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りんごの蜜煮とアメジスト
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どうやら、俺たちの対処は遅すぎたようだった。
オグは、服を着せ替え終わらないうちからぐったりしはじめ、布団に倒れて、こんこんと眠り込んでしまった。
夕方になって目を覚ましたときには、瞳が潤んで、かわいそうなほど真っ赤になっていた。
そんな彼を見ていると、なんだか昔を思い出した。
エルゼとここに来る前、俺は教会で暮らしていた。
教会というのは基本的に、どこかが病んでいる人間が来るところだった。
病人の看護は日常の仕事のひとつだった。子供でも働き手として、容赦なく一人前以上の仕事をさせられる。
それがいつのまにか、俺の体に深くしみこんでいたようだった。
俺の倍はあるオグの体を、起こしたり支えたりするのは大変だった。けれど、奇妙な慣れで、体が動くのだった。
エルゼは、外の川原にいた。
彼女の仕事は、主に炊事だ。
食料の調達から調理まで、一手にまかなう。
ちなみに俺は、関わらせてもらえない。彼女いわく、俺はその手の仕事をするには不器用すぎるのだそうだ。
甘くていい匂いが、土管の奥にいる俺たちのところにまで流れてきた。
これは、彼女お得意の、りんごの蜜煮の匂いだ。
リンゴにはちみつを加え、やわらかく煮詰めてつくる。
急にその匂いが濃くなったと思うと、エルゼがとことこと土管を歩いて、こちらへやってきた。
俺は奥の寝床で、オグのそばについていた。
オグは赤い顔で、静かに眠っていた。
俺たちの寝床は、ひとことでいうと、鳥の巣に似ていた。
底が丸い土管に、拾ってきたクッションやマットレスを盛りあげ、平らにした上に、毛布やブランケットを何枚も重ねている。
かなり分厚い層になっていて、いろんなものが敷き詰めてあった。全部拾ってきて、きれいに洗って天日干ししたものだ。
ちょっとでこぼこしているが、くぼみに体がはまって、寝心地は良かった。
オグはそこに、首までうまって眠っていた。
エルゼが近づくと、彼は目を開けた。
彼女が持っている器から、甘くて濃厚な蜜の匂いがただよっている。
どうやら、彼はその匂いに反応したらしかった。
エルゼが目を輝かせた。
「起きたか。さあ、わたし特製のリンゴの蜜煮を作ってやったぞ。これを食べて、またゆっくり眠れ」
オグは起き上がって、器をのぞきこんだ。
その目を見て、俺はかすかに胸が痛むのを感じた。
赤く腫れた目の奥が、キラキラしていた。とても腹がへっていたのだろう。
俺はエルゼに場所をゆずり、一言だけ声をかけた。
「熱いから、気をつけろよ」
オグはぼんやりした目で俺を見た。
エルゼに器をさしだされ、ほとんど押し付けられる格好で受け取って、ひざの上にのせる。
けれど、彼はそこから動かなくなった。困惑したような顔をしている。
しばらく見ていると、オグはぎこちなく口を開いた。
「あの」
ほのかに湯気をたてるリンゴの蜜煮に目を細め、彼はかすかに首をかしげて、俺たちを見た。
「これ」
食べていいのか、と聞いているようだった。
俺はうなずいた。
「口に入れてやろうか?」
冗談めかして言ったところ、オグはぼんやりしたまま、首を横にふった。そして、自分でスプーンを持ち、すくって一口、食べた。
俺はオグの横に肩を並べて座り、エルゼもそのとなりにすわった。
しゃくしゃく、とオグがリンゴを噛みしめる音が、遠くの水の音と一緒になって、配管のなかに響いた。
一口飲み込むごとに、オグの目は見開き、輝いていくのがわかった。口に運ぶスピードもはやくなった。最後のほうは夢中でかきこんでいた。
俺もエルゼも、微笑んでそれを見守っていた。
リンゴの蜜煮の美味さは、俺たちが一番よく知っている。
