八月のクローバー

野草のな

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川の果て

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俺たちは、川の果てに住んでいる。

どぶ川、汚い川、水路。

それらが最後にたどりつく場所が、ここだ。

ここには、水はもちろん、あらゆるモノが流れ着く。

この水をきれいにして還すことが、この都市、セント・サングリアルの片隅で生まれて、こっそりと生きる俺たちが、自分で自分に見つけた仕事だ。

俺はチタル。

妹のエルゼと二人でここに住んでいる。

エルゼとは、血のつながりはない。彼女のことは、墓場で拾った。俺もエルゼの兄になるまでは、名もない教会の孤児だった。

ここに街のあらゆるところを流れ下ってきた水が集まることも、俺たちがここを川の果て、と呼んでいることも、この水をきれいにする仕事をしていることも、全部、俺たちだけの秘密だった。


あるとき、俺たちは妙なものを拾った。

人だ。

川の果てには、水やガラクタは集まってくるけれど、人間が来ることはない。誰もこの場所を知らないのだ。

川の果ては、街のどこよりも低いところにある。

たどりつくには、階段をいくつも下り、水路や用水路を何度も抜けて、古くて巨大な、使われていない配水管をいくつもくぐらなくてはならない。

俺たちの住みかは、都市のまわりを流れる大河と、水路が合流する地点にある。

自然の川が運んできた小石と、砕けたガラクタのかけらが混ざりあい、広い川原になっているところだ。

そこからは、遠い山並みと、草の海と呼ばれる平野、そして大河の流れを一望できる。

その絶景は、俺たち以外の人間には知られていないはずだった。

けれどその日、その川の果てに、見知らぬ人間がうずくまっていた。

泡立つ滝つぼのそばだった。複雑に組み合わさった水路の流れに日が当たると、小さな虹がいくつもかかるのが見える。俺のお気に入りの場所だ。

しかし、その人物はあたりの景色など見てはいなかった。ひざを抱えて、背中を丸めてしゃがみ込んでいる。

何事だ、と立ち止まり、俺は目をこらした。

昼時で、あたりはさんさんと明るい。日差しに白く浮きあがるようなその小さい背中は、どことなく不自然だった。

そもそも着ているものが、おかしかった。どう見ても寝間着なのだ。

そのとき、俺はエルゼを連れて、いったん住みかに戻ってきたところだった。

俺たちの住みかは、使われなくなった土管の奥にある。その土管は、途中で崩れてふさがっていた。その行きどまりのところに、布団やクッションを山と運びこみ、寝床をつくってあった。

土管の外の川原で煮炊きをして、飯を食って、寝床にもぐりこんで眠る。

それが俺たちの生活のほとんどだ。

そのときは、昼飯のために戻ってきたところだった。

予期せぬ客に、俺は大いに戸惑った。

見たところ、男性のようだった。背中の肉が薄く、肩の線も細いが、肩幅は広い。髪は真っ白だった。年齢はわからないが、まだ若そうに見えた。

どうやら泣いているらしく、かすかに嗚咽が聞こえる。

俺とエルゼは何度も顔を見合わせた。

こんなことは、今まで一度もなかった。

正直、俺はどうしていいか全くわからなかった。

どう近づいていいかすらわからない。

その俺の臆病さを、エルゼが補ってくれた。

エルゼは年のわりに落ち着いた、貫禄すらある、どっしりとした精神の持ち主だった。彼女には、どこか威厳めいた気迫がある。

そのときも、俺がまごついているうちに、エルゼはすたすたと歩みより、うずくまる人影に声をかけた。

「どうされた、客人。世に疲れたか」

いきなり、まだ十にも満たないような女の子が、腕組みをして後ろからそんな言葉をかけてくるのだから、当然驚いただろう。

うずくまっていたその人物はびくりと顔を上げて、エルゼを見た。

そして、その姿を二度見して、固まった。

まあ、そうなるよな。

その普通の驚き方に、俺は少しほっとした。

よく見ると、その人物は若者、というより少年だった。

十代後半くらいだろうか。

髪はどうやら白髪ではなく、灰色らしかった。光の加減で、銀色にも見える。乱れかかる髪のすきまからのぞいた耳の先は、真っ赤に火照っていた。髪の色同様、肌の色も薄い。血の気が透けて見えるようだった。

