振り向けば君がいた

和之

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第九話~2

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 先生の日課は本宅の一室で新作の着物の図案作りだ。一度取りかかるとなかなか部屋から出て来ない。そんな時はこちらから伺う。一度、深山さんから色見本を持って行った。部屋にはクラッシックの音楽が流れていた。周囲には色んなデザイン画集から図鑑その他参考になりそうな本に囲まれている。先生は座卓の前の草稿を腕組みしながら睨んでいた。入るなり先生はまあ座りと勧めてくれた。そしてインターホンでまかないのおばさんにコーヒーを二つ注文していた。
「先生此のCDは何ですか」
「チャイコフスキーの悲愴や、ええのが浮かばん時はこれに限るこれを掛けて瞑想するんや」
 絞り出すんやと冗談っぽく付け加える。
 深山君の話やと付げ下げの柄も描いてるそうやなあと。あれは送りの総柄と違って、力量が問われるが新人にしては重い柄を遣ってると感心していた。そこへおばさんがコーヒーを持って来た。
「ええ香りですね」
「先生は此のコーヒーが好きで近くの『敷香』と云う喫茶店のマスターから煎って持って来てもらってるんです」
「シスカですか」
「そや樺太の敷香(しすか)や、マスターはそこの出なんや。野村くんその店行ったことあるか」
「深山さんと希美ちゃんと一緒に連れて行ってもらいました」
「なんや三人で行ったんかいなぁ」
「どっか行くときは希美ちゃんが野村くんも誘ってもいい?って訊くらしいですから」
「あっそうかえらい君は彼女に気に入られてんやなあ」
「希美子さんは気立てのええさっぱりした人でっさかい先生も一目置いてはある」
「いらんこと言わんでええのや、ボチボチ昼の用意せなああかんのちゃうか」
 ああそうや油売ってる場合とちゃうわとおばさんは部屋を出た。
「あの人はもう十年以上家に来てもらってるんや家内が三年前に亡くなってからは一人で寮生を賄ってもらってるさかい重宝してる」
「朝はパンやけど昼食と夕食を十五人分ぐらい作ったはるんですか」
「そうや昼前に来てもろてなぁ、たまに娘の尚子も手伝うけど娘は経理を任せてるさかいなあ」
「はあー、あっそれで深山さんから頼まれたこの色見本はどうでしょう」
 切っ掛けを掴めずモヤモヤしていた野村はやっと用件を切り出した。
「あっ、そやそやそれで君来たんやなぁ」
 先生は好々爺然と野村の仕事の腰を折ってしまった事を詫びた。
 ちょっと目を通しただけでええんちゃうかと言いながら、もう自分で決めなあかんのになぁと頷いていた。
「その内、君も色出しするようになるやろう、その時は工場の二階の奥に居る橋場くん、彼は時たまわしでも出せん色をだすんや色使いはあの人を参考にし、余り喋らんから怖く見えるかも知れんがそんなことないさかい訊いたら喜んで教えてくれるさかい」
「でもそれでは深山さんに対して角たちません?」
「彼は外回りが多いさかいそこは大目に見てくれる。橋やんにはわしからも頼んどく君はええ絵の職人になると見込んでるんから」
 また彼ははぁと気の抜けた返事をして帰った。
「えらい長かったなぁ」と深山は迎えてくれた。この柄は二階の睦夫さんにやってもらう、と反物と色見本を一緒に持って上がった。てっきり自分が遣る着物と思い込んでいたのでがっかりして座り込んでしまった。
「新人には色合わせは無理よ」
 深山さんは睦夫さんに自分で柄の色合いを調合させるつもりだと紙ののれん越しに希美子が慰めるように囁いた。
「それよりあの本読んだ?」
 希美子が尋ねた。良かったと答える野村に、どう良かったのと続きをねだる子供の様に彼女は身を乗り出して問い詰められる。
「神学校を飛び出して女性遍歴を重ねた末に、領主の女に手を付け死刑を待つ身に、巡回中の司祭の訪問で救われる。それが昔の神学生時代の親友、あれは凄かった。旧友の司祭に引き取られての道行きで愛の遍歴を重ねた友が、修道士から司祭に上り詰めた友に語るところがドラマチックでヘッセの想いが伝わった。特に『君は死ねない、本当の愛を知らずに死ねない』此の友の告白が愛の重さを語っていて凄いと思った」
「そう!そうなのよヘッセの真実がそこに込められてるのよ」此の時の希美子の瞳は金剛石(ダイヤモンド)の輝きを放った。
「深山さんはどこにでも有る次々と女を代えてゆく色男の物語じゃないかってそれで終わりなのにがっかりした」と子供みたいに彼女は拗(す)ねて見せる。その表情には、一体この子は幾つなんだろうと思わずには居られなかった。
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