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「私の好みをよく覚えていてくれたのね、それにこの部屋も昔のままで懐かしい」
「用件は?」
室内を見回す佐恵子に彼は単調に訊いた。
「相変わらず口数が少ないのね」
「男は無口な方が良いと言ったのは君だよ」
「あら、そうだったかしら」
彼女は笑っていた。
「まだこの前の吸血鬼のお礼をしてなかったわね」
「じゃあ手術は上手くいったのか」
「ええ、それでかおりがあなたに逢いたがってるの。もう一度病院へ来てくれない?」
朔郎は沈黙した。
「何か考える事があるの?」
「いや別に」
「別に、何なの」
「かおりが本当に会いたがってるのか。あの子は俺の事など今までは忘れて知らないはずだったのに」
かおりがいつ俺の事を知ったと云うのだろう。佐恵子はおそらくそれを伝えていたのは最近だと思うけれど、しかしこちらから聞き出す勇気は無かった。
佐恵子との別れは突然何の前触れも無くやって来た。と云うよりある日、プツンと電話回線が切れた様なものだった。その日から何を言っても否定されたのだ。挙げ句の果てにこうして欲しいかったと好き放題に言い寄られて難癖をつけられた。もうこれは欠点のあら探しの様なものだった。要するにあなたを愛したのが間違いだったと突きつけられたのだ。突然に彼女の態度が別人に変わり果てて仕舞えばもう原因なんて掴めなかった。
別れを言い出した彼女にはハッキリした理由があっても、言い渡された彼には寝耳に水であり、ましてかおりに別れを告げても乳飲み子では無理も無かった。そしてものごころ付いた頃に居る男が父親であって何の違和感もなかった。
「あの子には今まで僕の事をなんて云ってるんだ」
どうせ都合の良いようにしか喋っていないのだろう。
「理由(わけ)あって別れたの、って言ってるの」
訳なんてありはしないだから問い詰めても無駄な事だった。
「いつだ」
「高校生になった頃」
「それでかおりが納得したのか」
「ええ、勘の鋭い子ですから」
どう鋭いのだろう、ならば正幸がどう云う人間か、かおりは察しが付いていたのかも知れないがまあそれは無かろうまだ高校生だ。
「幾ら勘が鋭くてもまだ理解出来る訳がないだろう、その辺りをどう説明したのだ」
難しい思春期の娘がすんなりと受け容れるだろうか。だが佐恵子ならお手の物かも知れない。
「心配しなくてもあなたの人格は尊重するように育てたから」
佐恵子は微笑と豊かな表情を駆使して朔郎の憂鬱な瞳に応えた。
「それにもう理由が無くなったのよ。それであなたに逢いに来たのじゃないの」
彼女は昔の様な穏やかな情感のこもる口調になった。それが朔郎には益々不可解に見えて来た。
「理由が無くなった? どう言う意味だ」
「正幸が死んだの・・・」
佐恵子の顔が急に愁いを帯びてきた。その目はあの人の魂が滅びたと言っているようだった。思想に殉ずる強さと人を裏切る冷たさは正比例する。正幸はともかく朔郎はどちらも持ち合わせていなかった。
「そうか・・・」
冬の使者が叩いたガラスの音はそこからは無音の風となりふたりの間を行き過ぎた。朔郎はふと背筋に悪寒が走った。
これで自由意志以外に束縛される物がなくなった。限りない自由の彼方にはやはり限りない破滅がある。その先に有るのは奈落だ。
「それでぼくのところへ来たのか」
「それだけではないわ。よく聴いて。きのう正幸から真実を聞かされたの」
ーーそれで彼は裏切りの代償を払ったのか。
ーーそんな言い方しか出来ないの。
「でも”あの時に“事実を知ってもあなたのところへは戻れなかった」
「じゃあなぜ何ひとつ、そんな素振りを見せないで”あの時“は去った」
『決して嫌いで別れるのじゃないのよ』と云うあの時の言葉は嘘だったのか。もうあのように偽善者ぶるのは止めてほしい。
「あの頃のあなたは向上心が麻痺し没落しても、あなたは魂の叫びを求めようとはしなかった。でもあの頃の正幸は違った」
「違う。ぼくは君の魂の叫びに応えようと北の海まで行った」
「その苦労は認めるわ」
珍しく佐恵子は躊躇した。
「・・・それより、ねえこのピアノ曲は何て云うの」
ベートーベンのピアノソナタ月光は第三楽章に入っていた。話の腰を折られた朔郎はムッとした。佐恵子は正幸の死を知らせてから何故か落ち着きを取り戻していた。
「曲は『ベートーベンのピアノソナタ月光』それより原因はなんだったんだ」
佐恵子の切れ長の眼は大きく見開き、その瞳には満々と笑みを湛えていた。こうなっては手遅れだ佐恵子に呑まれてゆく。
「『月光』月の光、良い曲ね。・・・分からない人ね、だからもう原因はなくなったって言ったでしょう」
正幸の死を知らせてからは佐恵子の口調は時折変わる朔郎の荒い口調にも穏やかに応えて慈愛に満ちた瞳は三十九と云う歳を消し去るのには十分だった。
朔郎は佐恵子のこの瞳の主張に拒めなくなった。魅力と云うより魔力だ。その美しさは審美性を通り越し、半ば狂気を帯びている。魅入られたように朔郎の心は落城してゆく。十七年の歳月を掛けた執念と云う牙城が崩れ去る。
ふたりが寄り掛かるのにはもう時間は要らなかった。
