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川の果て
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俺たちは、川の果てに住んでいる。
どぶ川、汚い川、水路。
それらが最後にたどりつく場所が、ここだ。
ここには、水はもちろん、あらゆるモノが流れ着く。
この水をきれいにして還すことが、この都市、セント・サングリアルの片隅で生まれて、こっそりと生きる俺たちが、自分で自分に見つけた仕事だ。
俺はチタル。
妹のエルゼと二人でここに住んでいる。
エルゼとは、血のつながりはない。彼女のことは、墓場で拾った。俺もエルゼの兄になるまでは、名もない教会の孤児だった。
ここに街のあらゆるところを流れ下ってきた水が集まることも、俺たちがここを川の果て、と呼んでいることも、この水をきれいにする仕事をしていることも、全部、俺たちだけの秘密だった。
あるとき、俺たちは妙なものを拾った。
人だ。
川の果てには、水やガラクタは集まってくるけれど、人間が来ることはない。誰もこの場所を知らないのだ。
川の果ては、街のどこよりも低いところにある。
たどりつくには、階段をいくつも下り、水路や用水路を何度も抜けて、古くて巨大な、使われていない配水管をいくつもくぐらなくてはならない。
俺たちの住みかは、都市のまわりを流れる大河と、水路が合流する地点にある。
自然の川が運んできた小石と、砕けたガラクタのかけらが混ざりあい、広い川原になっているところだ。
そこからは、遠い山並みと、草の海と呼ばれる平野、そして大河の流れを一望できる。
その絶景は、俺たち以外の人間には知られていないはずだった。
けれどその日、その川の果てに、見知らぬ人間がうずくまっていた。
泡立つ滝つぼのそばだった。複雑に組み合わさった水路の流れに日が当たると、小さな虹がいくつもかかるのが見える。俺のお気に入りの場所だ。
しかし、その人物はあたりの景色など見てはいなかった。ひざを抱えて、背中を丸めてしゃがみ込んでいる。
何事だ、と立ち止まり、俺は目をこらした。
昼時で、あたりはさんさんと明るい。日差しに白く浮きあがるようなその小さい背中は、どことなく不自然だった。
そもそも着ているものが、おかしかった。どう見ても寝間着なのだ。
そのとき、俺はエルゼを連れて、いったん住みかに戻ってきたところだった。
俺たちの住みかは、使われなくなった土管の奥にある。その土管は、途中で崩れてふさがっていた。その行きどまりのところに、布団やクッションを山と運びこみ、寝床をつくってあった。
土管の外の川原で煮炊きをして、飯を食って、寝床にもぐりこんで眠る。
それが俺たちの生活のほとんどだ。
そのときは、昼飯のために戻ってきたところだった。
予期せぬ客に、俺は大いに戸惑った。
見たところ、男性のようだった。背中の肉が薄く、肩の線も細いが、肩幅は広い。髪は真っ白だった。年齢はわからないが、まだ若そうに見えた。
どうやら泣いているらしく、かすかに嗚咽が聞こえる。
俺とエルゼは何度も顔を見合わせた。
こんなことは、今まで一度もなかった。
正直、俺はどうしていいか全くわからなかった。
どう近づいていいかすらわからない。
その俺の臆病さを、エルゼが補ってくれた。
エルゼは年のわりに落ち着いた、貫禄すらある、どっしりとした精神の持ち主だった。彼女には、どこか威厳めいた気迫がある。
そのときも、俺がまごついているうちに、エルゼはすたすたと歩みより、うずくまる人影に声をかけた。
「どうされた、客人。世に疲れたか」
