八月のクローバー

野草のな

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涙は海色 笑顔は金色

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雨は、しばらくやみそうになかった。

つかれてうとうとしはじめたあにいは、布団をかぶらずに眠ってしまった。

いくらコードが暖めてくれているとはいえ、肌をさらしたまま寝るのは無防備すぎる。とりあえず、近くにあった毛布で適当にくるんでやった。

全く、世話が焼けるな。

自分も隣に寝転んでみたが、まだ眠るには早い時間だった。

ここには時計はないので、日が落ちてからどれくらいの時間がたったかを、体の感覚で計っている。

今日はずっと雨だったのでわかりづらいけれど、大体日没後三時間、といったところだろうか。

俺はあにいの横にほおづえをついて、ぼんやりと外を眺めた。

エルゼは、いつのまにか出ていってしまっていた。

今日はもう出掛けない、みたいなことを言っていたのに、気が変わったらしい。

彼女はいつもタイミングよく現れて、必要のないときはいない。

俺は寝返りをうち、眠っているあにいの顔を見つめた。

枕元にころがしたホタル石のランプに照らされて、彼はすやすやと眠っていた。

ホタル石のランプというのは、エルゼが作ったものだ。寝床の温熱コードが動いている間、一緒に光るようになっている。

ホタル石の結晶に、温熱コードの発動を感知し、連動して光る別のコードが組み込んであるらしい。

ぼんやりと弱くて柔らかい光なので、眠るのに支障はない。

エルゼはそれをいくつも作って、寝床のあちこちに、適当に転がしていた。

今も、あにいの目と鼻の先にランプが転がっているが、彼は何も気づかず眠っていた。

俺は静かに、彼の額をなでてやった。

あにいは、人と比べて、少しひたいが広い。

カチューシャが前髪をとめているので、何もかくすことなく、ひたいが全面に出ている。

俺は、そのひろいところをさすった。

ちょっと脂っぽかった。

ふいに、あにいがうん、とうめいて顔をしかめた。そして、とろりと目を細く開いた。

俺は慌てて、手を引っ込めた。

「悪い、起こしたか」

あにいは目をしょぼつかせながら、俺をぼんやりと見つめた。まだ意識がはっきりしていないみたいだが、かろうじて、俺のことはわかったらしい。

「チタル」

と、呼び掛けてきた。

ぼんやりした目のまま、あにいは口を動かす。

「おまえ、なんで、指、曲がってるんだ」

「えっ?」

唐突にたずねられ、俺は面食らった。

何で急に、指の話なんか持ち出すんだ。

いつかは聞かれるかと思っていたが、今とは思わなかった。

俺は、口ごもる。困ってしまった。

俺の指は、確かに少し、曲がっている。

生まれつきではない。ちょっとした事故の影響だった。

正直、そのことは思い出したくもないし、あまり話したくもなかった。

聞かれたら、答えないわけにもいかないけれど。

あにいを見ると、彼はまだずいぶん眠そうだった。

話しても、うまく忘れてくれるかもしれない。

俺はため息をついて、口を開いた。

「踏まれたんだよ」

「ふまれた」

あにいは、おうむ返しにつぶやいた。

その顔はとろんとしていて、言葉の意味を理解してはいなさそうだった。

しかし、

「足で?」

と、どこかとんちんかんながらも、ちゃんと流れに沿った問いを返してきた。

「そうだよ。足で踏まれたの」

俺はため息をついた。我ながら、妙な会話をしているな、と思った。

ふと、あにいの目が、大きく見開かれているのに気づいた。

俺が驚いた、その一瞬で、あにいの目の奥に光が入った。虹彩の輪が、たった今目覚めたようにきらめいた。

あにいは、わずかに身を起こした。アメジストの瞳が、悲愴なコバルトの影を帯びて揺れた。

「人の、足でか?」

ホタル石の穏やかな光のなか、あにいは目を細める。

「そうだよ」

これ以上言いたくない、という気持ちを込めて、俺は深くため息をついた。

苦いうねりが、体のなかで渦巻く。

俺を見つめるあにいの瞳に、夜の海のような静けさが満ちた。髪と同じ銀色の眉が、苦しげにゆがんだ。

彼は蚊の鳴くような声で、つぶやいた。

「それは、痛いな」

「まあね」

うなずくと、彼は泣きそうな顔をして、小さく首を横にふった。

俺はあきれてしまった。

なんで、そんな顔をするんだ。関係ないだろう、あんたには。

そう思いながら、心のどこかで、自分のことみたいに辛そうな顔をする彼に、はからずも救われたような心地がした。

俺はついと手をのばし、あにいのひたいをごしごしとなでた。

「昔の話だよ。今はもう、痛くない。特に不自由もないし、大丈夫だよ」

「でも」

俺が笑うのを見てか、あにいはますます青ざめて、とうとう目に涙をにじませた。

俺は驚いてしまった。

本当に泣いちゃったよ。

自分のことでなくても、泣けるのか。

あにいは、なにか言いたそうに俺を見つめ、口を開く。

「でも」

一言つぶやいて、あにいはほろりと、涙をこぼした。それは耳の方へ、しずかに伝い落ちた。

「うん」

俺はとりなすように、ごしごしとあにいのひたいをなでこすった。ちょっと力が強すぎたかもしれない。あにいがきゅっと目をつぶった。

優しいな。

そう思ったが、口には出さなかった。

顔立ちが少し冷たそうに見えるのと、態度がどこか横柄なのとで、彼にはどことなく、陰険なイメージがつきまとっていた。

