉が引っかかっていたものですから」
「その井上奏子がお前の病院に入院していたかどうか調べられるか?」
「医者には守秘義務があるんですよ」
「病院のトップのお嬢さんが頼み込むんだ。教えてくれるんじゃないか」
「……悪いこと考えますね。……分かりました。叔母の甥も大海原で働いています。その人とは親しいので頼み込めば調べてくれるかもしれません」
「頼んだ」
さて、報告は済んだ。久々に運動をしなければ。明後日には山行が控えている。このなまった体で登るのは危険だ。明日はさすがに激しいトレーニングはできないし,今日走らなくては。
俺が部活を始める準備をしようと思ったところで、綿貫が話しかけてきた。
「あのう」
「なんだ」
「高橋さんが、兄に、大海原病院で亡くなった人のことを言ったからといって、兄の失踪に影響を与えるようなことになるのでしょうか? 仮に井上さんが大海原で亡くなっていたとしても、免許すら持っていない兄が関知することではないですよね」
俺は、少し考えてから、こう綿貫に告げた。
「お前の疑問はもっともだ。だがこう考えてみてくれ。高橋は北岳で宙づりになったとき、すぐにザイルを切った。妙じゃないか? お前の兄貴がピッケルで体を固定していたのならば、高橋は壁をよじ登ることだってできたはずだ。なのにそうしなかった」
「でもそうすると二人とも助からなくなると判断して……」
「だが、弱冠十六の人間が、親友の命を助けるためといえど、すぐにその命綱を断ち切れるだろうか? ましてや、宙ぶらりんの状態で冷静な判断ができるか?俺は怪しいと思う。高橋雅英の母親も言っていただろう。雅英は引きこもりがちだったと。言い方は悪いかもしれないが、彼は打たれ弱い人間だった。事故当時、高橋の精神状態は非常に不安定だったんじゃないだろうか。だから、お前の兄貴に誹謗 を言い、そして、自らの命をなげうつのをためらわなかったんだ。雅英がザイルを切ったのは単に友人を助けるためじゃない。彼の不安定な精神状態があったが故の悲劇だったのさ。恋人の死、それだけで雅英が自暴自棄になるには十分だった」
「だったら私の兄は」
「お前の兄貴は悔いたんだ。高橋雅英を北岳に連れて行ったことに。友人の精神状態に気づくことが出来ず、結果として、友人は死んでしまった。自責の念が長年、お前の兄貴の中に渦巻いていたであろうことは想像に難くない」
「なるほど」
「だが、何が引き金となってお前の兄貴が家を出たかはまだわからんがな。それにあくまでこれも推論でしかない。とりあえず、井上奏子が大海原に入院していたかどうかだけ調べておいてくれ」
「はい」
「じゃあ俺は着替えるから」
「私も着替えますね」
綿貫は仕切りの向こうに行った。
綿貫の宿題にそろそろけりを付けてもいい頃だ。
綿貫は昨日俺に見せるはずだったものを今日持ってくるという。綿貫が、それが雄清や、佐藤にもみられるのは気が進まないというので、あいつと以前に行った喫茶店に行くことにした。
校門で綿貫が来るのを待つ。
本当のところ俺は現地集合がよかった。綿貫と一緒に門から出たりなんてしたら周りの奴らに何を言われるか……。現地集合がいいと言ったのに綿貫は「どうしてですか」と。鈍いお嬢様だ。一緒に行く意味もないだろうと言うと、別々に行く意味もないと言われて、堂々巡り。言い争いをする気にもならなかったので、結局俺が折れた。将来、誰かと結婚するかなんて、全く予測はできないが(そもそも、結婚できないかも)、相手が誰であろうと俺はしりに敷かれるだろうなと思った。
そうこうしているうちに綿貫が歩いてやってきた。
「深山さんお待たせしました。暑いのにすみません」
「別に。……行くか」
「はい」
二人で喫茶店までの道を歩く。よく二人でいるから、周りの人間が俺たちの仲を誤解するのは不可避だ。つまり深山太郎と、綿貫さやかは付き合っているのだと思われても仕方ない。
唯一無二の俺の友人、山本雄清は、俺の前では、綿貫とお似合いだとか、いつデートに誘うのだとか、非生産的な冗談しか言わないが、俺の本当の気持ちをよく知っていて、そういう勘違い連中に、俺と綿貫の仲がただの部活仲間であり、それ以上でもそれ以下でもないことを説明する分別を弁えている。