やがて食べ終わり、名残惜しそうに器を見つめたあと、ふいに思い出したみたいに、オグは俺たちに目を向けた。
俺が微笑んでやると、オグはびくりと肩をふるわせ、とまどったように目をそらした。
俺はその手から、空の器とスプーンをとりあげた。
「はい、ごちそうさま」
俺はてきぱきと、ぽかんとしているオグに白湯をのませ、再び毛布のなかに押し込んだ。
オグは終始、驚いたような顔をしていた。
そのまま、布団のなかからじっと俺を見つめてくる。
俺は思わず笑ってしまい、たずねた。
「何だよ?」
オグは、ちょっと気後れしたみたいに首をすくめ、言おうかどうしようか迷うようなそぶりをしたあと、ぽつんと言った。
「もっと欲しい」
「もっと欲しい?」
思わずそのまま聞き返すと、彼は肩を縮めながら、かすかにうなずいた。
おかわりしたいってことか。
それはそうだ。足りないよな。確かに量が少ない。
俺は納得しつつ、首をひねった。
そんなに縮こまらなくていいのに。
まるで、今にも叱られるんじゃないかとおびえているような顔をしている。
俺は安心させるために、彼の頭をなでてやった。
エルゼに目配せすると、もうすでに彼女は立ち上がっていて、堂々とうなずき返し、まかせろ、と小声で言って出ていった。
「つくってくれるって」
俺がそっと言うと、オグはびっくりしたように顔をあげた。
喜んでいいのかどうか、とまどっているみたいだ。
「ちょっとだけ待ってくれな」
俺はそう言って、なだめる意味で、また頭をなでた。
オグの髪は、さらさらですべすべだった。
きちんと手入れし続けているのがわかる、綺麗な髪だった。
ここには、まともな風呂はない。このさらさらした髪も、今だけだ。そのことを思うと、ちくりと胸が痛んだ。
ふいに、オグが何かを問いかけた。聞き取れなかった。
俺が問い直す前に、オグは早口でもう一度言った。
「俺、わがままだと思う?嫌い?嫌いになる?」
あまりに突飛だったので、一瞬頭がくらっとした。
どういうことだ?なんでそんな話に?
わからなかったので、そのままたずねた。
「どうしてそんなこと聞くんだ?嫌いになんかならないよ」
オグはおどおどしながらも、探るように俺を見ていた。気にしているのだろうか。誰かになにか、言われたのか。嫌なことでもあったのだろうか。
気の利いた答えを他に思い付かなくて、俺はまた、彼の頭をなでた。指が髪をとおる感触が気持ちいい。
オグはじっとしていたが、まだ不安そうな顔をしていた。
俺は言ってやった。
「リンゴおかわりしたくらいでわがままなもんかよ。欲しいものは、欲しいって言っていいの」
俺としては、子守り歌を歌ってやるような気持ちで、思ったことを素のまま言っただけだった。
それをオグがどう受け取ったかは、わからない。
けれど気づいたときには、オグは肩をひきつらせて涙をぼろぼろこぼしていて、俺は慌てて彼の頭を抱いたが、もう遅かった。
エルゼが戻ってきたときには、オグはわんわん泣き、俺が必死でなぐさめているという、まるで俺が泣かしたみたいな図になっていた。
実際俺が原因なのだろうけれど、何がひきがねになったのかはわからない。
エルゼは器を布団の上に注意深く置いてから、腰に手を当てた。そして、あきれた声を出した。
「何を泣かしているんだ」
違うと言いたかったが、どう見てもその通りだった。
俺はオグの頭をなでながら、
「ごめん」
と謝った。
オグの泣き声が一段と高くなった。
エルゼが脇によってきて、そっとのぞきこんだ。
オグは伏せたまま激しくしゃくりあげていた。
優しい声で、エルゼが呟く。
「そうか。嬉しかったのか」
何かが通じあったみたいに、エルゼのその言葉で、オグの泣き声は少し小さくなって、やがてとまった。
余韻でしゃくりあげているオグの背中をさすって、エルゼは俺に目を向け、ウインクしてみせた。
何がなんだかわからなかった。
一体、何をどう解釈したのか。
嬉しかった?