いきなり、まだ十にも満たないような女の子が、腕組みをして後ろからそんな言葉をかけてくるのだから、当然驚いただろう。
うずくまっていたその人物はびくりと顔を上げて、エルゼを見た。
そして、その姿を二度見して、固まった。
まあ、そうなるよな。
その普通の驚き方に、俺は少しほっとした。
よく見ると、その人物は若者、というより少年だった。
十代後半くらいだろうか。
髪はどうやら白髪ではなく、灰色らしかった。光の加減で、銀色にも見える。乱れかかる髪のすきまからのぞいた耳の先は、真っ赤に火照っていた。髪の色同様、肌の色も薄い。血の気が透けて見えるようだった。
少年は、離れたところで見ている俺と、腕を組んで自分を見下ろすエルゼを交互に見て、息をひきつらせた。
驚いているというより、しゃっくりがひどくてしゃべれないようだった。
涙の透明なすじが、頬や小鼻に沿ってきらきら光る。
その顔をさっと伏せて、少年は身をかたく縮めた。
おびえている。
俺は慌てて声をかけた。
「あっ、怪しい奴じゃないよ、俺たち!ここに住んでるんだ、俺は」
「そう!ここはわたしたちの家だ。勝手に入りこんでなにを泣く!」
「ちょっ、エルゼ!」
せっかく穏便に話しかけたのに、エルゼが高圧的に質問したのでだいなしになってしまった。少年はさらにちいさく、かたく身を抱きしめた。
俺はエルゼをにらんだが、エルゼはそ知らぬ顔で、すたすたと少年に近づいていった。
そして、そっとかがみこむと、物怖じせずに手をすいとのばし、少年の頭をなでた。
いきなり触れて大丈夫かと、俺はハラハラした。
しかし、少年はぴくっと震えただけだった。そのままエルゼに頭をなでまわされても、大人しくしていた。エルゼはかすかに微笑みながら、彼の髪をかき混ぜた。
ここはエルゼにまかせよう。
俺はそう思い、身を引いて見守る姿勢をとった。
見れば見るほど、少年の出で立ちは不自然だった。
よく見ると、彼ははだしだった。
着ている寝間着は泥はねだらけで、かなり汚れている。もとは上等な仕立てらしく、薄いカナリヤ色の素地に、マリーゴールドの花のようなボタンがついていた。
右側のそでだけ、二の腕の上までまくりあげられていて、そこから手首までずっと、包帯を巻いていた。
どこかの病院から、逃げ出してきたのだろうか。
こんな格好で、しかも素足で、冷たい石畳の街の中を。
一体何があったのだろう。
そもそも、どうやってここにたどりつけたのだろう。
偶然だろうか。
俺がそんなことを考えているうちに、エルゼは少年に何か話しかけていた。何といったかは聞こえなかった。
少年が、それに答えた。涙声で、叫ぶように言った。
「うるさいッ、捨てられたんだよォッ!」
それを聞いて、俺も、エルゼも、しんと黙りこんだ。
川の流れが泡立って水底を洗う音が、かすかに聴こえた。
「そうか」
エルゼが言った。
そして、岩のように押し黙った後、顔をあげた。
雨があがる直前の、日差しの予感に似た光が、瞳に宿ったのが見えた。
凛と顔をあげて、エルゼはきっぱりと少年に言った。
「よし。なら、わたしと来い」
俺は思わず息をとめた。
少年のしゃくりあげる声もとまった。
彼の肩を、エルゼが白いものでふわり、とくるんだ。
彼女のマフラーだった。
いつのまに外したのだろう。そのマフラーは、拾い物だったが上質で、雪みたいにふわふわしていた。
エルゼはそれを気に入り、とても大事にしていた。
マフラーを少年の首もとにしっかりと寄せ、エルゼは力強く言った。
「わたしと一緒に来るんだ。わたしは後悔させない。わたしが、あなたを証明する。今日からあなたは、わたしの兄だ。そうだな、あにいと呼ばせてもらおう」
あにい?
俺がまず首をかしげ、続いて少年も、おずおずと首をかしげた。
なんでそうなるんだ?