それに対して佐藤のほうは全くひどい。嘘を言うわけじゃないのだが、何人かの(ゴシップ好きな)女子たちが、俺と綿貫の仲を聞いたときに以下のように答えたらしい。「あの深山がこっちゃんを?ないない絶対ない。あの朴念仁が誰かを好きになんてなれるわけないじゃない。あれはただの召使いよ」
……
いや、言い方がおかしいだろう、まったく。
「深山さん、どうしたんですか? 何が可笑しいんです?」
どうやら俺は笑っていたようだ。
「別に、思い出し笑いさ」
その時、傍から見たら、俺はただのでれ助だなと思い、唇をぎゅっと閉めた。
外にいるだけで汗は滝のように出てくる。一部の年配の人は最近の若者は適応能力が衰えているとのたまふ。確かに今ではどこに行っても冷房が効いている。しかし、日本の平均気温は二十年前より確実に上がっていると思う。猛暑日が当たり前なんてことがかつてあっただろうか。真夏日でさえ涼しいと感じてしまうのだから、適応能力の問題というより、産業活動の問題だと俺は思う。
暑い暑いと言っても無益なのは今も昔も変わらないが。
ぼんやりと考え事をしているうちに、かの喫茶店が見えてきた。店の中を見たところ、うちの高校の生徒はいなさそうだった。ほうっと、息を吐く。
この前のように俺たちは奥の席に座った。
例のごとく、チャイを頼み、綿貫がカフェモカを注文した後、俺は佐藤の様子がどうだったかを綿貫に尋ねた。
「それで、どうだった。佐藤の様子は? 今日会ったか?」
「はい、特に変わったところもなく、何も言われませんでしたよ」
「意外だな」
あの佐藤が昨日の大事件のことを綿貫に話さなかったなんて。
綿貫が言葉を続ける。
「それにしても深山さんすごいです。快刀乱麻って感じでした」
「やめてくれ、褒めても何も出んぞ」
「照れ屋さんですね」
「別に照れてない」
綿貫はうふふ、とさもおかしいという様子で笑う。そして目を細めて、
「いいですね、両想いって。羨ましいです」
と言った。
「……別にお前ならいろんな奴に好かれるだろう」
物言う花とも言うべき佳人にして、物腰柔らかな彼女が男に不人気である道理があるわけがない。
あの通り、ある意味佐藤に一途な雄清や、自分の立場を痛いほど理解するところの俺でなければ、山岳部の部室で綿貫さやかの笑顔と香りに中てられただけで、イチコロ必至だ。
「そんなことないですよ」
だが、綿貫は否定する。無論、それを自ら誇るような女は綿貫ではないが。
「謙遜だな」
「本当にないですって」
ぴしゃりと綿貫は言った。
そこまできっぱり否定されるとそうなのかと思えてくる。言ってみればお姫様だから、大抵の男には高嶺の花として映るのだろう。綿貫は頬を赤らめて話を続ける。
「実は気になっている人がいるんですが、その人私のことをちっとも見てくれないんです」
俺は何だか居心地の悪さを覚えた。そして狼狽えた。
「悪いが恋バナはよしてくれ。そういうのは佐藤とでもしてくれよ。俺はラブマスターには程遠い存在なんだから」
綿貫は一瞬唇を横にきゅっと閉めて、
「そうですね、すみません」
という。
それにしても、このような美少女を全く相手にしないというのは随分と尊大で傲慢で高飛車な奴に違いない。けしからんな。……まあ、俺には関係ない話か。
俺は咳ばらいをした。そして、
「で、話ってなんだ。兄貴のことで何が分かったんだ」
と尋ねる。
「はい、今日お持ちしたのはこれです」
綿貫はそういうと、手垢にまみれた手帳を取り出した。
「兄の手帳です。付箋を貼ってあるところを見て下さい」
俺は言われた通り、付箋のあるところを開き、そこに書かれてあることを読んだ。記述された日は昨年の六月。
「お前の兄貴が家から出て行ったのはいつだったか?」
「昨年の八月六日です」
つまり、失踪の二か月前に書かれた記述だ。こうあった。
『俺は籠の中の鳥だ。生きながらも死んでいる。空に飛び立つことはもちろん、自由に空を仰《あお》ぐことさえできない。つながれたザイルがまだ見える気がする』
綿貫は尋ねる。
「どういう意味でしょうか? これを見ると昨年の六月に何かあったように思えます。雅英さんのことを思い出すような何かが」
「どうだろうな、いくら七年経ったとはいっても、親友が目の前で自分の命を守るためにザイルを切ったんだ。忘れることは容易でないだろう。時には思い出すのも当然だ」
「そうですか。では籠の中の鳥とはどういう意味なんでしょうか?」
