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季節を先取りする朝露が掛かっていた。ぼくが用意した母が好きだった生花を持って訪れた。遠目にも父と分かる男が母の墓石の前に立ち尽くしていた。みすぼらしい姿がかえってぼくを黙って近づけた。男はぼくが直ぐ傍へ来るまでじっと立っていた。やっと気付いたが驚いた様子は無かった。そうだろうねぼくを追いかけてきたのだから。死んだ男の様に無表情だった、だが母の前なのか何処で手入れしたのかこざっぱりした顔だった。沈み切った心なのか、随分とやつれて見えた。思わず父さんと掛けた言葉にやっと寂しそうな表情が緩んだ。そして男は精一杯の作り笑いでぼくを迎えた。それは母が愛した顔じゃなかった。ぼくは黙ってしゃがんで花を生けて合掌した。男はぼくの動きに合わせて数歩離れて一連のぼくの仕草を見守っていた。祈りを終えてやっと二人は口を開けた。
「随分長かったね此処へ来るまで」
「嗚呼長い遠回りをした」
「人はこころが病まないと真実が見えないらしい」
「はしゃいでいる時ほど人は見ようとしないだけだ、波立ってから分かる海のように・・・」
「あの頃、父さんはぼくをよく虐めた」
「そうだったか、よく憶えてえているなあ。だがな本当はあれはお前を叱ってたんじゃないんだ。知代子のやつが気に喰わなかったそれだけだ。そんな事を幾ら憶えたって偉くなれねぇぞ」
永倉喜一は知代子が愛情を注ぎ、慈しみの対象者である井津治に嫉妬した。その憎悪が増してゆき更にエスカレートした挙げ句の果ての離婚。喜一の知代子への歪んだいびつな愛の結末だった。しかも知代子が井津治を庇えば庇うほど可愛さが余った。やがて彼女への愛は憎しみに変化し彼女に降りかかった。その果ての悲しい結末に喜一は呆然とした。だが彼は背を向けたまま取り繕う事をしなかった。適切な愛情表現が出来ない男だった。この場に及んでそれでも知代子の墓前に来たのは、今もそれが尾を曳いてるからだ。
「それよりとうの昔に縁の切れた人のところへ何しに来たんです」
「おめいは知代子のお陰で御曹司に収まれるんじゃないか、それも俺あってのものだと云う事は忘れちゃいねえよな」
「さっきも言ったようにとっくに縁は切れてる」
「どうあろうと親子には違いないんだ未来永劫に」
「何処でどう嗅ぎ付けたか知らないが、ぼくには一銭の財産の贈与も有りませんから当てにしてもお門違いです」
「早く婚姻届を出さないと権利が無くなるぞ」
「そんな物は用意していないし、第一彼女が望まないでしょう」
「そんな事はねぇよ、あの娘は届け出用紙を用意しているちゃんと調べてあるんだ」
「そこまで素行調査したんですか」
「だからもうすぐ署名を迫ってやって来る、図星だろう」
井津治は大きく笑った。
「じゃ相手はぼくでなく野々宮さんだ、父さん当てが外れたなあ。素行調査の最終報告書はまだ届いてないのか、今その二人は一緒に旅行しているそれが何よりの証拠だ、第一長沼さんの資産は長沼さんの為に使うべきだ、いや原資を提供した人の本へ返すべきだ、これは法定相続人の奥さんも理解している、礼子さんは実行者に過ぎない、だからいくら父さんが当てにしてもぼくの元にはもちろん礼子さんにも一銭も入らない」
ここで井津治は父を精神的に突き放した。
「親父にそう言ってやったら『お前頭がおかしくなったのか』とたまげていた。そして嘘だろう、そんなに俺が憎いかと嘆いていた。無理もない、親父にすればこれで万事キュス。もう首を吊るしかないが親父は絶対にそんな訳の分からないまねはしない。地の果てまで逃げ通すだろう、だからもう会うことは無いだろう」
「以外と思い詰めると非情なのね」
「合理主義と言ってほしいね、それを徹底したのがおじさんだ」
確かに言われて見ればおじいちゃんは余計な事はしなかった。
