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春を呼ぶ手
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ずっと、言い訳していた。
気がつかないふりをしていた。
あるときから、痛みという感覚が消えた。
悲しいはずのこと、辛いはずのことに出会っても、心は悲鳴をあげなくなった。
ぼんやりとした違和感が、まとわりつくだけ。
濃い霧に包まれたように、不安が体を包み込むだけ。
なにも感じない。
でも、あの手がオレをなでてくれたとき、大丈夫だよと言ってくれたとき。
どうしても取り戻すことのできなかった、あの鮮やかな痛みが、生きているという感覚が、背中を押すように戻ってきた。
すごく痛かった。胸が苦しくて、息が詰まって。
痛いことが嬉しかった。
心はまだ、死んでいなかった。
オレは、そっと目を開けた。
すぐに、隣に寝転ぶ少年の顔を見つけた。
オレを助けてくれた、チタルという少年だった。
細くて柔らかな木陰色の髪に、温かいココアブラウンの瞳。今は眠っていて、目の色は見えないけど。
五月の陽光みたいに、優しい手を持っている。
その手でオレをなでてくれた。
頭をなでられれば頭が、背中をさすられれば背中が、喜んで震えた。光がそこに集まってきた。
薄気味悪い霧のような不安も、その光と熱を浴びて透き通った。きらきらと輝いた。
力強くオレの体に満ちてきた、その透明な何かの名を、オレは思い出せなかった。
感じたことはあるけれど、わからない。
オレの頭は、もうずっと前から、考えることをやめていた。
考えれば考えるほど、不安の霧が濃く深くなって、歩けなくなってしまうから。
でも体をなでてくれる手を、導いてくれる声を感じると、心は自然に動きだした。
霧を抜け、光を浴びて、もう一度、考えはじめた。
この透明な力強さは、一体何なのか。
その手が背中を押してくれると、眠くなったり、腹が減ったり、急に傷口が痛んだりする。
頭をなでてくれると、嬉しくてこそばゆい気持ちの裏側で、よくないことをたくさんしてしまった、と後悔する。
泣きたくなる。
透明で柔らかい、ボールみたいなものに体を押されて、気持ちよくて泣いてしまう。
たくさんなでてもらったあとで、たくさん泣いてしまったあとで、ようやくオレは気づいた。
この透明なもの。
これは、安心感だ。
ずっと不安だった心に、朝日がさして、夜が終わった。
満ちていく、開かれていく。
オレはまだ生きている。痛んだところは、手当てしてもらった。傷はちゃんと治る。
心が落ち着いて、安心した。
それも全部、チタルがなでてくれたから。
大丈夫だよと言ってくれたから。
その手と声が、オレに色んなものを呼び覚ましてくれた。
のどを潤す水の甘さ。自分の体の温かさ。
誰かと一緒にいると、不安が消えていくこと。
手をつないだら、何かを乗り越えられるような気がしてくること。
胸の奥に、本当はずっとしまってあった、切ない痛み。
誰にも見せず、自分でもかえりみないで、隠しておいた心の傷も。
チタルが触れてくれると、心にあふれだした。
あふれだした色んなものを、チタルの手は優しく押して、さらさらと流れるようにしてくれた。
苦しみや痛みは、気持ちよさに、にごりやよどみは、透き通ったものに変わっていった。
チタルの指は、すこし曲がっていた。
薬指が、曲がるはずのない方向に曲がっている。そのせいで、薬指の爪が中指に食い込んでいた。関節が歪んでいるのかもしれない。その薬指はもちろん、どうやら隣の小指も、うまく曲げられないようだった。ちゃんと動く指が三本しかないせいか、彼は不器用だった。
紐を結んだり、ほどいたりするのが苦手で、リンゴの皮むきはできない。スプーンしか使えないし、持ち方もちょっと怪しい。
でも、オレをなでてくれるときは、いつも頼もしかった。
その手が触れてくれるたびにオレは、どっしりとした木の木陰を思った。木漏れ日がきらめいて、安らぎに揺れる風景を。
チタルの手は、春の陽光みたいだった。