「お前の兄貴が失踪するころ、研修医だったんだろう。心身ともに疲弊し、見ていた患者さんが死ぬような環境だ。感傷的になってこんな文を書いてもおかしくない。つらい時に昔のつらいことを思い出すなんてよくあることだろう。連想的に雅英のことを思い出したんだろう」
「そうなんですかね」
綿貫は納得しかねる様子である。
「私は何かあったんだと思えるんですよ」
「これだけじゃ何とも言えんな」
「……そうですよね」
綿貫はしょんぼりとした様子になった。その時、店員が注文した品を持ってきた。
俺と綿貫がそれぞれの飲み物に口を付ける。
そうして一息付けてから、
「ここまでのことを整理したいんだが、まずお前の親父はお前が生まれてすぐに立山連峰の剣岳で遭難、現在も行方不明。八年前、高橋雅英と綿貫隆一は赤石山脈の北岳に中部山岳会と同行して、高橋雅英が滑落、自らザイルを切り死亡、遺体は後日発見された。そして去年の夏、隆一は『亡者を帰るべきところに帰す』というメモを残し失踪、現在行方不明。合ってるな?」
と俺は言った。綿貫が答える。
「はい、その通りです」
「現時点では隆一がどこに向かったのかも検討もつかない。剣岳かもしれないし、北岳かもしれないし、そもそも山に行っていないのかもしれない」
「それは考えていませんでした。登山道具一式を持って出かけたものですから山に行ったとばかり」
「まあ、あくまで山に行ったと断言できないってだけだ。だが、もし普通に散歩しに行ったのなら、家に帰って来ないのがおかしい。山で遭難したと考えるのが自然だろうな。親父を探すために、剣岳に行ったと考えるのは父親の死から長い時間が経っていることから、不自然だとお前は考えている」
「おっしゃる通りです」
「しかし、大学を卒業し、前期研修が終盤を迎えた時、自分のルーツである父親のことをもっと知りたいと思って父親が登った剣岳に登りに行ったという可能性は否定できない、と俺は言った」
「でも私はそれを否定しました。兄は何度か剣岳に行ってますので今更になってすることではない、といって」
「だな。それはそれとして、八年前に起きた事件を回顧して、雅英が死んだことに責任を感じ、北岳に行ったとお前は考えた。だが、今度は俺が疑問を持った。雅英の遺体は戻ってきている、そして七年たってなぜ今更? と」
「そうです。そこが問題です。深山さんは兄にとって雅英さんが父親ほど強い影響をもたらすものではないとお考えですよね」
「そういうことになるな」
「でも、実際は深山さんが考えているよりもっと強い影響を持つものだとしたら?」
「どういうことだ」
「兄にとって雅英さんは父親以上に影響をもたらすものだったということです。兄がよく言ってました。『ザイルでつながれた絆は家族のそれよりもずっと強いものなんだ』って。兄は山でザイルでつながった親友を失いました。その衝撃は私たちに計り知れないものです。そして兄はその後一度も北岳に行ってません。気持ちの整理がつかなかったからでしょう。深山さんは時間が経てば傷は癒えるものだと言いました。そうです、だからこそ、傷が癒えたからこそ、兄は北岳に行ったんじゃないでしょうか」
「なるほど、だが、『亡者』の説明にはなっていない」
「それは深山さんの考えを借りましょう。兄がしたかったのは遺体の回収ではなく、故人を偲《しの》ぶことだったとしたら?」
「よくわからんのだが」
「……深山さんは魂の存在を信じますか?」
「いや」
「兄が信じていたとしたら? 兄がしに行ったのは、雅英さんの鎮魂、亡者として北岳を彷徨っている雅英さんの魂を取り戻すことだった、と考えられませんか?」
「俺はお前の兄貴のことを知らんが、医学科を卒業し医師になろうって人間が、魂だ、鎮魂だということを信じるとは思えんな。おまえ自身『兄貴は馬鹿じゃない』といっていたじゃないか」
「それは」
「だいいち、論拠がない。全部想像だ」
「それは、深山さんの考えだってそうでしょう」
うっ、それはそうだが。
「今のところ、私は雅英さんの魂の鎮魂に行って、何か事故があって家に戻って来られなくなったというのが妥当かな、と思います」
綿貫は答えが出なくて、焦って冷静な判断が出来なくなっているのかもしれないなと思った。
「……どっちにしろ、まだ調査は続ける必要があるだろう。何か見つかったらまた教えてくれ」
「分かりました」
「戻るか」
「そうですね」
俺たちは喫茶店を後にした。