わからないが、つまり、害はないってことなのか。
俺は理解するのをあきらめ、首をすくめた。とりあえずうなずいておく。
エルゼはときどき、人の心を読んだり、見透かしているようなことを言う。もしかしたら、今のオグの心の声も、エルゼには聞こえたのかもしれない。
俺には、あいにくそういう霊感のようなものはなかった。まあ、仕方ない。人それぞれだ。向き不向きがある。
俺は、やっと落ち着いてきたオグの髪をなでてやって、声をかけた。
「リンゴ、食べないの?できたってよ」
エルゼが思い出したように身をはねおこし、器をあにいにさしだした。
「スプーン」
俺が言うと、
「ここにあるぞ!」
と得意気に、着ているぶかぶかのコートのポケットからひっぱりだした。
「どこに入れてるんだよ」
「ポケットとは、ものを入れるためにあるのだぞ」
「いや、そうだけど、そうじゃなくて」
俺たちのやりとりをよそに、オグがもぞもぞと布団からはいでてきて、ぺたんと座った。
彼がじっと俺たちを見つめたので、俺たちはどちらからともなく、言い争うのをやめた。
エルゼはすぐに、得意満面の笑みをうかべた。オグに改めて、リンゴの蜜煮をさしだす。
受け取ったオグは、すぐに食べ始めなかった。どこか、遠慮しているみたいだった。
しばらくして、もじもじしながら彼は一言、つぶやいた。
「ごめんなさい」
一瞬、俺とエルゼは顔を見合わせて、ぽかんとした。
何故、謝るのか。
俺より先にエルゼが笑い、豪快に言い放った。
「何をあやまることがある。気にするな。いっぱい食え。食ってよく寝るがいい」
どこまでもえらそうな物言いだったが、気遣いにあふれた優しい口調だった。
俺も同じ意見だったので、黙ってうなずいた。言葉を付け足す必要はなかった。
オグはまだ不安そうな顔で、おずおずとスプーンを握った。
けれど、食べ始めると、さっきと同じで、すぐに夢中になった。俺たちも、さっきと同じように見守った。
最後のひときれになったとき、それを見つめて、オグはすこし切なそうな顔をした。
エルゼがぽんと言った。
「また明日もつくってやる」
その言葉を聞いて、オグは最後のひときれを口にいれ、かみしめて、味わって、のみこんだ。
そして、聞こえないくらいかすかな声で、言った。
「ごちそうさま、でした」
まるで、その言葉を使ったことがないみたいな、とまどいぶりだった。
「うむ!」
エルゼが尊大にうなずいたので、その余韻もかききえた。ふと、オグは穏やかな顔になって、エルゼを見つめた。それに気づいたのか気づいていないのか、エルゼはぽんと言い放った。
「では、またしばらく眠るがいい。わたしたちはずっとそばにいる。何かあっても大丈夫だ。安心して眠れ」
俺は何も言わず、おびえさせないように気をつけて、オグの乱れた髪をすいてなでつけてやった。
オグはほんの一瞬、気持ち良さそうに目を細めた。けれど、すぐにばつの悪そうな顔に逆戻りした。
俺はそのすきをついて、オグをもう一度、布団におしこんだ。そのとなりに、自分も寝転んだ。
オグと目があった。
限界まで見開かれた紫の瞳は、しっとりと露にぬれたブドウを思わせた。
銀色の髪には、よく見るとところどころに、本物の白髪が光っていた。
俺が黙ってなでてやると、気のせいかオグの目は、きらきらと輝いた。
こんな宝石を見たことがある、と思い出す。
教会で見た司教のロザリオに、こういう濃い紫色の水晶がはめこまれていた。
水晶、いや、違う。石の名前はたしか、アメジストとかいった。
俺は、思わずつぶやいていた。
「きれいな目だな。そういう色の宝石、知ってるよ」
オグはめんくらったらしく、目だけでなく口もぽかんと開いた。瞳に光が入って、紫色が少し淡くなった。
俺は微笑みがうかぶのを感じながら、少し照れくさくなって顔をそむけ、寝返りをうった。
天井を見上げると、俺たちの影が大きく曲がりながら、長く伸びていた。