その声なき問いに、エルゼは堂々と笑って答えた。
「わたしには、すでに兄が一人いる。その兄よりも、あなたはおそらく年上だ。なら、兄の兄。あにいと呼ぶのが適当だろう?」
わかるようで、わからなかった。
俺が首をかしげ、少年がかたまっている間に、エルゼはしゃきしゃきと自己紹介をした。
「わたしの名は、エルゼ。後ろにいるのが、我が兄チタルだ。わたしは、チタルと呼んでいる。わたしたちはここで暮らす兄妹だ。さしつかえなければ、名を教えてほしい。もちろんわたしは、これからはあなたをあにい、と呼ぶから、そのつもりでいてくれ」
少年は、化石になったようにかたまっていた。
エルゼの放つ不可思議な威圧感に、のまれてしまっているようだ。
俺は助け船を出すべく、そっと近づいた。
ふいに、少年は顔を押さえてうずくまった。
いやいやをするように、体ごと首を横にふる。
かたわらに立った俺は、滝つぼをのぞきこむ格好になりながら、彼の肩に、そっと手を置いてみた。
体が熱いのが感じられて、はっとした。
熱があるのか。
急に、ふりほどくように顔をあげて、少年が俺を見上げた。まともに目があった。
まだらに赤くなった顔は、涙にゆがんでいた。
小さく細い目のまわりが、きらきらと光っている。
その瞳の色に、驚いた。
紫色だった。
それも、宝石のように濃く、明るい色だ。
鼻筋の通ってあっさりした、ちょっと尖った印象の顔立ちを、瞳の色が甘く見せる。
しかし、いまや涙だけでなく、鼻水やよだれ、汗などで、彼の顔は一面、洪水を起こしたようになっていた。
俺はしゃがんで、ポケットに入れていたリネンのクロスで、顔をふいてやった。
少年はしゃくりあげながら、俺にされるがままになっていた。ふいたそばから、どんどん涙が出てくる。
そのままいたちごっこのように涙をふいていたが、気がつくと彼は、滝のような勢いで号泣していた。もはや、クロスでは追いつかなくなった。
おれはふいてやるのをあきらめ、さらに深くしゃがんで、彼の肩を抱いてやった。
エルゼのマフラーが、頬にやわらかく触れた。
少年は俺の肩に顔を押しつけ、泣きながら何かしゃべった。
「名前、俺の名前」
そう言っているようだったが、はっきりしなかった。
しばらく背中をさすっていると、もう一度なにか言った。今度は聞き取れた。
「名前、ない。名前がない。俺は人間じゃない」
驚いた俺は、とっさに言い返した。
「人間だろ。俺にはそう見えるよ」
一瞬、彼は大人しくなった。しゃくりあげながら、俺の腕のなかで小さく震えた。
俺は、ごしごしとその背中をさすった。
そのまま、彼の涙は下火になった。
しばらくして、ぽつりと、彼はつぶやいた。
「オグ」
「え?オグ?」
俺が繰り返すと、うなずいた。
「なまえ」
「あっ、ああ、名前?」
たずねると、かすかにまた、うなずいた。
そして、消えそうな声でつけたした。
「オーガスト。だから、オグ」
なるほど、と俺はうなずいた。
オーガスト。
八月。または、王を意味する。
かつて戦乱を鎮め、分断されていた東と西を統一して、国の基盤を築いた、初代の王の名だ。
王の物語は、今も広く知られている。かの英雄の生まれた月である八月が、そのまま彼の名で呼ばれることになったほどだ。
その由縁にあやかろうと、国中の親たちが、生まれた男子にその名をつけた。
簡単に言うと、ありふれた名のひとつなのだった。
聞いたばかりのその名を、俺はそっと口にしてみた。
「オグ」
瞳をふるわせ、少年は俺を見上げた。呼ばれたと思ったのだろう。
少年の泣き顔に、ほんの一瞬だけ、不思議そうな色が浮かんで、俺を見る目がきょとんとした。
その素朴な反応に、俺はなんとなく好感を抱いた。
きっと何か、複雑な事情を抱えてここへたどり着いたのだろう。