部室には雄清と佐藤がいた。見ると佐藤は少しむくれている。また雄清がいらんことを言ったのかもしれない。
「今日は走らないのか?」
雄清に尋ねる。
「こうも暑いと走る気にならないな。山は涼しくていいんだけどね」
「あっ」
綿貫が何かを思い出したのか声を上げた。
「すみません言い忘れていました。今週山です」
「えっ、そうなの?やった。どこ?」
「伊吹山です」
おー、校歌で何度も称えている山だ。滋賀と岐阜にまたがる百名山のひとつだ。そこそこ高い。残念ながらここからはビルの陰になり見えないのだが。
「山頂は涼しいかなあ。今の時節だと二十度前後ってところかな。うん、悪くない」
雄清は一人合点している。
のどが渇いたっと言って雄清は水を飲みに、綿貫は飯沼先生のところにしおりをもらいに行くって部室を出て行った。
佐藤と俺が部室に残された訳だが、特に話すことはない。佐藤も好んで話しかけては来ないだろうと思い、俺は文庫本を開いた。夏は汗で文庫本も湿って不快だ。
数行読んだところで、佐藤が俺に話しかけてきた。
「ねえ深山」
「なんだ」
「あんた制服とったの誰か分かっているんじゃない?」
俺はぎくりとした。
「そんなわけないだろう」
ああ、つい声が上ずってしまう。俺は表情で悟られないように窓のほうを向いた。
「深山、目をそらすな」
そういって、俺の顔を覗き込んでくる。
「なんなんだよ、急に。もう済んだことじゃないか」
「だって変よ。制服を捜しに行って帰るごろになって『もう戻ってきているんじゃないか』だなんて。あんたまさか共謀してたんじゃないでしょうね」
「馬鹿なこと言うな。昨日言ったように俺はお前の乳臭い制服なぞ興味なっ、いててててっ」
佐藤に腕を思いきりつねられた。
「痛いなもう。そんなに怒るなよ。……俺がお前の制服とって何になる」
「それはそうだけど。……あと気になることがあるのよ」
「なんだ」
「SNSの履歴が消されていたことよ」
「ただのいたずらだろ」
「それがおかしいのよ」
「何がだよ」
佐藤はそれには答えないで、
「ねえ深山、あんた友達を庇おうとしているんじゃないの?」
どうやら佐藤はいろいろ勘づいているらしい。だが、事の次第を話すわけにはいかない。
「何を言っているのかわからんな」
「……いい、普通はスマホには本人しか開けられないようにロックをかけるの。私の制服を取ったのはそのロックを外してしまうような人よ」
「それが何だっていうんだ」
「その暗証番号がある人の誕生日だったのよ。……ねえ深山本当に何も知らないの?」
「さあな、俺は何も知らんさ。で言っとくがな、俺の友達には他人の荷物を意味もなく物色するような奴はおらん」
「やっぱり何か知っているのね」
ここまで来たらもはや言い逃れはできない。が、雄清が何のために制服とスマホを盗ったかは言うわけにはいかなかった。
「……すまんが話せんのだ。だがこれだけは言っておこう。俺の友達は、雄清は誰かを傷つけるような奴じゃないんだ」
「そんなことはずっと前から知っていたわ」
「だから、すべて水に流して忘れてくれないか。あいつはお前のためを思ってこんなことをしたんだ」
「雄君にも何も話せないって言われたのよ」
「あいつがお前のことを大切に思っているからこそだ。頼む。雄清を信じてやってくれ」
「……わかった。このことは忘れる。どっちみち、あんたも雄君も教えてくれないんじゃ知りようがないし。でも後でアイスおごってよね。それならすんなり忘れられそうだわ」
「それは雄清に言えよ」
「黙ってた罰よ」
その時、雄清と綿貫の二人が戻ってきた。
「戻りました」
「ありがとう、こっちゃん」
「伊吹山のしおりです」
と言って、綿貫がみんなにしおりを配る。
今回は現地集合か。JRの近江長岡駅に朝8時に集合。
ほう、滋賀県のほうまで出るのか。岐阜側に登山道はないのか? ああ。
地形図を見ると伊吹山南側斜面は等高線が密に書かれている。所によっては崖登りをしなければならないのかもしれない。山に登り始めて日の浅い素人がそんなことをすれば、クライマーズハイを通り越して本当にハイな場所に召されてしまうだろう。
「綿貫さん、今日も金曜にミーティングでいいのかな?」
と雄清が尋ねる。
「あー、そうですね。先生に確認してきます」
「悪いね」
「いえ、私部長ですから」
そういうと、綿貫は出て行った。ご苦労なこって。
