下弦に冴える月

和之

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「本当に観光で愉しむ為に来たのならあるでしょうね。でも仕事の合間ですから。二、三日でまた荒れ狂う海に帰るんですから。冬のベーリング海は凄い波ですよ。ビルの三階の高さまで船が上下に揺れるんですよ」
 それを聞いて友美は不安そうに尋ねた。
「気分が悪くなりません?」
「操業中ですからそんな余裕はありませんよ。第一この海域に着くまで船酔いしていれば病院行きです」
「慣れるんですか?」
「慣れるんではなく慣らすんです。アリューシャンまでに。苦しみましたよ」
 最後の言葉は佐恵子を意識して強調した。佐恵子は黙って能面の様な顔で聞いていた。朔郎は気を取り直して友美を相手に話を続けた。
「なれたんですね」
 そう軽々しく云ってもらいたくないその反動で語気が強くなった。
「慣らすんです! でもそのままじゃ慣れません。吐いても吐いてもとにかくその都度食べるんです」
「気分が悪いのによく食べられますね、あたしならとても食欲が湧かなくて暫く寝込むしかないのに」
 お嬢さんですねと朔郎は笑った。
 釧路を出てから親しくなった漁船員が色々と世話を焼いてくれたお陰です。彼の両親は択捉島の出身でしてね。釧路を出て択捉の島影が見えて来ると彼はアリューシャン小唄を歌うんですよ。それも教えてもらいました。色丹島を歌ったものですが択捉島を見ると胸にジンと来る様でした。
「その船員に言われましたよ。それでも食べるしか生き残る道は無いと。吐いて暫くすれば食べられません。吐いた直後の気分が少し回復した時に食べるんです。また気分が悪くなって戻すのは分かり切っていても食べるしかないんです。だから船長はコックに『北村の為に常に食べるもんを用意しといたれ』って言ってくれたんです。これを繰り返していると次第に吐く間隔が延びてきてやっと躰が慣れてくるんです。操業前日に吐いたのが最後でした。この時は船長に『お前まだ吐いてるのか』と呆れていましたよ」
「良かったわね。でもどうしても食べられなければどうなるんです?」
「その内に胃液を吐いて、次には血を吐いて仕舞います。そうなれば終わりですよ」
 永平寺の回廊で会った時の彼女の温もりを感じて喋っていたが佐恵子の醒めた眼を見て急に話をやめた。
 友美はどうして肝心なところでやめたンですかと続きをせがんできた。
「あなたを前にしてこんな話をするのが馬鹿げてきたんでよ」
 彼は佐恵子に向かってハッキリと言った。
「どうしてお姉さんの前では嫌なんですか」
「人の価値観なんてある日、突然に百八十度変わりますからね、ボクはそれを眼の辺りにしている。そうでしょう」
 ーーとくにこの人はそうだ。この人の瞳は燃えるような正義と氷のような絶望を同時に照らし出す。そして、それがこの人の心の中には深い矛盾となって長く棲みついている。
 佐恵子は何が言いたいのかしらと云う顔して黙っていた。
 ーーこの人は次第に僕に傾き掛けて来ているはずだ。暖かくなり始めても、幾度かの寒の戻りを繰り返しながら春が来るように・・・。
「本当にあなたはかおりの為にあの山深い永平寺まで来たのですか」
「繰り返しますがかおりのためです」
「嘘です」
 朔郎は言葉に力が入って仕舞った。
「あなたは正幸がどういう人間かまだ解らないンですか、いや解り掛けて来たからこそ僕に会いに来たんだ」
「あの人はあなたの親友でしょう」
「親友とは言えないが。ある時までは友人だった」
「まだ根に持っているの。でもそれはあなたが悪いのよ。正幸はハッキリとあなたに裏切られたと云いました」
 あの山での出来事は二人だけの秘密にすると正幸が自ら申し出だった。朔郎は自分の耳を疑った。
「それは本当ですか。有美子さんに一度訊いて確かめるといい。本人に訊くのが一番の早道だが、あいつが白状するだろうか、まあ後は良心の問題だ」
 果たしてあいつが十七年も良心の呵責を引きずっているのか?
 窓の外が黄昏れているのに気付いた友美は慌てて腕時計を見た。裕次との待ち合わせ時間が迫っていると伝えた。
 またかと朔郎は思った。前もそうだった。佐恵子はどうしてそんな約束のある妹を連れて来るのか。
「あなたはどうして一人では来られないんです」
「そうよ、お姉さんはもう少し話していたら。話も込み入って来たみたいだし。じゃあね。じゃ北村さん」
 友美はサッサと行って仕舞った。
「お店を出て、少し歩かない?」
「何処へ?」
 朔郎は友美のドタキャンが効いたのか気が失せて来た。
「鴨川でも・・・。時間はいいんでしょう」
 朔郎は断った。俺の口から言いたくはない。正幸から直に訊いてくれと。
    
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