それでも、ともかくひとつだけ、わかってすっきりした。
俺はようやく、笑いかけてやることができた。
「なんだよ、いい名前じゃん。でもま、俺もあにい、って呼ばせてもらおうかな。俺のほうが小さいし、年下だし。てことで、よろしくな、あにい。俺のことは、チタルでいいから」
顔をあげた少年、もとい、オグの瞳から、ついと涙がこぼれおちたのが見えた。けれどそれきり、涙はとまった。彼は、ぽかんと俺を見つめていた。俺がにっこり笑う顔を、見たことのないものを見る目で、ずっと見ていた。
だいぶたってから、彼はぽつりとつぶやいた。
「ちたる?」
俺は嬉しくなって、大きくうなずいた。
「うん。こっちは、エルゼ」
オグはゆらりと視線を動かし、胸をはって笑っているエルゼを見た。
「えるぜ?」
「うん、そうだ。エルゼだ」
「エルゼだ!よろしく頼むぞ、あにい!」
彼女の瞳にきらめく自信は、相当のものだった。
一方のオグは、何がなんだかわからない、という顔をしていた。
緩慢なしぐさで首をかしげ、
「よろしく?」
と、聞き返してきた。
俺たちは顔を見合わせて笑った。
俺もエルゼも、腹を決めていた。お互いの気持ちもわかっていた。
ここで出会ったが百年目、だ。
俺が言った。
「聞いただろう?エルゼが一緒に来い、って言ったじゃないか。そういうことだよ。俺たちとおいでよ」
オグの瞳が、大きく見開かれた。
言葉の意味をとらえた驚きのなかに、虹のかけらのような光が、かすかにきらめいた。
俺は付け足した。
「どこか行きたいところがあるんなら、そこへつれていってあげるよ。もしないなら、俺たちと一緒にいたらいい。そういう意味だよ」
「そうとも。ようこそだ、あにい。川のはては、あにいを歓迎している」
ふんぞり返るエルゼの言葉に、オグはますますぽかんとした。目も口も、まんまるに開かれた。
そのまましばらく、彼は動かなかった。
ただひたすら、まばたきばかりを繰り返す。
俺が見かねて、説明を付け足した。
「俺たちは、ここを川のはて、って呼んでるんだ。ここに集まってくる水を、きれいにするのが、俺たちの仕事なんだよ」
エルゼが口をはさんだ。
「正確には、それをやっているのはチタルだけだ。わたしには、別の仕事がある」
「もう、ややこしくするなよ、エルゼ」
「事実だぞ」
「そうだけど」
俺たちのやりとりに、おずおずとオグが口をはさんだ。
「しごと?」
「ああ」
俺は笑って、首をふった。
「色々あってさ。ここで話すと長くなるから、やめとくな。それより、その服ぬれてるだろ。着替え貸すから、戻って、はやく体をあっためよう」
言われても、オグはぽかんとしたまま、動きだす様子はなかった。
エルゼが後ろから、無理やり彼のお尻を押し上げて、立ちあがらせた。
うはあっ、という情けない声をあげ、彼はつんのめった。
目の前は、滝つぼだった。
「あぶなっ!」
とっさに俺は身をのりだした。
オグもすくんで後ろによろめき、しがみついてきた。
そのまま受け止めて、引き戻した。よろめきながらも、思いのほかしっかり、彼は地に足をついた。
息をつき、俺は思わずエルゼをにらんだ。
「コラ!危ないだろ!っとに強引だな、エルゼは!」
「すまん、反省している」
軽く肩をすくめたものの、あまり悪びれた様子もなく、エルゼは言った。
そして、
「では、先に行っているぞ」
と言いおいて、くるりとかかとを返し、すたすたと歩き去った。
驚いたが、彼女にはよくあることだった。
俺は盛大にため息をついた。
エルゼには、誰かと同調しようという意識がないのだ。
俺と違って、オグは驚いたままの顔で、小さくなっていくエルゼの姿を見つめていた。
取り残された俺たちは、そのままの流れでなんとなく寄り添い、お互いに顔を見合わせた。
彼は、まるで泳ぎすぎて疲れたみたいな顔をしていた。