「健気だよな、あいつ」
俺はポツリとそう言う。
「何、急に? こっちゃんのこと好きになっちゃった?」
佐藤はすぐに軽口で返す。本当こいつはくだらんことしか言わんな。
俺は少々、むっとして返した。
「違う。お前はどうしてそう物事を短絡的にしか見られないんだ。かわいそうなやつだ」
「何よ! 偉そうに」
「まあまあ。落ち着いてよ二人とも。……確かに綿貫さんはいい子だね」
と雄清が仲介に入ったところ、ムウと佐藤は膨れ面をする。はっは、嫉妬していやがる。
「なんかなあ、世間擦れしていなくて、あいつを見ていると、この世には確かに善人もいるんだなと思えてくる」
俺は言葉を続けた。
「何よ、私はずるがしこいって言いたいの?」
「賢くはないな」
「ひどいっ。そんなんだから彼女もできないのよ」
「できなくて結構。別に欲しくもない」
雄清が横やりをいれる。
「うーん、けんかするほど仲がいいというのはまさに逆説だな」
「「うるさい」」
俺と佐藤が同時にそう言う。すかさず、
「ほらっ!息ピッタリじゃないか」
と雄清があまりにもおどけた調子で言うので、俺も佐藤もなんだか笑えてきてしまった。
「そうそう、けんかしていてもいいことなんてないよ。どうせなら笑って過ごそうよ」
「そうね、こんな奴の相手しても馬鹿らしいわよね」
「おかしいな。俺が相手してやっているはずなんだが」
「バーカ」
そういった後、佐藤は笑う。俺も佐藤の行儀の悪い言葉に気を悪くすることもなく、笑いあっていた。あれ、なんだか楽しいな。
佐藤が幾分か落ち着いてから話を続ける。
「そうね、こっちゃんは確かに特別よね」
「だろう。ほらあんなこともあったじゃないか。佐藤の国語力について話した時」
「あー、あったね。あれは傑作だったよ」
と雄清が言ったところで、佐藤も思い出したようだ。
「もうやめてよ。済んだことでしょ」
このような話である。
部室で佐藤が話をしている。いつものような取るに足らないゴシップだ。山岳部一同が部室に会していた。
「それでさ、とうとうあの二人もよりを戻したわけ。やけぼっくりに火が付いたっていうの」
俺は文庫本を読みながら、佐藤の誤りを訂正した。
「それを言うならやけぼっくいだ。松ぼっくりじゃないんだから栗に火はつかんぞ」
「そうだったっけ?」
「そうだ。まったく、これくらいの言葉を正しく使えないとはかわいそうな奴だな」
「なっ、なによ。たまたまよ。ほら何か問題出してごらんなさいよ」
「そうだな……、じゃあ、腹に一物があるの意味は?」
「ちょっ、変なこと言わせないでよ」
「はあ? お前何言ってんだ。わからんのか?」
「わかるけど、わかるけどさ、そんなこと人前じゃ言えないわ」
こいつ絶対分かってないな。面白そうだから追求してみよう。
「答えてみろよ。国語の苦手な留奈さんよ」
「っ、わかったわよ。ええと、その」
佐藤はためらいながら至極小さな声で答えた。
「お腹の上に、ナニが乗っかってるってことよ」
……。雄清は爆笑している。
「お前何言ってんだよ。ナニってなんだよ」
「……マラよ」
ああ、どうやらこいつは一物をあれと勘違いしているらしい。雄清はもはや耐えられないといった表情である。抱腹絶倒とはこのこと。
「佐藤留奈、国語はしっかり勉強しましょう。人として信用されないぞ」
「なっ、何よ。ちゃんと答えたじゃない。あんな意地の悪い質問して!」
「何言ってんだよ。この変態が」
「変態はそっちでしょ! ねえ雄君」
そう言って佐藤は雄清に助けを求める。しかし雄清も今回ばかりは擁護しきれない。
「ごめん留奈、今回は留奈が悪いよ」
「えー」
すると、綿貫がおずおずと会話に参加してきた。
「あのう、まらって煩悩のことですよね」
さすが綿貫である。お嬢様は世俗に疎い。元の意味はそうなのかもしれない。
「まあ、ある意味、煩悩の本ではあるな」
「つまりなんのことですか」
「佐藤、お前詳しいだろう。説明してやれよ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
「深山さん意地悪しないで教えてくださいよ」
……、むしろ俺のほうが困ってるんだが。
「そうだな、とりあえずお前は数年は触ることも見ることもないだろうな」
いや、永遠に触らない可能性もある。いや、そうあって欲しい。この世には、汚れるべきではない存在が、少なからず存在していて、綿貫もその一つだ。
