振り向けば君がいた

和之

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第五話

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第5話

「どう、寮に入って慣れたの」
 といつもの様に職場で二人を隔てる新聞紙の暖簾越しに希美子が訊いて来る。
「毎日沢山の女の人に囲まれて愉しい」
 と調子に乗って答える。
「まあ!そんなに鼻の下伸ばしてたらダメよ。もう何しに来たの」
 至ってつかみ所のない子だと希美子は呆れたように話しかけて来た。 
 彼女の叱り方はいつも語尾が穏やかに上がって柔らかく聞こえる。それが子供の頃から一方的に甲高い声で叱られた母のイメージとは掛け離れてる。母には関西弁の柔らかさはなく、アクセントも一定の高いまま続き、語尾は脳天にまできつく響いて憂鬱になる。それゆえに希美子の此の緩やかにうねるアクセントの喋り方が、彼には魅力的に聞こえた。昔から母がこんな叱り方だったら、俺はこんなに卑屈にならずに済んだのにと変な理屈を付けた。
「深山さんよりもっと早く君と出会えたら良かったのになあ」
「何よ、子供のくせにませた事言うのね」
「もうすく二十歳だよ……。それより深山さんはいつ戻って来るんだろうもう此の仕事終わるけど」
「あら次の予定訊いてないの、ちゃんと言ってる?」
「言ってない」
「ダメね、その柄で終わりなの。あーあしょうの無い人ね。こないだの洗濯だって遣りっ放しにして、次あたしだから良いけど他の子なの怒られるわよ、特にトヨちゃんはね」
 希美子が言うには此の二階に居るトヨちゃんと云う子は深山も手を焼いている。確かにあの切れ長の目つきは笑っていてもそこだけは鋭かった。だけどすねた所はない、どちらかと云うと何も考えの無い子だ。彼女はぼくの奥の部屋の睦夫さんを呼び捨てにしている。
「何なのあの二人は?」
「あたしも良く分からないけど、でも睦夫さんが病気になった時は真剣に看病していたの」
「他には」
「そこの階段の上がり口に居る巳絵ちゃんは黒川さんとは付き合ってるけど恋人どうしって云うより、今日はどうするの、とか聞き合ってるから馴れ合いの夫婦みたい」
「ラブ映画と全然違うじゃん」
 彼女は笑い出した。
「そんなの滅多に在る訳ないでしょう何も知らない子ねえ」
「その子って言うの止めてくれる」
「だって何も世間知らないんでしょう、だったら取り敢えず此の本読んで見たら」            
  本は苦手だと言うと、だから奨める本なのと言ってヘルマン・ヘッセの「知と愛」を渡してくれた。分厚くない文庫本だから丁度いいと思うと付け足した。何が丁度いいのか取り敢えず預かった。
  本よりも今日は節分で夜店の屋台が出る。その縁日に夕食の後に誘おうとしたが、希美子は深山と出掛けてしまった。スッカリ落ち込んだ野村は、偶然にも鉢合わせした陽子を誘ってしまった。
「何処へ行くの?」
 と陽子に訊かれても、希美子と行く予定が、アッサリと崩れた反動から当てもなかった。
「別に決まってないけどそこの縁日でも行かない?」
「いいわよ」
   陽子には余りにも適当なのが癪らしく見えたが応じた。そこがいじらしい。
 二人はどちらともなく無言のままで歩き出してしまった。
「野村さん仕事なれた?」
 誘ったのはいいが何から話すか思案すると、以外にも向こうから喋って来た。これには戸惑った。陽子はそれを見透かしている。
「本当は誰でもいいと思っていたんでしょう」
「ウッ、何のこと」
 野村は慌てたが、打ち消しようがなかった。
「本当は希美ちゃんを待ってたんでしょうでも深山さんと一緒だからあたしに声掛けた」
「別にそんなことない」
 スバリ言われた野村は更に慌てて否定した。
「あたしは職場では余り男の人とは喋らないから引っかけ安いと思ったんでしょう」
 野村の慌てぶりに陽子は可笑しくなった。
「滅相もない、まして引っ掛けるなんてハンガーじゃないし」
「何言ってんのあなたのこと希美ちゃんから聞いてるわよ、いつも向かいどおしで何話してんの」
「希美ちゃん何て言ったの」
「面白い人って」
「それだけ」
「それだけ。なに期待してたのばっかー」
  陽子は気を紛らす為にわざと面白く言ってるのが分かって来た。寂しがり屋なのだ。
  縁日の屋台を見て回っても、面白い事を言う割には心は縮まらない。でも一生懸命取り繕うとしているのも伝わってくる。ぎこちなくても人生初めてのデート気分を味わった。が余韻は残らなかった。
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