その頬や、少し広い額に、日差しが白くこぼれかかる。
俺は、そっと彼の手をとり、軽くひっぱった。
いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。
オグは、なにも言わず、大人しくついてきた。
はじめは石のように冷たかったその指先は、握っているうちに、ほかほかと温かくなった。
どぶ川、汚い川、水路。
それらが最後にたどりつく場所が、ここだ。
ここには、水はもちろん、あらゆるモノが流れ着く。
この水をきれいにして還すことが、この都市、セント・サングリアルの片隅で生まれて、こっそりと生きる俺たちが、自分で自分に見つけた仕事だ。
俺はチタル。
妹のエルゼと二人でここに住んでいる。
エルゼとは、血のつながりはない。彼女のことは、墓場で拾った。俺もエルゼの兄になるまでは、名もない教会の孤児だった。
ここに街のあらゆるところを流れ下ってきた水が集まることも、俺たちがここを川の果て、と呼んでいることも、この水をきれいにする仕事をしていることも、全部、俺たちだけの秘密だった。
あるとき、俺たちは妙なものを拾った。
人だ。
川の果てには、水やガラクタは集まってくるけれど、人間が来ることはない。誰もこの場所を知らないのだ。
川の果ては、街のどこよりも低いところにある。
たどりつくには、階段をいくつも下り、水路や用水路を何度も抜けて、古くて巨大な、使われていない配水管をいくつもくぐらなくてはならない。
俺たちの住みかは、都市のまわりを流れる大河と、水路が合流する地点にある。
自然の川が運んできた小石と、砕けたガラクタのかけらが混ざりあい、広い川原になっているところだ。
そこからは、遠い山並みと、草の海と呼ばれる平野、そして大河の流れを一望できる。
その絶景は、俺たち以外の人間には知られていないはずだった。
けれどその日、その川の果てに、見知らぬ人間がうずくまっていた。
泡立つ滝つぼのそばだった。複雑に組み合わさった水路の流れに日が当たると、小さな虹がいくつもかかるのが見える。俺のお気に入りの場所だ。
しかし、その人物はあたりの景色など見てはいなかった。ひざを抱えて、背中を丸めてしゃがみ込んでいる。
何事だ、と立ち止まり、俺は目をこらした。
昼時で、あたりはさんさんと明るい。日差しに白く浮きあがるようなその小さい背中は、どことなく不自然だった。
そもそも着ているものが、おかしかった。どう見ても寝間着なのだ。
そのとき、俺はエルゼを連れて、いったん住みかに戻ってきたところだった。
俺たちの住みかは、使われなくなった土管の奥にある。その土管は、途中で崩れてふさがっていた。その行きどまりのところに、布団やクッションを山と運びこみ、寝床をつくってあった。
土管の外の川原で煮炊きをして、飯を食って、寝床にもぐりこんで眠る。
それが俺たちの生活のほとんどだ。
そのときは、昼飯のために戻ってきたところだった。
予期せぬ客に、俺は大いに戸惑った。
見たところ、男性のようだった。背中の肉が薄く、肩の線も細いが、肩幅は広い。髪は真っ白だった。年齢はわからないが、まだ若そうに見えた。
どうやら泣いているらしく、かすかに嗚咽が聞こえる。
俺とエルゼは何度も顔を見合わせた。
こんなことは、今まで一度もなかった。
正直、俺はどうしていいか全くわからなかった。
どう近づいていいかすらわからない。
その俺の臆病さを、エルゼが補ってくれた。
エルゼは年のわりに落ち着いた、貫禄すらある、どっしりとした精神の持ち主だった。彼女には、どこか威厳めいた気迫がある。
そのときも、俺がまごついているうちに、エルゼはすたすたと歩みより、うずくまる人影に声をかけた。
「どうされた、客人。世に疲れたか」