「そんなに貴重なものなんですか?」
「いや、世界の半分はそれでできているとも言える。普段は目に見えないんだ」
見えていたら、通報ものだ。
「そうなんですか。何だか妖精みたいですね」
そんな素敵なものでは決してないのだが。横を見ると、雄清は爆笑、佐藤は必死にこらえてはいるが、口元が笑っているのが見える。どうやらこの部室で汚れていないのは綿貫だけのようだ。
綿貫は
「どうして、お二人は笑っているんですか?」
と言って首を傾げるばかりである。
以上のようなことがあったのだ。
綿貫が部室に戻ってきた。
「戻りました。金曜にミーティングでいいそうですよ」
「ありがとう、綿貫さん」
「なんだが皆さん楽しそうですね。何かあったのですか?」
綿貫が俺達の様子を見て言った。
「深山がこっちゃんのこと褒めてたのよ」
「おい」
畜生、佐藤の奴、さっきからかったことの復讐をする気でいる。
「そうなんですか?なんだか照れますね」
形勢は不利だ。とっととずらかろう。
「俺は知らん。帰る」
俺は足早に部室を後にした。
佐藤が俺が帰ったのちに、綿貫に何を吹き込むか全く知りえない。思えば部室に残っていたほうがよかったかもしれなかったが、今となってはもう遅い。
*
その日、帰った後、何気なく、PCを起動させた。
ネットニュースを眺めていると、山についての記事が出ていることに気が付いた。『遭難救助に協力、感謝状』気になったので開いてみた。記事の最後には感謝状を受け取っている人の写真が出ていた。人の顔を覚えるのは得意なほうだ。その人の顔に見覚えがあったのでどこで会ったのか考えたら、すぐに思い出すことが出来た。
「日和見荘の店主だ」
『中部山岳会会長、松下銀次さん(五三)は北岳で、足を怪我したほかの登山客を,近くの山小屋まで運び、救助隊を呼んだ。助けられた坂田洋一さん(三五)は命に別状はない。松下さんは単独で北岳に登っていた。松下さんは「登山家はみな助け合うものですから」と誇ることもなく、「感謝状をいただくことは、大変光栄です」と述べていた』
記事の内容もなかなか興味深いものではあったが、俺は「中部山岳会」という言葉に引っかかった。確か綿貫隆一と高橋雅英が北岳に登攀したときに随行したのも中部山岳会であったはずだ。俺は綿貫に渡されていた、今までの調査をまとめた資料を見た。
『兄は高橋雅英と中部山岳会の冬期登攀に参加。高橋雅英と兄とをつなぐザイルが切れ高橋雅英は滑落死』
中部山岳会。そこの会長が日和見荘の店主だったとは。
俺と綿貫が初めて日和見荘を訪れた時、店主つまり松下さんは『よくお父上が許されましたな』といったあれは単に危険なスポーツをすることに対してではなく、あいつの兄貴のことを知っていたからなのかもしれない。今会長なのだから、決してにわか会員ではないだろう。滑落事故が起きた時に会に所属していた可能性は高い。もしかしたら、北岳登攀に同行していたかもしれない。
「話を聞いてみるか」
出歩くのは好まない質だが、問題の先延ばしはもっと好かない。それにマットやザックなどまだそろえていない用具もある。遅かれ早かれ日和見荘には行かねばならないのだから、今日行ってもいいだろう。今四時半だ。急げば夕食には間に合う。
俺は身支度をして、家を出た。
夏の日は長い。まだ空は明るく、電車からは街を行く人が良く見えた。真夏の空の下だ。サラリーマン風の男性は、ハンカチを手にして汗をぬぐっている。こんなに暑いのに、スーツを着なければならないというのはたいそう不条理なことのように思えるが、これがこの国の風習である。いずれは俺も従わなければならないのだろう。
名古屋駅で電車を降り、日和見荘へと向かう。
「いらっしゃい」
店主、松下銀二さんは快活な様子で俺を迎えた。
「あのう、すみません」
俺は声をかける。
「何をお探しですか?」
「今日は聞きたいことがあってこちらに伺ったのです」
「何でしょうか」
「高橋雅英さんのことについてお尋ねしたいのです」
俺の言葉を聞いた、松下さんは顔を曇らせた。訳知り顔である。やはり、北岳冬期登攀に同行していたのだろう。
「君は誰だね」
「綿貫さんの知り合いです」
「もしかして、綿貫の御嬢さんと一緒に当店にお越しくださっていた人かな?」
「はい」