細く亀裂が入った配管の壁から水がもれだし、割れ目から広がったしみが、複雑な模様を描き出している。
そこに何かの形を見つけるのが、俺の寝る前の日課だった。
あにいにもいくつか教えてやろうと思い、俺はもう一度寝返りをうった。
けれど見てみると、オグは目をとじ、眠ってしまっていた。
オグは、服を着せ替え終わらないうちからぐったりしはじめ、布団に倒れて、こんこんと眠り込んでしまった。
夕方になって目を覚ましたときには、瞳が潤んで、かわいそうなほど真っ赤になっていた。
そんな彼を見ていると、なんだか昔を思い出した。
エルゼとここに来る前、俺は教会で暮らしていた。
教会というのは基本的に、どこかが病んでいる人間が来るところだった。
病人の看護は日常の仕事のひとつだった。子供でも働き手として、容赦なく一人前以上の仕事をさせられる。
それがいつのまにか、俺の体に深くしみこんでいたようだった。
俺の倍はあるオグの体を、起こしたり支えたりするのは大変だった。けれど、奇妙な慣れで、体が動くのだった。
エルゼは、外の川原にいた。
彼女の仕事は、主に炊事だ。
食料の調達から調理まで、一手にまかなう。
ちなみに俺は、関わらせてもらえない。彼女いわく、俺はその手の仕事をするには不器用すぎるのだそうだ。
甘くていい匂いが、土管の奥にいる俺たちのところにまで流れてきた。
これは、彼女お得意の、りんごの蜜煮の匂いだ。
リンゴにはちみつを加え、やわらかく煮詰めてつくる。
急にその匂いが濃くなったと思うと、エルゼがとことこと土管を歩いて、こちらへやってきた。
俺は奥の寝床で、オグのそばについていた。
オグは赤い顔で、静かに眠っていた。
俺たちの寝床は、ひとことでいうと、鳥の巣に似ていた。
底が丸い土管に、拾ってきたクッションやマットレスを盛りあげ、平らにした上に、毛布やブランケットを何枚も重ねている。
かなり分厚い層になっていて、いろんなものが敷き詰めてあった。全部拾ってきて、きれいに洗って天日干ししたものだ。
ちょっとでこぼこしているが、くぼみに体がはまって、寝心地は良かった。
オグはそこに、首までうまって眠っていた。
エルゼが近づくと、彼は目を開けた。
彼女が持っている器から、甘くて濃厚な蜜の匂いがただよっている。
どうやら、彼はその匂いに反応したらしかった。
エルゼが目を輝かせた。
「起きたか。さあ、わたし特製のリンゴの蜜煮を作ってやったぞ。これを食べて、またゆっくり眠れ」
オグは起き上がって、器をのぞきこんだ。
その目を見て、俺はかすかに胸が痛むのを感じた。
赤く腫れた目の奥が、キラキラしていた。とても腹がへっていたのだろう。
俺はエルゼに場所をゆずり、一言だけ声をかけた。
「熱いから、気をつけろよ」
オグはぼんやりした目で俺を見た。
エルゼに器をさしだされ、ほとんど押し付けられる格好で受け取って、ひざの上にのせる。
けれど、彼はそこから動かなくなった。困惑したような顔をしている。
しばらく見ていると、オグはぎこちなく口を開いた。
「あの」
ほのかに湯気をたてるリンゴの蜜煮に目を細め、彼はかすかに首をかしげて、俺たちを見た。
「これ」
食べていいのか、と聞いているようだった。
俺はうなずいた。
「口に入れてやろうか?」
冗談めかして言ったところ、オグはぼんやりしたまま、首を横にふった。そして、自分でスプーンを持ち、すくって一口、食べた。
俺はオグの横に肩を並べて座り、エルゼもそのとなりにすわった。
しゃくしゃく、とオグがリンゴを噛みしめる音が、遠くの水の音と一緒になって、配管のなかに響いた。
一口飲み込むごとに、オグの目は見開き、輝いていくのがわかった。口に運ぶスピードもはやくなった。最後のほうは夢中でかきこんでいた。
俺もエルゼも、微笑んでそれを見守っていた。
リンゴの蜜煮の美味さは、俺たちが一番よく知っている。