いきなり、まだ十にも満たないような女の子が、腕組みをして後ろからそんな言葉をかけてくるのだから、当然驚いただろう。
うずくまっていたその人物はびくりと顔を上げて、エルゼを見た。
そして、その姿を二度見して、固まった。
まあ、そうなるよな。
その普通の驚き方に、俺は少しほっとした。
よく見ると、その人物は若者、というより少年だった。
十代後半くらいだろうか。
髪はどうやら白髪ではなく、灰色らしかった。光の加減で、銀色にも見える。乱れかかる髪のすきまからのぞいた耳の先は、真っ赤に火照っていた。髪の色同様、肌の色も薄い。血の気が透けて見えるようだった。
少年は、離れたところで見ている俺と、腕を組んで自分を見下ろすエルゼを交互に見て、息をひきつらせた。
驚いているというより、しゃっくりがひどくてしゃべれないようだった。
涙の透明なすじが、頬や小鼻に沿ってきらきら光る。
その顔をさっと伏せて、少年は身をかたく縮めた。
おびえている。
俺は慌てて声をかけた。
「あっ、怪しい奴じゃないよ、俺たち!ここに住んでるんだ、俺は」
「そう!ここはわたしたちの家だ。勝手に入りこんでなにを泣く!」
「ちょっ、エルゼ!」
せっかく穏便に話しかけたのに、エルゼが高圧的に質問したのでだいなしになってしまった。少年はさらにちいさく、かたく身を抱きしめた。
俺はエルゼをにらんだが、エルゼはそ知らぬ顔で、すたすたと少年に近づいていった。
そして、そっとかがみこむと、物怖じせずに手をすいとのばし、少年の頭をなでた。
いきなり触れて大丈夫かと、俺はハラハラした。
しかし、少年はぴくっと震えただけだった。そのままエルゼに頭をなでまわされても、大人しくしていた。エルゼはかすかに微笑みながら、彼の髪をかき混ぜた。
ここはエルゼにまかせよう。
俺はそう思い、身を引いて見守る姿勢をとった。
見れば見るほど、少年の出で立ちは不自然だった。
よく見ると、彼ははだしだった。
着ている寝間着は泥はねだらけで、かなり汚れている。もとは上等な仕立てらしく、薄いカナリヤ色の素地に、マリーゴールドの花のようなボタンがついていた。
右側のそでだけ、二の腕の上までまくりあげられていて、そこから手首までずっと、包帯を巻いていた。
どこかの病院から、逃げ出してきたのだろうか。
こんな格好で、しかも素足で、冷たい石畳の街の中を。
一体何があったのだろう。
そもそも、どうやってここにたどりつけたのだろう。
偶然だろうか。
俺がそんなことを考えているうちに、エルゼは少年に何か話しかけていた。何といったかは聞こえなかった。
少年が、それに答えた。涙声で、叫ぶように言った。
「うるさいッ、捨てられたんだよォッ!」
それを聞いて、俺も、エルゼも、しんと黙りこんだ。
川の流れが泡立って水底を洗う音が、かすかに聴こえた。
「そうか」
エルゼが言った。
そして、岩のように押し黙った後、顔をあげた。
雨があがる直前の、日差しの予感に似た光が、瞳に宿ったのが見えた。
凛と顔をあげて、エルゼはきっぱりと少年に言った。
「よし。なら、わたしと来い」
俺は思わず息をとめた。
少年のしゃくりあげる声もとまった。
彼の肩を、エルゼが白いものでふわり、とくるんだ。
彼女のマフラーだった。
いつのまに外したのだろう。そのマフラーは、拾い物だったが上質で、雪みたいにふわふわしていた。
エルゼはそれを気に入り、とても大事にしていた。
マフラーを少年の首もとにしっかりと寄せ、エルゼは力強く言った。
「わたしと一緒に来るんだ。わたしは後悔させない。わたしが、あなたを証明する。今日からあなたは、わたしの兄だ。そうだな、あにいと呼ばせてもらおう」
あにい?
俺がまず首をかしげ、続いて少年も、おずおずと首をかしげた。
なんでそうなるんだ?