「すまないが、名前を覚えていない。お聞きしたかな」
「言ってないと思います。深山太郎といいます」
「して、深山君、いったい何を聞きたいというんだね。新聞社に話した以上のことは話せないと思うんだが。そのくらいのことは君も知っているんだろう」
「ちょっとした確認をしたいのです」
「答えられることなら答えるが、その前になぜあの事件のことを調べているのか教えてくれないか」
「さやかさんに頼まれているんです。さやかさんは彼女のお兄さんが失踪した原因があの事件と関係があるのではと睨んでいるんです」
「まってくれ、隆一君が失踪したって?」
「ご存じなかったですか?」
「ああ、ちなみにいつ頃?」
「去年の夏だそうです。綿貫家の主人の話を聞くに山に行ったそうなんですが」
松下さんは暗い顔で「そうか」といっただけで他に何も言わなかった。あまり驚いた様子はない。年を取ると人は滅多に驚かなくなるらしい。松下さんは話を変える。
「それで話とは何かな?」
「簡単な質問です。隆一さんと雅英さんは仲が良かったのですか」
「深山君、それは君、愚問だよ。逆に聞くが、君はさして好きでもない人間、信用できない人間に命を預けられるか? あるいは、命綱でつながった相手に特別な感情を抱かないということがあるか? ザイルでつながった絆は、家族のそれよりも強い。よく言われていることだ」
「そうですか。では、北岳に登る前、何か変わったことはありませんでしたか?」
「というと」
「例えば、二人が喧嘩していたとか」
「君、あれは事故だったんだぞ。それに雅英君は自分でザイルを切ったんだ。喧嘩してたからって何だっていうんだ」
「ええ、一応確認です。特に意味はありません。たださやかさんはお兄さんのことについてどんなことでも知りたがっていると思うんです。彼女の狭い意味での肉親は隆一さんだけですから」
なぜか、流暢に綿貫がしゃべりもしないことが口をついて出てくる。俺は少し軽薄な人間なのかもしれんなと自嘲する気分になった。
松下さんはしぶしぶ話し出した。
「喧嘩か。そういえば行きの電車で大声上げて喧嘩していたな」
「どんな内容でしたか」
「うろ覚えだが、『お前の家は今も昔も人殺しだ』と言っていたのは覚えている」
「雅英さんがですか?」
「ああ、あまりに衝撃的な言葉だったから覚えていたよ。あれは喧嘩というより、雅英君が一方的に騒いでいる感じだったな。隆一君は怒りもせずにそれをなだめている感じだった。すぐに雅英君も落ち着いたから、私もあまり気にしていなかったんだが。だから、関係ないだろう。滑落事故にはもちろん、隆一君の失踪についても」
「そうでしょうね。ありがとうございました。質問は以上です」
「この話が御嬢さんの調査の役に立つとも思えんがな」
「何が役に立つかは、調べているときはわからないものですよ」
「それは道理だが……。それで、今日は話だけなのかな?」
「あっ、いえ、マットとザックを買いに来たんです」
俺は必要な用具を購入したのち、家に帰った。
今日、あのような話を聞いたのには理由がある。高橋雅英の母親から話を聞いた時から、引っかかっていたことがあったのだ。
いくら友達を救うためといっても自らの命をみすみす捨てるようなことができるのか、ということだ。高校一年生がそのような行動をとっさにできるのかと。
俺は考えられる原因を思索した。
高橋雅英は引きこもりがちで、どちらかというと、精神的に不安定なところがあった。それがザイルを切って自らの命を捨てるという行為につながっているのならば、事故の起きる前に何か予兆があったのではと思ったのだ。
今日は興味深いことを聞けた。『お前の家は今も昔も人殺しだ』。これの意味するところのものは大きいだろう。このことを綿貫に報告するのは少々気が重たいが、これは綿貫の調査だ。知らせないわけにはいかない。あいつは真実を知るためには多少痛い目にあってもいいという覚悟でいる。ならば俺がためらうべきではないだろう。
明日になったら綿貫に伝えようと思い、俺は寝床についた。
俺は翌日、部室で綿貫と二人だけの時を見計らって、昨日知り得たことを綿貫に伝えた。
「高橋さんがそんなことを言っていたなんて」
「そうだな。俺も驚いた」
「どういう意味なのでしょうか」
「お前の家が人を死なせているということだろう」
「いえ、そうではなくてですね、そういうことを言った背景がわからないんです」