少年は、離れたところで見ている俺と、腕を組んで自分を見下ろすエルゼを交互に見て、息をひきつらせた。

驚いているというより、しゃっくりがひどくてしゃべれないようだった。

涙の透明なすじが、頬や小鼻に沿ってきらきら光る。

その顔をさっと伏せて、少年は身をかたく縮めた。

おびえている。

俺は慌てて声をかけた。

「あっ、怪しい奴じゃないよ、俺たち!ここに住んでるんだ、俺は」

「そう!ここはわたしたちの家だ。勝手に入りこんでなにを泣く!」

「ちょっ、エルゼ!」

せっかく穏便に話しかけたのに、エルゼが高圧的に質問したのでだいなしになってしまった。少年はさらにちいさく、かたく身を抱きしめた。

俺はエルゼをにらんだが、エルゼはそ知らぬ顔で、すたすたと少年に近づいていった。

そして、そっとかがみこむと、物怖じせずに手をすいとのばし、少年の頭をなでた。

いきなり触れて大丈夫かと、俺はハラハラした。

しかし、少年はぴくっと震えただけだった。そのままエルゼに頭をなでまわされても、大人しくしていた。エルゼはかすかに微笑みながら、彼の髪をかき混ぜた。

ここはエルゼにまかせよう。

俺はそう思い、身を引いて見守る姿勢をとった。

見れば見るほど、少年の出で立ちは不自然だった。

よく見ると、彼ははだしだった。

着ている寝間着は泥はねだらけで、かなり汚れている。もとは上等な仕立てらしく、薄いカナリヤ色の素地に、マリーゴールドの花のようなボタンがついていた。

右側のそでだけ、二の腕の上までまくりあげられていて、そこから手首までずっと、包帯を巻いていた。

どこかの病院から、逃げ出してきたのだろうか。

こんな格好で、しかも素足で、冷たい石畳の街の中を。

一体何があったのだろう。

そもそも、どうやってここにたどりつけたのだろう。

偶然だろうか。

俺がそんなことを考えているうちに、エルゼは少年に何か話しかけていた。何といったかは聞こえなかった。

少年が、それに答えた。涙声で、叫ぶように言った。

「うるさいッ、捨てられたんだよォッ!」

それを聞いて、俺も、エルゼも、しんと黙りこんだ。

川の流れが泡立って水底を洗う音が、かすかに聴こえた。

「そうか」

エルゼが言った。

そして、岩のように押し黙った後、顔をあげた。

雨があがる直前の、日差しの予感に似た光が、瞳に宿ったのが見えた。

凛と顔をあげて、エルゼはきっぱりと少年に言った。

「よし。なら、わたしと来い」

俺は思わず息をとめた。

少年のしゃくりあげる声もとまった。

彼の肩を、エルゼが白いものでふわり、とくるんだ。

彼女のマフラーだった。

いつのまに外したのだろう。そのマフラーは、拾い物だったが上質で、雪みたいにふわふわしていた。

エルゼはそれを気に入り、とても大事にしていた。

マフラーを少年の首もとにしっかりと寄せ、エルゼは力強く言った。

「わたしと一緒に来るんだ。わたしは後悔させない。わたしが、あなたを証明する。今日からあなたは、わたしの兄だ。そうだな、あにいと呼ばせてもらおう」

あにい?

俺がまず首をかしげ、続いて少年も、おずおずと首をかしげた。

なんでそうなるんだ?