その声なき問いに、エルゼは堂々と笑って答えた。
「わたしには、すでに兄が一人いる。その兄よりも、あなたはおそらく年上だ。なら、兄の兄。あにいと呼ぶのが適当だろう?」
わかるようで、わからなかった。
俺が首をかしげ、少年がかたまっている間に、エルゼはしゃきしゃきと自己紹介をした。
「わたしの名は、エルゼ。後ろにいるのが、我が兄チタルだ。わたしは、チタルと呼んでいる。わたしたちはここで暮らす兄妹だ。さしつかえなければ、名を教えてほしい。もちろんわたしは、これからはあなたをあにい、と呼ぶから、そのつもりでいてくれ」
少年は、化石になったようにかたまっていた。
エルゼの放つ不可思議な威圧感に、のまれてしまっているようだ。
俺は助け船を出すべく、そっと近づいた。
ふいに、少年は顔を押さえてうずくまった。
いやいやをするように、体ごと首を横にふる。
かたわらに立った俺は、滝つぼをのぞきこむ格好になりながら、彼の肩に、そっと手を置いてみた。
体が熱いのが感じられて、はっとした。
熱があるのか。
急に、ふりほどくように顔をあげて、少年が俺を見上げた。まともに目があった。
まだらに赤くなった顔は、涙にゆがんでいた。
小さく細い目のまわりが、きらきらと光っている。
その瞳の色に、驚いた。
紫色だった。
それも、宝石のように濃く、明るい色だ。
鼻筋の通ってあっさりした、ちょっと尖った印象の顔立ちを、瞳の色が甘く見せる。
しかし、いまや涙だけでなく、鼻水やよだれ、汗などで、彼の顔は一面、洪水を起こしたようになっていた。
俺はしゃがんで、ポケットに入れていたリネンのクロスで、顔をふいてやった。
少年はしゃくりあげながら、俺にされるがままになっていた。ふいたそばから、どんどん涙が出てくる。
そのままいたちごっこのように涙をふいていたが、気がつくと彼は、滝のような勢いで号泣していた。もはや、クロスでは追いつかなくなった。
おれはふいてやるのをあきらめ、さらに深くしゃがんで、彼の肩を抱いてやった。
エルゼのマフラーが、頬にやわらかく触れた。
少年は俺の肩に顔を押しつけ、泣きながら何かしゃべった。
「名前、俺の名前」
そう言っているようだったが、はっきりしなかった。
しばらく背中をさすっていると、もう一度なにか言った。今度は聞き取れた。
「名前、ない。名前がない。俺は人間じゃない」
驚いた俺は、とっさに言い返した。
「人間だろ。俺にはそう見えるよ」
一瞬、彼は大人しくなった。しゃくりあげながら、俺の腕のなかで小さく震えた。
俺は、ごしごしとその背中をさすった。
そのまま、彼の涙は下火になった。
しばらくして、ぽつりと、彼はつぶやいた。
「オグ」
「え?オグ?」
俺が繰り返すと、うなずいた。
「なまえ」
「あっ、ああ、名前?」
たずねると、かすかにまた、うなずいた。
そして、消えそうな声でつけたした。
「オーガスト。だから、オグ」
なるほど、と俺はうなずいた。
オーガスト。
八月。または、王を意味する。
かつて戦乱を鎮め、分断されていた東と西を統一して、国の基盤を築いた、初代の王の名だ。
王の物語は、今も広く知られている。かの英雄の生まれた月である八月が、そのまま彼の名で呼ばれることになったほどだ。
その由縁にあやかろうと、国中の親たちが、生まれた男子にその名をつけた。
簡単に言うと、ありふれた名のひとつなのだった。
聞いたばかりのその名を、俺はそっと口にしてみた。
「オグ」
瞳をふるわせ、少年は俺を見上げた。呼ばれたと思ったのだろう。
少年の泣き顔に、ほんの一瞬だけ、不思議そうな色が浮かんで、俺を見る目がきょとんとした。
その素朴な反応に、俺はなんとなく好感を抱いた。
きっと何か、複雑な事情を抱えてここへたどり着いたのだろう。
それでも、ともかくひとつだけ、わかってすっきりした。
俺はようやく、笑いかけてやることができた。
「なんだよ、いい名前じゃん。でもま、俺もあにい、って呼ばせてもらおうかな。俺のほうが小さいし、年下だし。てことで、よろしくな、あにい。俺のことは、チタルでいいから」
