下弦に冴える月

和之

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「まさか、これから何処へゆくの? これから裕次くんの車で真っ先に家に帰るのよ」
「松田が来ているのか、あいつはいい奴だ」
 正幸は半身を起こした。友美は慌てて手を肩に添えた。
「友美、途中で降ろしてくれ」
「お義兄さん。何を馬鹿な事を言ってるの。お義兄さんはこれから自分の家に帰るのよ」
 正幸の表情が急に厳しくなった。
「いや、俺はもう帰らない」
 友美は横坐りして正幸の正面に回った。
「お姉さんともう一度よく話し合って」
 正幸は友美をベッドから振り払った。
「だめだ!」
 正幸は両足をベッドから降ろして起き上がろうとした。友美は外で待たした裕次を呼びながら義兄を止めた。ドアを開けて飛び込んで来た裕次と今度は二人で制止しようとした。
「裕次さん、お義兄さんを押さえて」
 友美を払い退けて起き上がった正幸を今度は裕次がベットに押さえ付けた。
「松田! いいから手を離せ!」
 友美が医者と看護師を連れて戻って来た。
「帰りたくない死なせてくれ、このまま死なせてくれ!」
 正幸は死なせろと暴れ出した。
「今は何も喋らせないで下さい」
 看護師、友美、裕次が必死で押さえ付けてる間に医者は麻酔薬の注射を用意した。医者と看護師は正幸の腕を押さえ付けて麻酔薬を打った。
 やがて正幸は静かになった。
 麻酔の効いた正幸をみんなで病院から運び出して裕次の後部座席に寝かせた。
「麻酔は朝まで効いていますから、ゆっくりと走って下さい」
 医者は確認するように後部座席で眠る正幸を見た。
 友美は医者に礼を言うと助手席に座った。裕次の運転で車は病院を離れた。
「何処へゆくの?」
 何を寝ぼけているのかと裕次を見た。
「自宅しかないでしょう」 
 友美は諭すように言った。
「あの~、桂まで。こんな夜中に東の果てから西の果てまで走るのか」
「こんな時でもそんなふうにしか考えられないの」
「ただちょっと言ってみただけさ。でもトモちゃんと夜のドライブするなんて久し振りだからさ」
「何言ってんの、夜は初めてじゃないの」
 こいつはなに考えてんだろうと友美はひょうきん者を見直した。
「そうかなあ」
 裕次は惚けた。
「でもとんだドライブだったわね」
 それでも夜中に関わらず飛んで来てくれたことには感謝しながら後部座席の義兄を見た。
「よく眠ってるわ。しかしなんでお義兄さんはあんなところで自殺しょうとしたのかしら? 裕次くんは男だからその辺は理解出来るでしょう」
「いや全くの正反対ですよ。なんで雄琴なんかさっぱり分かりませんよ。第一に目立つし、それに見ず知らずの女の前ですよ。普通は考えられないすっよ」
「お姉さんへの当て付けかしら?」
「それは無いと思う」
「どうしてそう言い切れるの」
 裕次はちよっと間を空けた。
「怖かったんじゃない」
 課長は死の世界へ逝くのに心の準備が不十分だった。それで一度女を抱いてから琵琶湖で薬を飲んでから飛び込むつもりだったんじゃ無いかと思う。だけどそれは不謹慎と思い直して女を抱くのを止めてそのまま琵琶湖へ飛び込もうとした。がやっぱり女を先に抱くことにした。とにかくこの辺りになると課長はもう支離滅裂で自制力を失っていた。と云うのが裕次の分かりにくい推理であった。
「どうしてよ。死ぬ前に女の人を抱く必要が有るのよ」 
 友美は要点だけを訊いた。
「心神喪失で思い詰めて衝動的に、あるいは発作的に自殺する場合は女を抱いて死のうなんて考えないだろう。だが課長は心神健全で死を考えた」
「可怪(おか)しいわよ、死ぬこと自体不健全なのよ」
「そうじゃない、多分、それは課長の死に対する美学だよ。心の準備を万全にしてから死を迎える」
「その為に抱くなんて女をバカにしている」
「心をリフレッシュするリセットスイッチみたいなものだ」
「他に方法はないの」
 友美は完全に呆れて仕舞った。
「だから健全な人間は心を通わない相手を選ぶんだ。これは心中じゃあないんだからね」
「そんな不謹慎な考えはあなただけよ。そんな相手は迷惑この上もないわ。そんな手助けなんてゴメン被りたい。もっとましな考えはないの」
「まあ幸いな事に課長は一命を取り留めたのだから、後でゆっくり聞いてみたら」
 云われなくてもそうしたいのはやまやまだけど、十七年間も沈黙を守った人がそう簡単に話すはずがなかった。
 薬を飲むタイミングがずれている。その辺りが僕の死の美学と相反すると裕次は語った。友美はもう真剣に聞いていなかった。
 裕次は坂本から国道を曲がって山道に入った。
「また比叡山を越えるの」
 行きしなのあの曲がりくねった道路が頭に浮かぶと友美は不安になって一度後部座席を見た。だが車はもう峠道に入っていた。
「この方が近道だから」
 国道を外れると車は一台も走っていなかった。ヘッドライトで浮かび上がる道路以外は全くの闇の中を走っていた。

    
    
    
    
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