37 / 54
(37)
しおりを挟む
(37)
そもそも進駐軍の兵士を相手にロシア人の資産を増やす橋渡しをしたのはおばあさんだ。その功労者の妻は知代子と由貴乃と云う二人の女性の片隅に追いやられていた。そして祖父はその一方の忘れ形見である永倉を相続人として名指していない。そこに礼子の苦悩が見え隠れしていた。また彼女の考えをさまたげない為に、それに触れることを皆はタブー視していた。永倉の身辺は金で汚れてないし、本人も若さからか欲もない。第一、礼子は天の邪鬼で掴みどころがない。永倉以外の事には熱の篭もった議論になると平行線になるので、面と向かって言い争うことはなかった。しかしこの二人はどちらかが言い負かすまでやりあうからいつもケンカ別れになる。最近は歳と共に妥協点を見出し折り合いを見付け出した。聞こえは良いが問題の先送りである。それが自然と互いの見えない溝を成長させてゆく。
「おじさんはそれを見抜いて先手を打ったんだ」
二人の優柔不断な態度に業を煮やし介入した。勝手と言えば勝手過ぎるが、親の権威が失落とした今日に於いて、取りうる最大の行動を取った。そこに知代子に対する血筋を越えた長沼の執念が見える。
「健全な子孫が生まれるとは限らない。つまりおじさんはぼくに人の思いを受け継ぐのは血筋、血縁だけではない。永遠に生きられないなら、語れないならもっと深い繋がりを遺したい。怨讐を残さず、残された時間の中で迷いながらもただその事だけを考えた。美しい想い出を綺麗に繕うのに、最善の策を練って作られた遺言だった。二人の息子、清一さんと啓二さんにその面影はない、三人の孫娘ですが。佐伯さんに嫁いだ優子さんや宇土原(うどはら)さんに嫁いだ雅美さん夫婦にもその片鱗さえ見えてこない。消去法で残るは彼女ひとり、遺言の全てが彼女ひとりに託された訳ですよ、野々宮さん解りますかあなたにそれが・・・」
「礼子さんが受け継ぐ資産の基はアレクセイ・ラブリネンコさんのものですよね。アレクセイ・ラブリネンコさんは本当に自決したんですか? それだけの、二十年溜め込んだ物を戦乱の中とは云え長沼さんに託すでしょうか? しかも上陸した兵士は故国の人々、同胞ですよ」
「あなたは尼港事件を知らない。解放軍がどれほど恐ろしい連中か、同胞さえ思想が違えば皆殺しに遭わされる。そんな奴らが真岡までやってくればどうなる。それに由貴乃さんだってお父さんもいた」
「すべては亡くなっている」
「何が言いたいんですか!」
「汚れた金なら礼子さんは受け取らないと言いたいんですよ」
「どういう経緯で受け継いでも今の全資産から見れば些細な金額ですから大半は戦後稼いだ資産ですからどうって事はないでしょう」
「ぼくが言いたいのは、長沼さんの思想の源流が真岡の出来事にあるとすれば今の資産も当時と同じだけの価値がある、と言いたいんです」
「なぜそんなに拘るンです」
「拘ってるのは永倉さん、あなたでしょう。あなたはなぜおじさんの生き方に拘ってるんですか。大事なのは礼子さんの考え方でしょう」
「だから結婚相手は指定していないから自由じゃないですか」
野々宮はひとつ吐息をついた。
「元に戻りますが、アレクセイは自決したんですか?」
「信じるしかない。当時一緒だった由貴乃さんが、母の面影を曳いているその彼女を信じないでぼくもおじさんも生きていられないでしょう。それより礼子さんがそんなこと言ったのですか?」
「いや、訊いてないが大きな問題だ。樺太のクルーズ船の二等航海士だった宇土原さんは現地で一緒だったでしょう。何も聞いてないんでしょうかねえ?」
「さあ、直接本人に訊けば。急がないと次の出船が迫ってますよ。ついでにあなたの営業も出来て一石二鳥じゃないですか。まったく人の死を当て込んだ商法なんてハゲタカとどう違うんですか、彼女に本当に近づきたいんならもっと真っ当な仕事に就いたらどうなんです」
「人生最後のそれこそ有終の美を飾る仕事ですから」
「いいキャッチセールスですね、それでその葬儀費用の月掛けの会員を勧誘するんですか、困った人助けなんですね。その内、飽きられますよ彼女に」