雨はスッカリ止み、月夜になっていた。
「用件は?」
室内を見回す佐恵子に彼は単調に訊いた。
「相変わらず口数が少ないのね」
「男は無口な方が良いと言ったのは君だよ」
「あら、そうだったかしら」
彼女は笑っていた。
「まだこの前の吸血鬼のお礼をしてなかったわね」
「じゃあ手術は上手くいったのか」
「ええ、それでかおりがあなたに逢いたがってるの。もう一度病院へ来てくれない?」
朔郎は沈黙した。
「何か考える事があるの?」
「いや別に」
「別に、何なの」
「かおりが本当に会いたがってるのか。あの子は俺の事など今までは忘れて知らないはずだったのに」
かおりがいつ俺の事を知ったと云うのだろう。佐恵子はおそらくそれを伝えていたのは最近だと思うけれど、しかしこちらから聞き出す勇気は無かった。
佐恵子との別れは突然何の前触れも無くやって来た。と云うよりある日、プツンと電話回線が切れた様なものだった。その日から何を言っても否定されたのだ。挙げ句の果てにこうして欲しいかったと好き放題に言い寄られて難癖をつけられた。もうこれは欠点のあら探しの様なものだった。要するにあなたを愛したのが間違いだったと突きつけられたのだ。突然に彼女の態度が別人に変わり果てて仕舞えばもう原因なんて掴めなかった。
別れを言い出した彼女にはハッキリした理由があっても、言い渡された彼には寝耳に水であり、ましてかおりに別れを告げても乳飲み子では無理も無かった。そしてものごころ付いた頃に居る男が父親であって何の違和感もなかった。
「あの子には今まで僕の事をなんて云ってるんだ」
どうせ都合の良いようにしか喋っていないのだろう。
「理由(わけ)あって別れたの、って言ってるの」
訳なんてありはしないだから問い詰めても無駄な事だった。
「いつだ」
「高校生になった頃」
「それでかおりが納得したのか」
「ええ、勘の鋭い子ですから」
どう鋭いのだろう、ならば正幸がどう云う人間か、かおりは察しが付いていたのかも知れないがまあそれは無かろうまだ高校生だ。
「幾ら勘が鋭くてもまだ理解出来る訳がないだろう、その辺りをどう説明したのだ」
難しい思春期の娘がすんなりと受け容れるだろうか。だが佐恵子ならお手の物かも知れない。
「心配しなくてもあなたの人格は尊重するように育てたから」
佐恵子は微笑と豊かな表情を駆使して朔郎の憂鬱な瞳に応えた。
「それにもう理由が無くなったのよ。それであなたに逢いに来たのじゃないの」
彼女は昔の様な穏やかな情感のこもる口調になった。それが朔郎には益々不可解に見えて来た。
「理由が無くなった? どう言う意味だ」
「正幸が死んだの・・・」
佐恵子の顔が急に愁いを帯びてきた。その目はあの人の魂が滅びたと言っているようだった。思想に殉ずる強さと人を裏切る冷たさは正比例する。正幸はともかく朔郎はどちらも持ち合わせていなかった。
「そうか・・・」
冬の使者が叩いたガラスの音はそこからは無音の風となりふたりの間を行き過ぎた。朔郎はふと背筋に悪寒が走った。
これで自由意志以外に束縛される物がなくなった。限りない自由の彼方にはやはり限りない破滅がある。その先に有るのは奈落だ。
「それでぼくのところへ来たのか」
「それだけではないわ。よく聴いて。きのう正幸から真実を聞かされたの」
ーーそれで彼は裏切りの代償を払ったのか。
ーーそんな言い方しか出来ないの。
「でも”あの時に“事実を知ってもあなたのところへは戻れなかった」
「じゃあなぜ何ひとつ、そんな素振りを見せないで”あの時“は去った」
『決して嫌いで別れるのじゃないのよ』と云うあの時の言葉は嘘だったのか。もうあのように偽善者ぶるのは止めてほしい。
「あの頃のあなたは向上心が麻痺し没落しても、あなたは魂の叫びを求めようとはしなかった。でもあの頃の正幸は違った」
「違う。ぼくは君の魂の叫びに応えようと北の海まで行った」
「その苦労は認めるわ」
珍しく佐恵子は躊躇した。
「・・・それより、ねえこのピアノ曲は何て云うの」
ベートーベンのピアノソナタ月光は第三楽章に入っていた。話の腰を折られた朔郎はムッとした。佐恵子は正幸の死を知らせてから何故か落ち着きを取り戻していた。
「曲は『ベートーベンのピアノソナタ月光』それより原因はなんだったんだ」
佐恵子の切れ長の眼は大きく見開き、その瞳には満々と笑みを湛えていた。こうなっては手遅れだ佐恵子に呑まれてゆく。
「『月光』月の光、良い曲ね。・・・分からない人ね、だからもう原因はなくなったって言ったでしょう」
正幸の死を知らせてからは佐恵子の口調は時折変わる朔郎の荒い口調にも穏やかに応えて慈愛に満ちた瞳は三十九と云う歳を消し去るのには十分だった。
朔郎は佐恵子のこの瞳の主張に拒めなくなった。魅力と云うより魔力だ。その美しさは審美性を通り越し、半ば狂気を帯びている。魅入られたように朔郎の心は落城してゆく。十七年の歳月を掛けた執念と云う牙城が崩れ去る。
ふたりが寄り掛かるのにはもう時間は要らなかった。
雨はスッカリ止み、月夜になっていた。
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