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第四十話-2
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深山《みやま》と縁を切った頃の希美子は、職場連中から悟られるのを避ける為に周りの者が「あんた最近野村君と仲いいね」と訊かれて「止めてよあんな男!」と云っていたのを追求したことがあった「こんな苦労までして二人の秘密を守り通してるのじゃない。もっとあたしを信じてって」と言われた。それ以来初めて味わうショックだ。安心して彼女を見られたのは、二人で初めて丹後の実母に、会わせてもらってからだ。だからあのプラットホームの光景は頭から冷水を浴びせられる思いだ。この時のショックの反動で彼女を烈しくののしってしまった。
希美子は二十年間、人を信ずる事を拒絶してきた男が、初めてその禁ヵ条を破らせた女性だ。適当に信ずればその反動も少ないが、全身全霊で彼女を信じての此の背信行為は、奈落の底に突き落とされたに等しい。
希美子によってこころの神経を包む鎧を取ってしまった。彼の神経は、希美子によってのみまた病んで来る。だから慎二にすれば当然の怒りだったが、云うだけ言えば希美子に対する以前の愛情は復活した。彼女を愛しているからだ。この怒りも一種の愛情表現に過ぎない、と彼女が受け止めてくれればそれで良かった。その晩は枕を少し離して寝た。
翌朝、もう彼女は出掛けていた。義母に訊けば今日から団体さんの泊まりがあるから仕込みが忙しくなり、宴席の料理が間に合わないから早めに出たらしい。彼は夕べの事は二人だけの事として義母には何も話さなかった。今朝はもうあの男も東の方に在る大都会の校舎の片隅で働き始めている時間だ。
彼女がパートに出るといつもの一人になった。二階の文机の前でいつものように何も描かれていない真っ白い紙を見詰めている。その下の紙には鉛筆で何度もなぞった下描きがあった。何も浮かびそうもないから下描きにインクでなぞり出した。がどうも筆が重くてペン先が走ってくれなかった。仰向けに倒れて天井ばかりを見続ける、そこに希美子が重なる。俺は謝る必要はない悪くないんだ、誰が見ても正義はこっちに在る。だが夕方になると昔待ち合わせて帰った事が懐かしくなった。あの頃は冬だったが待ちきれなかった。同じように彼は迎えに家を出た。駅でなく旅館まで足が伸びてしまった。
裏口に通じる道ばたの小さな橋の手すりに腰を下ろして待った。希美子は彼を見つけると小走りに寄って来る。
「どうしたのめずらしいわね」と昨日の事は何もなかったように喋り出したが、どことなく言葉を選んでいるのが顔の端々に僅《わず》かに浮かんでいる。親しくなってからは見た事のないよそ行きの顔だ。
「こんなとこまで来なくていいのに」と笑ってくれているが一寸硬い。彼はわざとふざけてバカッ話をした。まるでピエロだった。一体おまえは何しに出向いて来たんだ、ともう一人の自分があざ嗤っている。
「描き溜めてる下書きちょっと見たけどまだ直すんでしょう」
今日はペン描きしょうと思ってた原稿だ。やっぱり良くないんだ。
「あたしももう一度絵を描きたくなった」
希美子はまっすぐ見ながら言った。その先の実に綺麗な夕陽に向かって、二羽の鳩が連れ添って飛んでいった。なんだか触れるのが怖くなってくるから真っ直ぐ歩いた。それから電車の中でも家でも二人の話は、人って、愛って、生きるって何なのと云う抽象論になっている。話が空回りしてきたのである。
希美子は二十年間、人を信ずる事を拒絶してきた男が、初めてその禁ヵ条を破らせた女性だ。適当に信ずればその反動も少ないが、全身全霊で彼女を信じての此の背信行為は、奈落の底に突き落とされたに等しい。
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翌朝、もう彼女は出掛けていた。義母に訊けば今日から団体さんの泊まりがあるから仕込みが忙しくなり、宴席の料理が間に合わないから早めに出たらしい。彼は夕べの事は二人だけの事として義母には何も話さなかった。今朝はもうあの男も東の方に在る大都会の校舎の片隅で働き始めている時間だ。
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