やがて食べ終わり、名残惜しそうに器を見つめたあと、ふいに思い出したみたいに、オグは俺たちに目を向けた。
俺が微笑んでやると、オグはびくりと肩をふるわせ、とまどったように目をそらした。
俺はその手から、空の器とスプーンをとりあげた。
「はい、ごちそうさま」
俺はてきぱきと、ぽかんとしているオグに白湯をのませ、再び毛布のなかに押し込んだ。
オグは終始、驚いたような顔をしていた。
そのまま、布団のなかからじっと俺を見つめてくる。
俺は思わず笑ってしまい、たずねた。
「何だよ?」
オグは、ちょっと気後れしたみたいに首をすくめ、言おうかどうしようか迷うようなそぶりをしたあと、ぽつんと言った。
「もっと欲しい」
「もっと欲しい?」
思わずそのまま聞き返すと、彼は肩を縮めながら、かすかにうなずいた。
おかわりしたいってことか。
それはそうだ。足りないよな。確かに量が少ない。
俺は納得しつつ、首をひねった。
そんなに縮こまらなくていいのに。
まるで、今にも叱られるんじゃないかとおびえているような顔をしている。
俺は安心させるために、彼の頭をなでてやった。
エルゼに目配せすると、もうすでに彼女は立ち上がっていて、堂々とうなずき返し、まかせろ、と小声で言って出ていった。
「つくってくれるって」
俺がそっと言うと、オグはびっくりしたように顔をあげた。
喜んでいいのかどうか、とまどっているみたいだ。
「ちょっとだけ待ってくれな」
俺はそう言って、なだめる意味で、また頭をなでた。
オグの髪は、さらさらですべすべだった。
きちんと手入れし続けているのがわかる、綺麗な髪だった。
ここには、まともな風呂はない。このさらさらした髪も、今だけだ。そのことを思うと、ちくりと胸が痛んだ。
ふいに、オグが何かを問いかけた。聞き取れなかった。
俺が問い直す前に、オグは早口でもう一度言った。
「俺、わがままだと思う?嫌い?嫌いになる?」
あまりに突飛だったので、一瞬頭がくらっとした。
どういうことだ?なんでそんな話に?
わからなかったので、そのままたずねた。
「どうしてそんなこと聞くんだ?嫌いになんかならないよ」
オグはおどおどしながらも、探るように俺を見ていた。気にしているのだろうか。誰かになにか、言われたのか。嫌なことでもあったのだろうか。
気の利いた答えを他に思い付かなくて、俺はまた、彼の頭をなでた。指が髪をとおる感触が気持ちいい。
オグはじっとしていたが、まだ不安そうな顔をしていた。
俺は言ってやった。
「リンゴおかわりしたくらいでわがままなもんかよ。欲しいものは、欲しいって言っていいの」
俺としては、子守り歌を歌ってやるような気持ちで、思ったことを素のまま言っただけだった。
それをオグがどう受け取ったかは、わからない。
けれど気づいたときには、オグは肩をひきつらせて涙をぼろぼろこぼしていて、俺は慌てて彼の頭を抱いたが、もう遅かった。
エルゼが戻ってきたときには、オグはわんわん泣き、俺が必死でなぐさめているという、まるで俺が泣かしたみたいな図になっていた。
実際俺が原因なのだろうけれど、何がひきがねになったのかはわからない。
エルゼは器を布団の上に注意深く置いてから、腰に手を当てた。そして、あきれた声を出した。
「何を泣かしているんだ」
違うと言いたかったが、どう見てもその通りだった。
俺はオグの頭をなでながら、
「ごめん」
と謝った。
オグの泣き声が一段と高くなった。
エルゼが脇によってきて、そっとのぞきこんだ。
オグは伏せたまま激しくしゃくりあげていた。
優しい声で、エルゼが呟く。
「そうか。嬉しかったのか」
何かが通じあったみたいに、エルゼのその言葉で、オグの泣き声は少し小さくなって、やがてとまった。
余韻でしゃくりあげているオグの背中をさすって、エルゼは俺に目を向け、ウインクしてみせた。
何がなんだかわからなかった。
一体、何をどう解釈したのか。
嬉しかった?
