振り向けば君がいた

和之

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第三十八話-3

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 この男とは一回だけウラジオストックに入港した時に半日上陸してビリヤードに行った。ここで野村は中本を思い出した。中本とはローテーションばかりだがここではエイトボールばかり打っていた。
 それを言うと「陸《おか》と違って船乗りはそんな計算の面倒臭いのはやってられねぇよ」と返ってくる。
 エイトボールは計算や書く手間は要らない。ただ打てばいいが相手球を避けて打つ角度が要求されるそれを言うと。
 男は「海の上と一緒だ勘で打て、俺たちは自然が相手だもっと五感を磨け、海に語りかける船主《おやじ》を見ろレーダーも魚群探知機も機能しなくなりゃあ五感が物言う世界だ」そして笑って最後に「野村お前は考えすぎだもっと楽に生きろ」そう言った。
 彼ら船乗りは自然にどう立ち向かうか考えていた。潮目もそうだった。太平洋側では黒潮と親潮、寒流と暖流の境目は好漁場になる。日本海側にも判りにくいが潮目が出来る。それら潮目には飛びっ切り良い獲物が居るそうだ。「どんな魚ですか?」と訊くと「人魚」だと云って笑った。
 だから漁師は考えながら潮目が出来る海域を探すそうだ。幸運にも見つけられてもじりじりと追い詰めながらも、最後は網の目をするりと逃れてゆく。濃紺の海から遠ざかる魚影を無念そうに見送るのが常らしい。酒を飲めばグラスにその夢を浮かべて酔いつぶれるらしい。
「俺はまだ巡り合ってないから運が良いのか悪いのか判らないがそれで悩まされたら悪夢だろうなあ」とその船乗りは云った。
 船員手帳がパスポート代わりで短い時間、春の無い冬のロシアの街を歩いた。ロシアの春は五月に一気に氷が割れて(解けるのでなく)冬が終わるだそうだ。シベリア鉄道の始発駅で彼は今年の夏はこれに乗るつもりだが来ないかと誘いも受けた。この航海で一度だけ立ち寄った外国だったが、朝入港して燃料、水、食料を半日で補給して夕方には慌ただしく出航した。半日だけ居たウラジオストックは彼同様にさっぱりとした大陸の町だった。
 野村は「狭いながらも楽しい我が家、身の丈を考えて生きる、これが心情だと」と言うと「そうか」と笑って見送ってくれた。あの男にはよく怒鳴られたが、根がないサッパリした男だった。この航海では裏腹のない本音で生きる多くの人々を知った。
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