けれど触れてみると、その感覚は繊細で、他人の心にとても敏感なのがわかる。

他人より自分を優先したり、他人が傷つくことに無頓着だったりするのは、その裏返しなのだ。

自分自身の心の柔らかさを、守るためなのだ。

雨の音が、静かにからだにしみこんでくる。

「あにい」

俺は、声をかけた。

あにいが起きているうちに、言っておきたいことがあった。

彼はふわりと目を見開き、不思議そうに俺を見た。

目元に、かすかに涙が光っている。

俺は、彼に微笑みかけた。優しく見えるように、と願いながら。

「今日、楽しかったぜ」

あにいはしばらく黙っていたが、ぽつんとつぶやいた。雨の音にかきけされそうな、かすかな声だった。

「勝ち逃げは許さない」

俺は、吹き出してしまった。

「もう、まだ言ってる。諦めてなかったの?」

「次がないとは言ってない」

あにいは至って真面目に答えた。笑いながらも、俺は納得した。

「へえ。あっそう。言っとくけど、俺もう、ババ抜きは付き合わないからな」

「オレだって、おまえとは神経衰弱やらない」

「あっそ」

「ふん」

俺たちはお互い同時に、ぷいとそっぽを向いた。

何だこれ。

急におかしさがこみあげてきた。

馬鹿みたいだな、俺たち。

でもそんなことを言われたら、俺だってたった一回とはいえ、負けたのは悔しい。

何か他の、記憶力とポーカーフェイスが必要ない方法で、決着つけられないかな。

いやまて、ポーカーフェイスがダメだと、カードゲームはほぼ全滅だ。

カード以外でということになるのか。

俺はしばし、あごをもんで真剣に考えた。

そして、思わず呟いた。

「すごろく」

「オセロ」

全く同じタイミングで、あにいも呟いていた。

「「え?」」

俺たちは、同時に目を丸くして、顔を見合わせた。

多分、俺もあにいと同じ、間の抜けた顔をしたと思う。

しばらく見つめあった後、俺たちは同時に吹き出した。

「ちょ、同じこと考えないでくれる?嫌だ俺、あにいと頭の回路が一緒なんて」

「なっ!テメエ、どういう意味だ!逸礼発言だ!」

あにいはサッと起きあがり、俺に襲いかかってきた。

「わ、ちょっ、うっわ!」

何をするまもなく、思いきり脇腹をくすぐられた。

「ぎゃあ!ああっ、やめて、ちょ、マジ!やめて!」

俺は泣き笑いの悲鳴をあげた。

逃れようとじたばたしたが、頭の回路はともかくとして、体格でも力の強さでも、俺はあにいには全く歯が立たなかった。

抵抗むなしく、脇の下の柔らかいところを絶妙に刺激されて、俺は悶絶した。

「やめて、降参、こうさん!悪かったです、ゴメンナサイ!」

ついに俺が叫ぶと、あにいはゆっくりと俺から離れた。

勝ち誇った笑みを浮かべている。ちょっと邪悪だった。

俺はつい、腹立ちまぎれに捨て台詞をはいた。

「くっそー、覚えてろ。次の勝負で負かしてやるからな」

「ほお?すごろくで?」

あにいは悪役みたいに、くいと唇をねじあげて笑う。

なんというか、様になっていた。

同時に俺は、すごろくで勝敗を競う俺とあにいの姿を、頭のなかに思い描いた。

真面目くさってサイコロをふり、ちょんちょんとコマを進めて、一喜一憂する二人の図。

「地っ味!!」

つい、叫んでしまった。

「いや!ごめん、ダメだな!地味すぎるわ、キノコ生えてきちゃうわ!オセロにしよ、オセロに!」

俺は慌てて、ブンブン手首を振った。

自分で思いついておきながら、切なくなるほど地味な勝負だ。いっそ、ほほ笑ましい。

ふと見ると、あにいは布団に突っ伏して、腹を抱えて大爆笑していた。

「なんなの、おまえ。自分で言うなよ。あぅ、腹痛え」

笑いすぎて腹筋がつったらしく、彼は涙目になってもだえた。

俺もつられて、くすっと笑ってしまった。

「なんだよ、自分だってさっき、俺の腹筋攻撃しただろ」

「内側から破壊するなんて反則だ」

「なんとでも。この勝負は、俺の勝ちだな」

「なんの勝負だよ」

「笑わせ大会?」

「してねえわ、勝手にはじめんな!」

「はじめたのは、あにいだろ」

「何でだよ、元はと言えばチタルだろ」

「あにいです」

「チタルだっつってんだろうがっ」

「あにい、大人げないよ。年上でしょ?」

「なっ、おまえこそ可愛くないぞ、年下のくせに!」

「あにいは可愛いよ?ほら、可愛い可愛い」

「うあぁっ!可愛いって言うなあ!」

「かわいーかわいー」

「おっのれえ、馬鹿にしやがってえっ」

あにいは頬を赤くして、頭から湯気を吹いた。

俺はすかさず、そのおでこに手を伸ばして、ナデナデしてやった。

おでこはあにいの急所だ。ここをなでると、彼は大人しくなる。

「うっ、ぐうっ」

恥ずかしさと心地よさのせめぎあいに、彼の顔は炎のように真っ赤になった。あっという間に、涙目になってしまう。

俺は、自分の言葉に、自分でうなずいた。

確かに、これは可愛い。

「ああああぁっ!もうやめろぉ!」

こらえかねたあにいが噴火した。

俺は、あにいの機嫌をなおすために、その後しばらく、彼の頭をなでさすることになった。

俺がなでてやっているうちに、彼はまた、ぷつんと糸が切れたように、眠ってしまった。

もう一度、彼に毛布をかけなおし、隣に寝転んだ。

今度はすぐに、俺にも眠気がやってきた。

目を閉じたとき、まぶたにあにいの笑顔が浮かんだ。

今日初めて見た、満面の笑み。

空の青さに立ち向かう金色の花に、よく似た笑顔だった。




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