「それじゃどうしてあたし達の将来に介入したのだろう?」
「それを突き詰めたからこうなったんじゃないですか。それで永倉さんは上手くお父さんを追い返しましたね。あれは突き放す為の方便でしょう」野々宮が言った。
「いや事実だよ。突き詰めれば礼子さんもそこに行き着くでしょ」
礼子も認めるように頷いた。それから古い写真を出した。
「井津治、これが例の写真、樺太の真岡で撮った全員の写真、おばあちゃんはしみじみ眺めてあたしに言ったのよ」
ーーこれはあの人との最初で最後の想い出の写真、初恋だったのねぇ。そう言いながら一番前列に写った若い女性を指さした。そしてこの人が取り持った、とやはり前列に居る年老いたロシア人を指さした。そして後ろに写る夫を見ながらばあちゃんは語り始めた。
ーー二人は親に内緒でこのアレクセイさんの家で会っていたのよ。そしてアレクセイさんは二人に自分の夢を語ったのよ、ここでひと財産作って生まれ故郷のニコラエスクに帰る。その時はここの漁場の権利はあの貪欲な親方で無く、あなた方に譲りたいからどうしてもふたり一緒になってほしいと願っていた。だからふたりが一緒になれる為には努力は惜しまないと言っていた。その辺の話しはあたしより知代子さんの方がよく知ってる。でも何しろあの人は早く亡くなったからね、それで途切れ途切れだけど私が代わって聴かされた。でも由貴乃さんの肝心な所は、知代子さんの方が詳しいはずだよ。彼女が死の間際には息子さんに語り継いだと思うよ。でもねあの子、あう云う子だからね黙ってたら何も喋らないから礼子、あんたそこん所は上手く取り繕うのよ。まああんたならあの子丸め込めるわねえって言うから「人聞きの悪いこと言わないでよ」って言い返すと、冗談だよって言って、あんたがそんな子じゃないことはばあちゃんは良く知っている。それ以上にじいちゃんは知ってるから、遺言であんたを指名したと笑っていた。
季節を先取りする朝露が掛かっていた。ぼくが用意した母が好きだった生花を持って訪れた。遠目にも父と分かる男が母の墓石の前に立ち尽くしていた。みすぼらしい姿がかえってぼくを黙って近づけた。男はぼくが直ぐ傍へ来るまでじっと立っていた。やっと気付いたが驚いた様子は無かった。そうだろうねぼくを追いかけてきたのだから。死んだ男の様に無表情だった、だが母の前なのか何処で手入れしたのかこざっぱりした顔だった。沈み切った心なのか、随分とやつれて見えた。思わず父さんと掛けた言葉にやっと寂しそうな表情が緩んだ。そして男は精一杯の作り笑いでぼくを迎えた。それは母が愛した顔じゃなかった。ぼくは黙ってしゃがんで花を生けて合掌した。男はぼくの動きに合わせて数歩離れて一連のぼくの仕草を見守っていた。祈りを終えてやっと二人は口を開けた。
「随分長かったね此処へ来るまで」
「嗚呼長い遠回りをした」
「人はこころが病まないと真実が見えないらしい」
「はしゃいでいる時ほど人は見ようとしないだけだ、波立ってから分かる海のように・・・」
「あの頃、父さんはぼくをよく虐めた」
「そうだったか、よく憶えてえているなあ。だがな本当はあれはお前を叱ってたんじゃないんだ。知代子のやつが気に喰わなかったそれだけだ。そんな事を幾ら憶えたって偉くなれねぇぞ」
永倉喜一は知代子が愛情を注ぎ、慈しみの対象者である井津治に嫉妬した。その憎悪が増してゆき更にエスカレートした挙げ句の果ての離婚。喜一の知代子への歪んだいびつな愛の結末だった。しかも知代子が井津治を庇えば庇うほど可愛さが余った。やがて彼女への愛は憎しみに変化し彼女に降りかかった。その果ての悲しい結末に喜一は呆然とした。だが彼は背を向けたまま取り繕う事をしなかった。適切な愛情表現が出来ない男だった。この場に及んでそれでも知代子の墓前に来たのは、今もそれが尾を曳いてるからだ。
「それよりとうの昔に縁の切れた人のところへ何しに来たんです」