「そうだなあ。……昔というのがどのくらいか分からないが、お前の家が腰にチャンバラをぶら下げていた時のことを指すのならば、複数人、人を殺していてもおかしくないだろう。それが武士の仕事であるからな。
それに対して今というのは、当然俺達が生きている時代の事だろう。そしてお前の家は病院経営をするに至っている。そこで人殺しとはどういうことか。医者というものはむしろ人を助ける仕事だ。だが、医術は、お前のほうがよく知っていると思うが、万能ではない。人は必ず死ぬ。病院で助けられない命も当然あるだろう。医者にしてみれば理不尽なことかもしれないが、死んだ患者にしてみれば、病院に殺されたと思われても仕方ないのかもしれない。
……飽くまで推論に過ぎんが、高橋雅英は極親しい人をお前の家の病院で亡くしている可能性がある」
綿貫はしばらく何も言わなかったがポツリと口を開いて言うには、
「……井上奏子さん」
「ん?なんだ」
「井上奏子さん。高橋さんの恋人だったようです。彼の日記に名前がよく出ていました。そして最後に出てきたのが『奏子はもう永遠に俺のもとには戻ってこない』北岳登攀の一か月前の記述だったと思います」
俺は綿貫の化け物並みの記憶力に舌を巻いた。綿貫の言う日記とは、高橋家で一度見せてもらったもののことだ。たった一度見た記述を綿貫は覚えていたのである。
「よくそんなこと覚えていたな」
「私、記憶力には自信があるんですよ。それに『永遠に』という言葉が引っかかっていたものですから」
「その井上奏子がお前の病院に入院していたかどうか調べられるか?」
「医者には守秘義務があるんですよ」
「病院のトップのお嬢さんが頼み込むんだ。教えてくれるんじゃないか」
「……悪いこと考えますね。……分かりました。叔母の甥も大海原で働いています。その人とは親しいので頼み込めば調べてくれるかもしれません」
「頼んだ」
さて、報告は済んだ。久々に運動をしなければ。明後日には山行が控えている。このなまった体で登るのは危険だ。明日はさすがに激しいトレーニングはできないし,今日走らなくては。
俺が部活を始める準備をしようと思ったところで、綿貫が話しかけてきた。
「あのう」
「なんだ」
「高橋さんが、兄に、大海原病院で亡くなった人のことを言ったからといって、兄の失踪に影響を与えるようなことになるのでしょうか? 仮に井上さんが大海原で亡くなっていたとしても、免許すら持っていない兄が関知することではないですよね」
俺は、少し考えてから、こう綿貫に告げた。
「お前の疑問はもっともだ。だがこう考えてみてくれ。高橋は北岳で宙づりになったとき、すぐにザイルを切った。妙じゃないか? お前の兄貴がピッケルで体を固定していたのならば、高橋は壁をよじ登ることだってできたはずだ。なのにそうしなかった」
「でもそうすると二人とも助からなくなると判断して……」
「だが、弱冠十六の人間が、親友の命を助けるためといえど、すぐにその命綱を断ち切れるだろうか? ましてや、宙ぶらりんの状態で冷静な判断ができるか?俺は怪しいと思う。高橋雅英の母親も言っていただろう。雅英は引きこもりがちだったと。言い方は悪いかもしれないが、彼は打たれ弱い人間だった。事故当時、高橋の精神状態は非常に不安定だったんじゃないだろうか。だから、お前の兄貴に誹謗 を言い、そして、自らの命をなげうつのをためらわなかったんだ。雅英がザイルを切ったのは単に友人を助けるためじゃない。彼の不安定な精神状態があったが故の悲劇だったのさ。恋人の死、それだけで雅英が自暴自棄になるには十分だった」
「だったら私の兄は」
「お前の兄貴は悔いたんだ。高橋雅英を北岳に連れて行ったことに。友人の精神状態に気づくことが出来ず、結果として、友人は死んでしまった。自責の念が長年、お前の兄貴の中に渦巻いていたであろうことは想像に難くない」
「なるほど」
「だが、何が引き金となってお前の兄貴が家を出たかはまだわからんがな。それにあくまでこれも推論でしかない。とりあえず、井上奏子が大海原に入院していたかどうかだけ調べておいてくれ」
「はい」
「じゃあ俺は着替えるから」
「私も着替えますね」
綿貫は仕切りの向こうに行った。
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