顔をあげた少年、もとい、オグの瞳から、ついと涙がこぼれおちたのが見えた。けれどそれきり、涙はとまった。彼は、ぽかんと俺を見つめていた。俺がにっこり笑う顔を、見たことのないものを見る目で、ずっと見ていた。
だいぶたってから、彼はぽつりとつぶやいた。
「ちたる?」
俺は嬉しくなって、大きくうなずいた。
「うん。こっちは、エルゼ」
オグはゆらりと視線を動かし、胸をはって笑っているエルゼを見た。
「えるぜ?」
「うん、そうだ。エルゼだ」
「エルゼだ!よろしく頼むぞ、あにい!」
彼女の瞳にきらめく自信は、相当のものだった。
一方のオグは、何がなんだかわからない、という顔をしていた。
緩慢なしぐさで首をかしげ、
「よろしく?」
と、聞き返してきた。
俺たちは顔を見合わせて笑った。
俺もエルゼも、腹を決めていた。お互いの気持ちもわかっていた。
ここで出会ったが百年目、だ。
俺が言った。
「聞いただろう?エルゼが一緒に来い、って言ったじゃないか。そういうことだよ。俺たちとおいでよ」
オグの瞳が、大きく見開かれた。
言葉の意味をとらえた驚きのなかに、虹のかけらのような光が、かすかにきらめいた。
俺は付け足した。
「どこか行きたいところがあるんなら、そこへつれていってあげるよ。もしないなら、俺たちと一緒にいたらいい。そういう意味だよ」
「そうとも。ようこそだ、あにい。川のはては、あにいを歓迎している」
ふんぞり返るエルゼの言葉に、オグはますますぽかんとした。目も口も、まんまるに開かれた。
そのまましばらく、彼は動かなかった。
ただひたすら、まばたきばかりを繰り返す。
俺が見かねて、説明を付け足した。
「俺たちは、ここを川のはて、って呼んでるんだ。ここに集まってくる水を、きれいにするのが、俺たちの仕事なんだよ」
エルゼが口をはさんだ。
「正確には、それをやっているのはチタルだけだ。わたしには、別の仕事がある」
「もう、ややこしくするなよ、エルゼ」
「事実だぞ」
「そうだけど」
俺たちのやりとりに、おずおずとオグが口をはさんだ。
「しごと?」
「ああ」
俺は笑って、首をふった。
「色々あってさ。ここで話すと長くなるから、やめとくな。それより、その服ぬれてるだろ。着替え貸すから、戻って、はやく体をあっためよう」
言われても、オグはぽかんとしたまま、動きだす様子はなかった。
エルゼが後ろから、無理やり彼のお尻を押し上げて、立ちあがらせた。
うはあっ、という情けない声をあげ、彼はつんのめった。
目の前は、滝つぼだった。
「あぶなっ!」
とっさに俺は身をのりだした。
オグもすくんで後ろによろめき、しがみついてきた。
そのまま受け止めて、引き戻した。よろめきながらも、思いのほかしっかり、彼は地に足をついた。
息をつき、俺は思わずエルゼをにらんだ。
「コラ!危ないだろ!っとに強引だな、エルゼは!」
「すまん、反省している」
軽く肩をすくめたものの、あまり悪びれた様子もなく、エルゼは言った。
そして、
「では、先に行っているぞ」
と言いおいて、くるりとかかとを返し、すたすたと歩き去った。
驚いたが、彼女にはよくあることだった。
俺は盛大にため息をついた。
エルゼには、誰かと同調しようという意識がないのだ。
俺と違って、オグは驚いたままの顔で、小さくなっていくエルゼの姿を見つめていた。
取り残された俺たちは、そのままの流れでなんとなく寄り添い、お互いに顔を見合わせた。
彼は、まるで泳ぎすぎて疲れたみたいな顔をしていた。
その頬や、少し広い額に、日差しが白くこぼれかかる。
俺は、そっと彼の手をとり、軽くひっぱった。
いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。
オグは、なにも言わず、大人しくついてきた。
はじめは石のように冷たかったその指先は、握っているうちに、ほかほかと温かくなった。
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