39 / 50
(39)
しおりを挟む
「本当に観光で愉しむ為に来たのならあるでしょうね。でも仕事の合間ですから。二、三日でまた荒れ狂う海に帰るんですから。冬のベーリング海は凄い波ですよ。ビルの三階の高さまで船が上下に揺れるんですよ」
それを聞いて友美は不安そうに尋ねた。
「気分が悪くなりません?」
「操業中ですからそんな余裕はありませんよ。第一この海域に着くまで船酔いしていれば病院行きです」
「慣れるんですか?」
「慣れるんではなく慣らすんです。アリューシャンまでに。苦しみましたよ」
最後の言葉は佐恵子を意識して強調した。佐恵子は黙って能面の様な顔で聞いていた。朔郎は気を取り直して友美を相手に話を続けた。
「なれたんですね」
そう軽々しく云ってもらいたくないその反動で語気が強くなった。
「慣らすんです! でもそのままじゃ慣れません。吐いても吐いてもとにかくその都度食べるんです」
「気分が悪いのによく食べられますね、あたしならとても食欲が湧かなくて暫く寝込むしかないのに」
お嬢さんですねと朔郎は笑った。
釧路を出てから親しくなった漁船員が色々と世話を焼いてくれたお陰です。彼の両親は択捉島の出身でしてね。釧路を出て択捉の島影が見えて来ると彼はアリューシャン小唄を歌うんですよ。それも教えてもらいました。色丹島を歌ったものですが択捉島を見ると胸にジンと来る様でした。
「その船員に言われましたよ。それでも食べるしか生き残る道は無いと。吐いて暫くすれば食べられません。吐いた直後の気分が少し回復した時に食べるんです。また気分が悪くなって戻すのは分かり切っていても食べるしかないんです。だから船長はコックに『北村の為に常に食べるもんを用意しといたれ』って言ってくれたんです。これを繰り返していると次第に吐く間隔が延びてきてやっと躰が慣れてくるんです。操業前日に吐いたのが最後でした。この時は船長に『お前まだ吐いてるのか』と呆れていましたよ」
「良かったわね。でもどうしても食べられなければどうなるんです?」
「その内に胃液を吐いて、次には血を吐いて仕舞います。そうなれば終わりですよ」
永平寺の回廊で会った時の彼女の温もりを感じて喋っていたが佐恵子の醒めた眼を見て急に話をやめた。
友美はどうして肝心なところでやめたンですかと続きをせがんできた。
「あなたを前にしてこんな話をするのが馬鹿げてきたんでよ」
彼は佐恵子に向かってハッキリと言った。
「どうしてお姉さんの前では嫌なんですか」
「人の価値観なんてある日、突然に百八十度変わりますからね、ボクはそれを眼の辺りにしている。そうでしょう」
ーーとくにこの人はそうだ。この人の瞳は燃えるような正義と氷のような絶望を同時に照らし出す。そして、それがこの人の心の中には深い矛盾となって長く棲みついている。
佐恵子は何が言いたいのかしらと云う顔して黙っていた。
ーーこの人は次第に僕に傾き掛けて来ているはずだ。暖かくなり始めても、幾度かの寒の戻りを繰り返しながら春が来るように・・・。
「本当にあなたはかおりの為にあの山深い永平寺まで来たのですか」
「繰り返しますがかおりのためです」
「嘘です」
朔郎は言葉に力が入って仕舞った。
「あなたは正幸がどういう人間かまだ解らないンですか、いや解り掛けて来たからこそ僕に会いに来たんだ」
「あの人はあなたの親友でしょう」
「親友とは言えないが。ある時までは友人だった」
「まだ根に持っているの。でもそれはあなたが悪いのよ。正幸はハッキリとあなたに裏切られたと云いました」
あの山での出来事は二人だけの秘密にすると正幸が自ら申し出だった。朔郎は自分の耳を疑った。
「それは本当ですか。有美子さんに一度訊いて確かめるといい。本人に訊くのが一番の早道だが、あいつが白状するだろうか、まあ後は良心の問題だ」
果たしてあいつが十七年も良心の呵責を引きずっているのか?
窓の外が黄昏れているのに気付いた友美は慌てて腕時計を見た。裕次との待ち合わせ時間が迫っていると伝えた。
またかと朔郎は思った。前もそうだった。佐恵子はどうしてそんな約束のある妹を連れて来るのか。
「あなたはどうして一人では来られないんです」
「そうよ、お姉さんはもう少し話していたら。話も込み入って来たみたいだし。じゃあね。じゃ北村さん」
友美はサッサと行って仕舞った。
「お店を出て、少し歩かない?」
「何処へ?」
朔郎は友美のドタキャンが効いたのか気が失せて来た。
「鴨川でも・・・。時間はいいんでしょう」
朔郎は断った。俺の口から言いたくはない。正幸から直に訊いてくれと。
それを聞いて友美は不安そうに尋ねた。
「気分が悪くなりません?」
「操業中ですからそんな余裕はありませんよ。第一この海域に着くまで船酔いしていれば病院行きです」
「慣れるんですか?」
「慣れるんではなく慣らすんです。アリューシャンまでに。苦しみましたよ」
最後の言葉は佐恵子を意識して強調した。佐恵子は黙って能面の様な顔で聞いていた。朔郎は気を取り直して友美を相手に話を続けた。
「なれたんですね」
そう軽々しく云ってもらいたくないその反動で語気が強くなった。
「慣らすんです! でもそのままじゃ慣れません。吐いても吐いてもとにかくその都度食べるんです」
「気分が悪いのによく食べられますね、あたしならとても食欲が湧かなくて暫く寝込むしかないのに」
お嬢さんですねと朔郎は笑った。
釧路を出てから親しくなった漁船員が色々と世話を焼いてくれたお陰です。彼の両親は択捉島の出身でしてね。釧路を出て択捉の島影が見えて来ると彼はアリューシャン小唄を歌うんですよ。それも教えてもらいました。色丹島を歌ったものですが択捉島を見ると胸にジンと来る様でした。
「その船員に言われましたよ。それでも食べるしか生き残る道は無いと。吐いて暫くすれば食べられません。吐いた直後の気分が少し回復した時に食べるんです。また気分が悪くなって戻すのは分かり切っていても食べるしかないんです。だから船長はコックに『北村の為に常に食べるもんを用意しといたれ』って言ってくれたんです。これを繰り返していると次第に吐く間隔が延びてきてやっと躰が慣れてくるんです。操業前日に吐いたのが最後でした。この時は船長に『お前まだ吐いてるのか』と呆れていましたよ」
「良かったわね。でもどうしても食べられなければどうなるんです?」
「その内に胃液を吐いて、次には血を吐いて仕舞います。そうなれば終わりですよ」
永平寺の回廊で会った時の彼女の温もりを感じて喋っていたが佐恵子の醒めた眼を見て急に話をやめた。
友美はどうして肝心なところでやめたンですかと続きをせがんできた。
「あなたを前にしてこんな話をするのが馬鹿げてきたんでよ」
彼は佐恵子に向かってハッキリと言った。
「どうしてお姉さんの前では嫌なんですか」
「人の価値観なんてある日、突然に百八十度変わりますからね、ボクはそれを眼の辺りにしている。そうでしょう」
ーーとくにこの人はそうだ。この人の瞳は燃えるような正義と氷のような絶望を同時に照らし出す。そして、それがこの人の心の中には深い矛盾となって長く棲みついている。
佐恵子は何が言いたいのかしらと云う顔して黙っていた。
ーーこの人は次第に僕に傾き掛けて来ているはずだ。暖かくなり始めても、幾度かの寒の戻りを繰り返しながら春が来るように・・・。
「本当にあなたはかおりの為にあの山深い永平寺まで来たのですか」
「繰り返しますがかおりのためです」
「嘘です」
朔郎は言葉に力が入って仕舞った。
「あなたは正幸がどういう人間かまだ解らないンですか、いや解り掛けて来たからこそ僕に会いに来たんだ」
「あの人はあなたの親友でしょう」
「親友とは言えないが。ある時までは友人だった」
「まだ根に持っているの。でもそれはあなたが悪いのよ。正幸はハッキリとあなたに裏切られたと云いました」
あの山での出来事は二人だけの秘密にすると正幸が自ら申し出だった。朔郎は自分の耳を疑った。
「それは本当ですか。有美子さんに一度訊いて確かめるといい。本人に訊くのが一番の早道だが、あいつが白状するだろうか、まあ後は良心の問題だ」
果たしてあいつが十七年も良心の呵責を引きずっているのか?
窓の外が黄昏れているのに気付いた友美は慌てて腕時計を見た。裕次との待ち合わせ時間が迫っていると伝えた。
またかと朔郎は思った。前もそうだった。佐恵子はどうしてそんな約束のある妹を連れて来るのか。
「あなたはどうして一人では来られないんです」
「そうよ、お姉さんはもう少し話していたら。話も込み入って来たみたいだし。じゃあね。じゃ北村さん」
友美はサッサと行って仕舞った。
「お店を出て、少し歩かない?」
「何処へ?」
朔郎は友美のドタキャンが効いたのか気が失せて来た。
「鴨川でも・・・。時間はいいんでしょう」
朔郎は断った。俺の口から言いたくはない。正幸から直に訊いてくれと。
10
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
私の隣は、心が見えない男の子
舟渡あさひ
青春
人の心を五感で感じ取れる少女、人見一透。
隣の席の男子は九十九くん。一透は彼の心が上手く読み取れない。
二人はこの春から、同じクラスの高校生。
一透は九十九くんの心の様子が気になって、彼の観察を始めることにしました。
きっと彼が、私の求める答えを持っている。そう信じて。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
貴妃エレーナ
無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」
後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。
「急に、どうされたのですか?」
「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」
「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」
そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。
どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。
けれど、もう安心してほしい。
私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。
だから…
「陛下…!大変です、内乱が…」
え…?
ーーーーーーーーーーーーー
ここは、どこ?
さっきまで内乱が…
「エレーナ?」
陛下…?
でも若いわ。
バッと自分の顔を触る。
するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。
懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる