振り向けば君がいた

和之

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第四十二話-最終章1

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 野村はやっと陽子と連絡が取れて会う約束が出来た。 
 明日は陽子に会う前日に希美子への望みを抱くと居たたまれず、いつか船乗りから聞いた潮目を求めるように家を出た。彼は学校紹介の会社を無断欠勤したあの日と同様に法然院辺りの哲学の道からまた彷徨った。さすらって居るのに同じ道を歩いている。当然に同じ友禅の工房に出てしまう。もうあの張り紙は希美子の助言で外してある。夜の八時頃、本宅と向かいの男子寮からは灯りが溢れていた。みんな楽しくやってるんだなあと侘しく見詰めたながらそっと行き過ぎた。白川に出る簡素な住宅地の一角にオアシスの様に灯りが見えた。敷香だ!通りからガラス窓を通して覗くと知り合いは居ない。吸い寄せられるようにドアノブを引いた。
  カウンターに座ると暖かくマスターが迎えてくれた。
「珍しい人が来ましたね。暫く見ませんでしたね。睦夫さんの話だとあの友禅の工房を辞められたとか訊いてますよ」
  野村が言葉を濁すとマスターはいつもの珈琲ですねとアッサリと下がった。
「いい季節になって来ましたねぇ」
  出されたコーヒーに一口付けるとやっと落ち着いてマスターの言葉に頷いた。
「丹後半島に居ました。寂れた町でしたが……。前から聞こうと思ってましたが敷香《しすか》ってどんな町なんですか」
「丹後に比べると拓けてますね。あの当時で三万人住んでましたからねぇ。そのまま発展すれば十万以上の都市に成ってたでしょうね。そのまま発展すれば……」
 ーー国境には東西に高い山が連なってましてね。その谷間から南の多来加湾《たらいかわん》まで広大なツンドラ地帯が広がってました。釧路湿原の数倍もする湿原なんです。そこを旧ソ連領から流れる幌内川《ほろないがわ》の河口に拓けた町なんですよ。樺太には背骨のようにそそり立つ深い山が続いてました。冬に山で切った木はそりで谷間に集めて雪解けと共に全部此の川から流送しますから敷香は製紙業が盛んなんですよ。その冬が凄いですよ山の斜面を下って谷を埋めた冷気が一気に多来加湾に流れ込んで沖で凍りますからね。その流氷が北海道へ流れ着きますから。だから五月になると、まるで地震でも起こったみたいに、一斉に氷が割れるんですよ。厳しい自然ですけど何千年と続いて嘘がないですよ。毎年決まって訪れますからねそれに引き替え人の心は短く虚ろげやすいですね、だから人はあてにすればろくなことには成りませんよ。ソ連が攻めて来た時は知っての通り、最後は自分だけじゃないですか頼るのは、それをあの地で悟りました。敷香で人間性の原点が問われるとは思いも寄りませんでした。
「何ですかその原点とは……」
「思いやりですよ人への」         
「そうだとすれば哀しい人生ですね」
「樺太はそう云う土地だったんですよ」
 もう二度と逢えない。敷香はそんな幻の人だったんですよ、とマスターは寂しく笑って付け加えた。

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