永倉は皮肉たっぷりに言った。大きなお世話だ、この男が何と云おうとこっちの恋は進行形だ、その余裕からこっちも皮肉っぽく返してやった。
「じゃああなたの思いどおりに運ぶんじゃないですか」
「ぼくの言いたいのはおじさんの金の出所を探る資格があなたにはないってことですよ」
「悲しみに暮れる遺族の代行をしてるんですよ私達は世間から蔑まされる仕事じゃない」
野々宮にすれば自分の仕事をこれほど擁護と弁明に努めたのは初めてだった。永倉の言ってることは常日頃彼が抱いていた疑問に他ならないからだ。
その晩には本社待機の知らせが入った。明け方には担当する葬儀が決まり、通夜と翌日の告別式の担当が終わると、礼子から姉と会う承諾を得たと知らせが入った。
そもそも進駐軍の兵士を相手にロシア人の資産を増やす橋渡しをしたのはおばあさんだ。その功労者の妻は知代子と由貴乃と云う二人の女性の片隅に追いやられていた。そして祖父はその一方の忘れ形見である永倉を相続人として名指していない。そこに礼子の苦悩が見え隠れしていた。また彼女の考えをさまたげない為に、それに触れることを皆はタブー視していた。永倉の身辺は金で汚れてないし、本人も若さからか欲もない。第一、礼子は天の邪鬼で掴みどころがない。永倉以外の事には熱の篭もった議論になると平行線になるので、面と向かって言い争うことはなかった。しかしこの二人はどちらかが言い負かすまでやりあうからいつもケンカ別れになる。最近は歳と共に妥協点を見出し折り合いを見付け出した。聞こえは良いが問題の先送りである。それが自然と互いの見えない溝を成長させてゆく。
「おじさんはそれを見抜いて先手を打ったんだ」
二人の優柔不断な態度に業を煮やし介入した。勝手と言えば勝手過ぎるが、親の権威が失落とした今日に於いて、取りうる最大の行動を取った。そこに知代子に対する血筋を越えた長沼の執念が見える。
「健全な子孫が生まれるとは限らない。つまりおじさんはぼくに人の思いを受け継ぐのは血筋、血縁だけではない。永遠に生きられないなら、語れないならもっと深い繋がりを遺したい。怨讐を残さず、残された時間の中で迷いながらもただその事だけを考えた。美しい想い出を綺麗に繕うのに、最善の策を練って作られた遺言だった。二人の息子、清一さんと啓二さんにその面影はない、三人の孫娘ですが。佐伯さんに嫁いだ優子さんや宇土原(うどはら)さんに嫁いだ雅美さん夫婦にもその片鱗さえ見えてこない。消去法で残るは彼女ひとり、遺言の全てが彼女ひとりに託された訳ですよ、野々宮さん解りますかあなたにそれが・・・」
「礼子さんが受け継ぐ資産の基はアレクセイ・ラブリネンコさんのものですよね。アレクセイ・ラブリネンコさんは本当に自決したんですか? それだけの、二十年溜め込んだ物を戦乱の中とは云え長沼さんに託すでしょうか? しかも上陸した兵士は故国の人々、同胞ですよ」
「あなたは尼港事件を知らない。解放軍がどれほど恐ろしい連中か、同胞さえ思想が違えば皆殺しに遭わされる。そんな奴らが真岡までやってくればどうなる。それに由貴乃さんだってお父さんもいた」
「すべては亡くなっている」
「何が言いたいんですか!」
「汚れた金なら礼子さんは受け取らないと言いたいんですよ」
「どういう経緯で受け継いでも今の全資産から見れば些細な金額ですから大半は戦後稼いだ資産ですからどうって事はないでしょう」
「ぼくが言いたいのは、長沼さんの思想の源流が真岡の出来事にあるとすれば今の資産も当時と同じだけの価値がある、と言いたいんです」
「なぜそんなに拘るンです」
「拘ってるのは永倉さん、あなたでしょう。あなたはなぜおじさんの生き方に拘ってるんですか。大事なのは礼子さんの考え方でしょう」
「だから結婚相手は指定していないから自由じゃないですか」
野々宮はひとつ吐息をついた。
「元に戻りますが、アレクセイは自決したんですか?」
「信じるしかない。当時一緒だった由貴乃さんが、母の面影を曳いているその彼女を信じないでぼくもおじさんも生きていられないでしょう。それより礼子さんがそんなこと言ったのですか?」
