下弦に冴える月

和之

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「あれは事実じゃあないんだ。二人で最後に登った山で起きたことは・・・」
 佐恵子は暫く座敷机の端を見詰めた。そして急に顔を起こした。
「どう事実と違うと云うの」
「十七年前に君に言った事と実は立場が逆だったんだ」
 おおやけなら時効が成立してチャラになるのに、もう取り返しがつかないと佐恵子は思った。
「嘘よ! 嘘に決まってるわ」
 佐恵子は今更と、哀しそうな瞳をした。正幸は相変わらず平静だった。
「どうしてそう言い切れるんだ。北村の事は君より俺の方が付き合いは長いんだぜ」
 心の付き合いはあたしの方が長いのよ。その違いは愛情と友情の違いかしらと佐恵子は心で叫んだ。
「そうですけれど、あなたは本当の朔郎さんを知らないわよ。あの人はあたしに心の底を見せても、あなたには絶対見せなかったはずよ」
「だからどうだって言うんだ。それほど知り尽くしている男をどうして捨てたんだ」
「今さらそんなこと言うの。あたしの責任だと言うの」
 正幸の顔が初めて崩れて微かに瞳と口元が不安げに揺れた。
「佐恵子! 俺にも、親にさえも心を開かなかった男が君だけには初めて心を開いたんだ。そんな男から云い逃れするのか・・・。あいつはもう誰も信じない。あいつは貝になってしまっているんだ」
 正幸は瞼の力が抜けるように視線を落とした。
 友美はずっと卓にあるコーヒーカップを両手で飲まずに持ち続けていた。
「じゃ、なぜ、あなたはあの時、わたしに優しくしたの」
「苦しんでいる君を見てられなかった」
「それで」
「友情よりも貴いものを知った。いや、君が教えたようなものだった」
「そんな・・・、そんな言い方ないわ!」
「事実、あの時は君次第だったんだ」
「今さらそんなこと言わないで!」
 佐恵子は込み上げてくる嗚咽に必死に耐えた。
「もうあの頃には戻れないのよ」
「俺は卑劣な人間だった。俺はあいつの性格を十分に知り尽くしていた。君と一緒になるためにそれを利用した。今はそんな自分が嫌で堪らないだ」
「お義兄さん、そんなに卑屈にならなくてもいいのよ」
「友美、君は事実を知らないからさ」
「じゃあ本当はどうなの?」
 正幸の顔からはさっきの卑屈さは消えていた。
「本当のことを話すよ」
 友美にそう言ってから佐恵子を見据えた。
「佐恵子、もうあの頃に戻れないと言っていたが、もう一度だけ戻ってくれ」
 佐恵子も正幸の顔をまともに見た。ただ正幸の瞳には陰りがなく佐恵子の瞳には輝きがなかった。
「戻ってどうするの?」
「君がその気ならあいつは昔に戻る」
 佐恵子には過去も未来も見ずにただ正幸の目だけを見た。
「俺の話を聞くだけ聞いてくれ、それから佐恵子、お前が決めればいい」
 ーーあれは夏の初めだった。連休を取って俺は北村を誘った。これを最後の想い出としてあいつも誘いを受けた。 

 
    
    
    
    
    
    
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