その声なき問いに、エルゼは堂々と笑って答えた。

「わたしには、すでに兄が一人いる。その兄よりも、あなたはおそらく年上だ。なら、兄の兄。あにいと呼ぶのが適当だろう?」

わかるようで、わからなかった。

俺が首をかしげ、少年がかたまっている間に、エルゼはしゃきしゃきと自己紹介をした。

「わたしの名は、エルゼ。後ろにいるのが、我が兄チタルだ。わたしは、チタルと呼んでいる。わたしたちはここで暮らす兄妹だ。さしつかえなければ、名を教えてほしい。もちろんわたしは、これからはあなたをあにい、と呼ぶから、そのつもりでいてくれ」

少年は、化石になったようにかたまっていた。

エルゼの放つ不可思議な威圧感に、のまれてしまっているようだ。

俺は助け船を出すべく、そっと近づいた。

ふいに、少年は顔を押さえてうずくまった。

いやいやをするように、体ごと首を横にふる。

かたわらに立った俺は、滝つぼをのぞきこむ格好になりながら、彼の肩に、そっと手を置いてみた。

体が熱いのが感じられて、はっとした。

熱があるのか。

急に、ふりほどくように顔をあげて、少年が俺を見上げた。まともに目があった。

まだらに赤くなった顔は、涙にゆがんでいた。

小さく細い目のまわりが、きらきらと光っている。

その瞳の色に、驚いた。

紫色だった。

それも、宝石のように濃く、明るい色だ。

鼻筋の通ってあっさりした、ちょっと尖った印象の顔立ちを、瞳の色が甘く見せる。

しかし、いまや涙だけでなく、鼻水やよだれ、汗などで、彼の顔は一面、洪水を起こしたようになっていた。

俺はしゃがんで、ポケットに入れていたリネンのクロスで、顔をふいてやった。

少年はしゃくりあげながら、俺にされるがままになっていた。ふいたそばから、どんどん涙が出てくる。

そのままいたちごっこのように涙をふいていたが、気がつくと彼は、滝のような勢いで号泣していた。もはや、クロスでは追いつかなくなった。

おれはふいてやるのをあきらめ、さらに深くしゃがんで、彼の肩を抱いてやった。

エルゼのマフラーが、頬にやわらかく触れた。

少年は俺の肩に顔を押しつけ、泣きながら何かしゃべった。

「名前、俺の名前」

そう言っているようだったが、はっきりしなかった。

しばらく背中をさすっていると、もう一度なにか言った。今度は聞き取れた。

「名前、ない。名前がない。俺は人間じゃない」

驚いた俺は、とっさに言い返した。

「人間だろ。俺にはそう見えるよ」

一瞬、彼は大人しくなった。しゃくりあげながら、俺の腕のなかで小さく震えた。

俺は、ごしごしとその背中をさすった。

そのまま、彼の涙は下火になった。

しばらくして、ぽつりと、彼はつぶやいた。

「オグ」

「え?オグ?」

俺が繰り返すと、うなずいた。

「なまえ」

「あっ、ああ、名前?」

たずねると、かすかにまた、うなずいた。

そして、消えそうな声でつけたした。

「オーガスト。だから、オグ」

なるほど、と俺はうなずいた。

オーガスト。

八月。または、王を意味する。

かつて戦乱を鎮め、分断されていた東と西を統一して、国の基盤を築いた、初代の王の名だ。

王の物語は、今も広く知られている。かの英雄の生まれた月である八月が、そのまま彼の名で呼ばれることになったほどだ。

その由縁にあやかろうと、国中の親たちが、生まれた男子にその名をつけた。

簡単に言うと、ありふれた名のひとつなのだった。

聞いたばかりのその名を、俺はそっと口にしてみた。

「オグ」

瞳をふるわせ、少年は俺を見上げた。呼ばれたと思ったのだろう。

少年の泣き顔に、ほんの一瞬だけ、不思議そうな色が浮かんで、俺を見る目がきょとんとした。

その素朴な反応に、俺はなんとなく好感を抱いた。

きっと何か、複雑な事情を抱えてここへたどり着いたのだろう。

それでも、ともかくひとつだけ、わかってすっきりした。

俺はようやく、笑いかけてやることができた。

「なんだよ、いい名前じゃん。でもま、俺もあにい、って呼ばせてもらおうかな。俺のほうが小さいし、年下だし。てことで、よろしくな、あにい。俺のことは、チタルでいいから」

顔をあげた少年、もとい、オグの瞳から、ついと涙がこぼれおちたのが見えた。けれどそれきり、涙はとまった。彼は、ぽかんと俺を見つめていた。俺がにっこり笑う顔を、見たことのないものを見る目で、ずっと見ていた。

だいぶたってから、彼はぽつりとつぶやいた。

「ちたる?」

俺は嬉しくなって、大きくうなずいた。

「うん。こっちは、エルゼ」

オグはゆらりと視線を動かし、胸をはって笑っているエルゼを見た。

「えるぜ?」

「うん、そうだ。エルゼだ」

「エルゼだ!よろしく頼むぞ、あにい!」

彼女の瞳にきらめく自信は、相当のものだった。

一方のオグは、何がなんだかわからない、という顔をしていた。

緩慢なしぐさで首をかしげ、

「よろしく?」

と、聞き返してきた。

俺たちは顔を見合わせて笑った。

俺もエルゼも、腹を決めていた。お互いの気持ちもわかっていた。

ここで出会ったが百年目、だ。

俺が言った。

「聞いただろう?エルゼが一緒に来い、って言ったじゃないか。そういうことだよ。俺たちとおいでよ」

オグの瞳が、大きく見開かれた。

言葉の意味をとらえた驚きのなかに、虹のかけらのような光が、かすかにきらめいた。

俺は付け足した。

「どこか行きたいところがあるんなら、そこへつれていってあげるよ。もしないなら、俺たちと一緒にいたらいい。そういう意味だよ」

「そうとも。ようこそだ、あにい。川のはては、あにいを歓迎している」

ふんぞり返るエルゼの言葉に、オグはますますぽかんとした。目も口も、まんまるに開かれた。

そのまましばらく、彼は動かなかった。

ただひたすら、まばたきばかりを繰り返す。

俺が見かねて、説明を付け足した。

「俺たちは、ここを川のはて、って呼んでるんだ。ここに集まってくる水を、きれいにするのが、俺たちの仕事なんだよ」

エルゼが口をはさんだ。

「正確には、それをやっているのはチタルだけだ。わたしには、別の仕事がある」

「もう、ややこしくするなよ、エルゼ」

「事実だぞ」

「そうだけど」

俺たちのやりとりに、おずおずとオグが口をはさんだ。

「しごと?」

「ああ」

俺は笑って、首をふった。

「色々あってさ。ここで話すと長くなるから、やめとくな。それより、その服ぬれてるだろ。着替え貸すから、戻って、はやく体をあっためよう」

言われても、オグはぽかんとしたまま、動きだす様子はなかった。

エルゼが後ろから、無理やり彼のお尻を押し上げて、立ちあがらせた。

うはあっ、という情けない声をあげ、彼はつんのめった。

目の前は、滝つぼだった。

「あぶなっ!」

とっさに俺は身をのりだした。

オグもすくんで後ろによろめき、しがみついてきた。

そのまま受け止めて、引き戻した。よろめきながらも、思いのほかしっかり、彼は地に足をついた。

息をつき、俺は思わずエルゼをにらんだ。

「コラ!危ないだろ!っとに強引だな、エルゼは!」

「すまん、反省している」

軽く肩をすくめたものの、あまり悪びれた様子もなく、エルゼは言った。

そして、

「では、先に行っているぞ」

と言いおいて、くるりとかかとを返し、すたすたと歩き去った。

驚いたが、彼女にはよくあることだった。

俺は盛大にため息をついた。

エルゼには、誰かと同調しようという意識がないのだ。

俺と違って、オグは驚いたままの顔で、小さくなっていくエルゼの姿を見つめていた。

取り残された俺たちは、そのままの流れでなんとなく寄り添い、お互いに顔を見合わせた。

彼は、まるで泳ぎすぎて疲れたみたいな顔をしていた。

その頬や、少し広い額に、日差しが白くこぼれかかる。

俺は、そっと彼の手をとり、軽くひっぱった。

いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。

オグは、なにも言わず、大人しくついてきた。

はじめは石のように冷たかったその指先は、握っているうちに、ほかほかと温かくなった。





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