長く冷たく乾いた冬が、オレの悲しみが、その手に押し出されて、涙と一緒に流れていった。
気がつかないふりをしていた。
あるときから、痛みという感覚が消えた。
悲しいはずのこと、辛いはずのことに出会っても、心は悲鳴をあげなくなった。
ぼんやりとした違和感が、まとわりつくだけ。
濃い霧に包まれたように、不安が体を包み込むだけ。
なにも感じない。
でも、あの手がオレをなでてくれたとき、大丈夫だよと言ってくれたとき。
どうしても取り戻すことのできなかった、あの鮮やかな痛みが、生きているという感覚が、背中を押すように戻ってきた。
すごく痛かった。胸が苦しくて、息が詰まって。
痛いことが嬉しかった。
心はまだ、死んでいなかった。
オレは、そっと目を開けた。
すぐに、隣に寝転ぶ少年の顔を見つけた。
オレを助けてくれた、チタルという少年だった。
細くて柔らかな木陰色の髪に、温かいココアブラウンの瞳。今は眠っていて、目の色は見えないけど。
五月の陽光みたいに、優しい手を持っている。
その手でオレをなでてくれた。
頭をなでられれば頭が、背中をさすられれば背中が、喜んで震えた。光がそこに集まってきた。
薄気味悪い霧のような不安も、その光と熱を浴びて透き通った。きらきらと輝いた。
力強くオレの体に満ちてきた、その透明な何かの名を、オレは思い出せなかった。
感じたことはあるけれど、わからない。
オレの頭は、もうずっと前から、考えることをやめていた。
考えれば考えるほど、不安の霧が濃く深くなって、歩けなくなってしまうから。
でも体をなでてくれる手を、導いてくれる声を感じると、心は自然に動きだした。
霧を抜け、光を浴びて、もう一度、考えはじめた。
この透明な力強さは、一体何なのか。
その手が背中を押してくれると、眠くなったり、腹が減ったり、急に傷口が痛んだりする。
頭をなでてくれると、嬉しくてこそばゆい気持ちの裏側で、よくないことをたくさんしてしまった、と後悔する。
泣きたくなる。
透明で柔らかい、ボールみたいなものに体を押されて、気持ちよくて泣いてしまう。
たくさんなでてもらったあとで、たくさん泣いてしまったあとで、ようやくオレは気づいた。
この透明なもの。
これは、安心感だ。
ずっと不安だった心に、朝日がさして、夜が終わった。
満ちていく、開かれていく。
オレはまだ生きている。痛んだところは、手当てしてもらった。傷はちゃんと治る。
心が落ち着いて、安心した。
それも全部、チタルがなでてくれたから。
大丈夫だよと言ってくれたから。
その手と声が、オレに色んなものを呼び覚ましてくれた。
のどを潤す水の甘さ。自分の体の温かさ。
誰かと一緒にいると、不安が消えていくこと。
手をつないだら、何かを乗り越えられるような気がしてくること。
胸の奥に、本当はずっとしまってあった、切ない痛み。
誰にも見せず、自分でもかえりみないで、隠しておいた心の傷も。
チタルが触れてくれると、心にあふれだした。
あふれだした色んなものを、チタルの手は優しく押して、さらさらと流れるようにしてくれた。
苦しみや痛みは、気持ちよさに、にごりやよどみは、透き通ったものに変わっていった。
チタルの指は、すこし曲がっていた。
薬指が、曲がるはずのない方向に曲がっている。そのせいで、薬指の爪が中指に食い込んでいた。関節が歪んでいるのかもしれない。その薬指はもちろん、どうやら隣の小指も、うまく曲げられないようだった。ちゃんと動く指が三本しかないせいか、彼は不器用だった。
紐を結んだり、ほどいたりするのが苦手で、リンゴの皮むきはできない。スプーンしか使えないし、持ち方もちょっと怪しい。
でも、オレをなでてくれるときは、いつも頼もしかった。
その手が触れてくれるたびにオレは、どっしりとした木の木陰を思った。木漏れ日がきらめいて、安らぎに揺れる風景を。
チタルの手は、春の陽光みたいだった。
長く冷たく乾いた冬が、オレの悲しみが、その手に押し出されて、涙と一緒に流れていった。
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