「おめいは知代子のお陰で御曹司に収まれるんじゃないか、それも俺あってのものだと云う事は忘れちゃいねえよな」
「さっきも言ったようにとっくに縁は切れてる」
「どうあろうと親子には違いないんだ未来永劫に」
「何処でどう嗅ぎ付けたか知らないが、ぼくには一銭の財産の贈与も有りませんから当てにしてもお門違いです」
「早く婚姻届を出さないと権利が無くなるぞ」
「そんな物は用意していないし、第一彼女が望まないでしょう」
「そんな事はねぇよ、あの娘は届け出用紙を用意しているちゃんと調べてあるんだ」
「そこまで素行調査したんですか」
「だからもうすぐ署名を迫ってやって来る、図星だろう」
井津治は大きく笑った。
「じゃ相手はぼくでなく野々宮さんだ、父さん当てが外れたなあ。素行調査の最終報告書はまだ届いてないのか、今その二人は一緒に旅行しているそれが何よりの証拠だ、第一長沼さんの資産は長沼さんの為に使うべきだ、いや原資を提供した人の本へ返すべきだ、これは法定相続人の奥さんも理解している、礼子さんは実行者に過ぎない、だからいくら父さんが当てにしてもぼくの元にはもちろん礼子さんにも一銭も入らない」
ここで井津治は父を精神的に突き放した。
「親父にそう言ってやったら『お前頭がおかしくなったのか』とたまげていた。そして嘘だろう、そんなに俺が憎いかと嘆いていた。無理もない、親父にすればこれで万事キュス。もう首を吊るしかないが親父は絶対にそんな訳の分からないまねはしない。地の果てまで逃げ通すだろう、だからもう会うことは無いだろう」
「以外と思い詰めると非情なのね」
「合理主義と言ってほしいね、それを徹底したのがおじさんだ」
確かに言われて見ればおじいちゃんは余計な事はしなかった。
「それじゃどうしてあたし達の将来に介入したのだろう?」
「それを突き詰めたからこうなったんじゃないですか。それで永倉さんは上手くお父さんを追い返しましたね。あれは突き放す為の方便でしょう」野々宮が言った。
「いや事実だよ。突き詰めれば礼子さんもそこに行き着くでしょ」
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「井津治、これが例の写真、樺太の真岡で撮った全員の写真、おばあちゃんはしみじみ眺めてあたしに言ったのよ」
ーーこれはあの人との最初で最後の想い出の写真、初恋だったのねぇ。そう言いながら一番前列に写った若い女性を指さした。そしてこの人が取り持った、とやはり前列に居る年老いたロシア人を指さした。そして後ろに写る夫を見ながらばあちゃんは語り始めた。
ーー二人は親に内緒でこのアレクセイさんの家で会っていたのよ。そしてアレクセイさんは二人に自分の夢を語ったのよ、ここでひと財産作って生まれ故郷のニコラエスクに帰る。その時はここの漁場の権利はあの貪欲な親方で無く、あなた方に譲りたいからどうしてもふたり一緒になってほしいと願っていた。だからふたりが一緒になれる為には努力は惜しまないと言っていた。その辺の話しはあたしより知代子さんの方がよく知ってる。でも何しろあの人は早く亡くなったからね、それで途切れ途切れだけど私が代わって聴かされた。でも由貴乃さんの肝心な所は、知代子さんの方が詳しいはずだよ。彼女が死の間際には息子さんに語り継いだと思うよ。でもねあの子、あう云う子だからね黙ってたら何も喋らないから礼子、あんたそこん所は上手く取り繕うのよ。まああんたならあの子丸め込めるわねえって言うから「人聞きの悪いこと言わないでよ」って言い返すと、冗談だよって言って、あんたがそんな子じゃないことはばあちゃんは良く知っている。それ以上にじいちゃんは知ってるから、遺言であんたを指名したと笑っていた。
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