わからないが、つまり、害はないってことなのか。
俺は理解するのをあきらめ、首をすくめた。とりあえずうなずいておく。
エルゼはときどき、人の心を読んだり、見透かしているようなことを言う。もしかしたら、今のオグの心の声も、エルゼには聞こえたのかもしれない。
俺には、あいにくそういう霊感のようなものはなかった。まあ、仕方ない。人それぞれだ。向き不向きがある。
俺は、やっと落ち着いてきたオグの髪をなでてやって、声をかけた。
「リンゴ、食べないの?できたってよ」
エルゼが思い出したように身をはねおこし、器をあにいにさしだした。
「スプーン」
俺が言うと、
「ここにあるぞ!」
と得意気に、着ているぶかぶかのコートのポケットからひっぱりだした。
「どこに入れてるんだよ」
「ポケットとは、ものを入れるためにあるのだぞ」
「いや、そうだけど、そうじゃなくて」
俺たちのやりとりをよそに、オグがもぞもぞと布団からはいでてきて、ぺたんと座った。
彼がじっと俺たちを見つめたので、俺たちはどちらからともなく、言い争うのをやめた。
エルゼはすぐに、得意満面の笑みをうかべた。オグに改めて、リンゴの蜜煮をさしだす。
受け取ったオグは、すぐに食べ始めなかった。どこか、遠慮しているみたいだった。
しばらくして、もじもじしながら彼は一言、つぶやいた。
「ごめんなさい」
一瞬、俺とエルゼは顔を見合わせて、ぽかんとした。
何故、謝るのか。
俺より先にエルゼが笑い、豪快に言い放った。
「何をあやまることがある。気にするな。いっぱい食え。食ってよく寝るがいい」
どこまでもえらそうな物言いだったが、気遣いにあふれた優しい口調だった。
俺も同じ意見だったので、黙ってうなずいた。言葉を付け足す必要はなかった。
オグはまだ不安そうな顔で、おずおずとスプーンを握った。
けれど、食べ始めると、さっきと同じで、すぐに夢中になった。俺たちも、さっきと同じように見守った。
最後のひときれになったとき、それを見つめて、オグはすこし切なそうな顔をした。
エルゼがぽんと言った。
「また明日もつくってやる」
その言葉を聞いて、オグは最後のひときれを口にいれ、かみしめて、味わって、のみこんだ。
そして、聞こえないくらいかすかな声で、言った。
「ごちそうさま、でした」
まるで、その言葉を使ったことがないみたいな、とまどいぶりだった。
「うむ!」
エルゼが尊大にうなずいたので、その余韻もかききえた。ふと、オグは穏やかな顔になって、エルゼを見つめた。それに気づいたのか気づいていないのか、エルゼはぽんと言い放った。
「では、またしばらく眠るがいい。わたしたちはずっとそばにいる。何かあっても大丈夫だ。安心して眠れ」
俺は何も言わず、おびえさせないように気をつけて、オグの乱れた髪をすいてなでつけてやった。
オグはほんの一瞬、気持ち良さそうに目を細めた。けれど、すぐにばつの悪そうな顔に逆戻りした。
俺はそのすきをついて、オグをもう一度、布団におしこんだ。そのとなりに、自分も寝転んだ。
オグと目があった。
限界まで見開かれた紫の瞳は、しっとりと露にぬれたブドウを思わせた。
銀色の髪には、よく見るとところどころに、本物の白髪が光っていた。
俺が黙ってなでてやると、気のせいかオグの目は、きらきらと輝いた。
こんな宝石を見たことがある、と思い出す。
教会で見た司教のロザリオに、こういう濃い紫色の水晶がはめこまれていた。
水晶、いや、違う。石の名前はたしか、アメジストとかいった。
俺は、思わずつぶやいていた。
「きれいな目だな。そういう色の宝石、知ってるよ」
オグはめんくらったらしく、目だけでなく口もぽかんと開いた。瞳に光が入って、紫色が少し淡くなった。
俺は微笑みがうかぶのを感じながら、少し照れくさくなって顔をそむけ、寝返りをうった。
天井を見上げると、俺たちの影が大きく曲がりながら、長く伸びていた。
細く亀裂が入った配管の壁から水がもれだし、割れ目から広がったしみが、複雑な模様を描き出している。
そこに何かの形を見つけるのが、俺の寝る前の日課だった。
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