「いや、訊いてないが大きな問題だ。樺太のクルーズ船の二等航海士だった宇土原さんは現地で一緒だったでしょう。何も聞いてないんでしょうかねえ?」
「さあ、直接本人に訊けば。急がないと次の出船が迫ってますよ。ついでにあなたの営業も出来て一石二鳥じゃないですか。まったく人の死を当て込んだ商法なんてハゲタカとどう違うんですか、彼女に本当に近づきたいんならもっと真っ当な仕事に就いたらどうなんです」
「人生最後のそれこそ有終の美を飾る仕事ですから」
「いいキャッチセールスですね、それでその葬儀費用の月掛けの会員を勧誘するんですか、困った人助けなんですね。その内、飽きられますよ彼女に」
永倉は皮肉たっぷりに言った。大きなお世話だ、この男が何と云おうとこっちの恋は進行形だ、その余裕からこっちも皮肉っぽく返してやった。
「じゃああなたの思いどおりに運ぶんじゃないですか」
「ぼくの言いたいのはおじさんの金の出所を探る資格があなたにはないってことですよ」
「悲しみに暮れる遺族の代行をしてるんですよ私達は世間から蔑まされる仕事じゃない」
野々宮にすれば自分の仕事をこれほど擁護と弁明に努めたのは初めてだった。永倉の言ってることは常日頃彼が抱いていた疑問に他ならないからだ。
その晩には本社待機の知らせが入った。明け方には担当する葬儀が決まり、通夜と翌日の告別式の担当が終わると、礼子から姉と会う承諾を得たと知らせが入った。
10
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
黄昏は悲しき堕天使達のシュプール
Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・
黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に
儚くも露と消えていく』
ある朝、
目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。
小学校六年生に戻った俺を取り巻く
懐かしい顔ぶれ。
優しい先生。
いじめっ子のグループ。
クラスで一番美しい少女。
そして。
密かに想い続けていた初恋の少女。
この世界は嘘と欺瞞に満ちている。
愛を語るには幼過ぎる少女達と
愛を語るには汚れ過ぎた大人。
少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、
大人は平然と他人を騙す。
ある時、
俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。
そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。
夕日に少女の涙が落ちる時、
俺は彼女達の笑顔と
失われた真実を
取り戻すことができるのだろうか。
不人気プリンスの奮闘 〜唯一の皇位継承者は傍系宮家出身で、ハードモードの無理ゲー人生ですが、頑張って幸せを掴みます〜
田吾作
青春
21世紀「礼和」の日本。皇室に残された次世代の皇位継承資格者は当代の天皇から血縁の遠い傍系宮家の「王」唯一人。
彼はマスコミやネットの逆風にさらされながらも、仲間や家族と力を合わせ、次々と立ちはだかる試練に立ち向かっていく。その中で一人の女性と想いを通わせていく。やがて訪れる最大の試練。そして迫られる重大な決断。
公と私の間で彼は何を思うのか?
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
スカートなんて履きたくない
もちっぱち
青春
齋藤咲夜(さいとうさや)は、坂本翼(さかもとつばさ)と一緒に
高校の文化祭を楽しんでいた。
イケメン男子っぽい女子の同級生の悠(はるか)との関係が友達よりさらにどんどん近づくハラハラドキドキのストーリーになっています。
女友達との関係が主として描いてます。
百合小説です
ガールズラブが苦手な方は
ご遠慮ください
表紙イラスト:ノノメ様
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる