下弦に冴える月

和之

文字の大きさ
上 下
31 / 50

(31)

しおりを挟む
「もう無責任過ぎる。女が乳飲み子を抱えたまま蒸発するなんて余程のことじゃないの、あたしはそれを言ってるんです」
「おい、北村を責めるな。佐恵子さんは普段は穏やかでもいざとなれば世間体も無視して激情に走ってしまう人なんだから。そんな無茶なところがあるんだあの人は、まあ北村も似たり寄ったりだが・・・」
 狭山にしては珍しい物言いに朔郎はこの男への人柄を増幅させた。
 だからこの話は傍で大騒ぎしても何も変わらないからと狭山は沈静化に努めた。
 多恵もそれは納得したらしいが、北村のかおりちゃんに対する態度が余りにも他人事過ぎた。それが言い過ぎの原因だった。
「しかし多恵、お前以上に北村は腹の中での葛藤は凄い、それを黙して語らず、ペラペラ言って仕舞うより腹に収める方がつら過ぎるんだ」
 そう言って狭山は北村を見やった。朔郎はこの渦中に有っても話ここに有らずと頭の中は昔に飛んで行った。

       *   *    
「ねえ見て凄く感じの良い家ね」

 そう云えば十六歳にして「あなた」と云う曲でデビューした人が歌っていた家は多分こういう家だと二人の意見は一致した。佐恵子はその歌を口ずさみ終わると「こんな家いつ建ててくれるの」と言った。
 モダンな屋敷の前で微笑みながら言った佐恵子の顔が急に浮かんだ。
 あれは俺が二十歳(はたち)の時だったか、秋の終わりに近い寒い夜だった。ふたりが等持院へ散策してじゃれ合って歩いて居る時に感じの良い家が不意に現れた時だった。
「この辺りは良い家が多いなあ」
「そうね」
 彼女は羨ましそうに言った。
「どの家がいいんだ」
 大見得を切って言った。
「あの家が素敵!」
 彼女は目を輝かせて指差した。
「なーんだこんな家でいいのか」
 朔郎は笑っていたがそのうちに目許に漂う一抹の寂しさに、リカちゃん人形のようにそうよと佐恵子は愛くるしく応えていた。あの笑顔が堪らなくいじらしく可憐に見えた。
 あの時の佐恵子からは全身に広がる温もりを感じていた。俺はこの時に佐恵子と言う羊水に包まれていると感じた。それがある日に突然に破水して厳しい現状に放り出された。
 思えば不満が少しずつ蓄積され続けていたのか。その不満が今も解らない。それだけに彼女のこの行動が拭い切れない対人不信に陥らせて仕舞った。それ以後は友情と云うものを求めなかった。この崩れた生活の基盤が綾子との道行きを受け入れた。
      *         *                                          

「それでも北村、お前はかおりちゃんとの血の繋がりは一生付きまとうんだ」
 子供が出来ればふたりの愛情の半分は子供に注がれると云うが、あの状態では親子の情を求めるのは北村には酷だった。
 多恵はそれでも必死なって探し求めなかった北村を非情だと問い詰めていた。だが非常なのは佐恵子の方だとあの時も狭山は多恵には言って聴かせていた。そもそもこれは二回目の出来事だった。一回目は正幸と云う男のちょっかいが原因だったらしい。
「今の辞めた会社に来る前は佐恵子さんの友達の有美子さんがかなり説得したンだなあ」
「あの時はお互いにとことん話し合った」
「それで佐恵子さんが折れたんだなあ」
「だって彼女が全面的にやったことでこっちには全くの落ち度がない」
 彼は苦々しく言い放った。
「そうだなあ写真展の作品を作りに出掛けた留守中の出来事でしかも佐恵子さんの両親を納得させる為の写真展だったから北村にすれば寝耳に水の出来事だったなあ」
 だから二回目は全く有美子さんは関与出来ないほど急だったらしい。誰の目にも触れずに雲隠れしたのだから多恵の言う子供の事を考えていないのは当てはまらない。あの時は俺も相談を受けたが全ての意見を無視して、ただ帰ってくれるのを待った北村を責められなかった。
「だってあたしは最初の出来事は一切知らなかったんですから、それにしても朔郎さんは佐恵子さんのためでなくかおりちゃん為に行動すべきだったわよそこは間違ってるわよ」
「ウ~んそこは難しい所だなあ、まだ乳飲み子だ、子供に関してはやはり彼女に責任がある」
「じゃ子供のために我慢しろって言うのまだ人権が未熟な乳飲み子だからこそ双方がこの場合は朔郎さんが探しに行くべきなのよ一番身近な人の責任です。子供がいなければ話は別でしょうね。子供に関しては取り違えてる。佐恵子さんが意志の強い人なら目的をかおりちゃんに変えて引き戻す努力を、朔郎さんは捜す努力をすべきよ。その上で改めて二人で子供の将来を考えて最良の道を探す。どちらも無視するのは良くないわ。この時の答えを見つける為にも朔郎さんはかおりちゃんに会うべきでしょうどっちが正しかったか、同じ女性であり将来の母親として綾子さんはそれを確かめに行ったと思うわよ」
「だけどボクは綾子からかおりの事は会った事さえ何も聞いていないよ」
「そうでしょうね。朔郎さんに語れるほどのかおりちゃんのイメージを掴めてないから意見も相談も出来ないでいる綾子さんの身になってあげなけゃあ私はダメだと思う」
「要するに最初の危機は二人の機転で回避したが二度目はかおりちゃんがネックになったんじゃないか」
 狭山の解釈は間違っている言葉も知らない子がどうして俺と佐恵子との仲に割り込めるんだ。逆だ佐恵子はかおりの為にも自我を捨てて妥協点を探る努力をしないと ダメなのに一足飛びに消えて仕舞うなんて。間違っている彼女は気の動転があったとしても正しい判断をすべきだろう。
「それはお前にとっての正しい判断だろう。佐恵子さんには彼女なりに、しかし公正さを欠いたが本人には妥当と思える判断をした」
 狭山は推測の域のままに断定している。
「彼女はかおりちゃんを含めて判断したが北村は子供を無視して真理を探った」
「オイ無視はひどすぎる」
「じゃ少しでも考えたか」
 朔郎は絶句せずにはおれなかった。いったい我が子にこの時点でどれほどの感情を、いや一個の人格を捉えていたか答えは零だった。
 なのに非は佐恵子にあると言い切れるのかと。絆は佐恵子と共に乳飲み子のかおりにも等しく寄せるべきだと子育てと格闘した二人の共通の認識だった。
 心の基礎段階の子にこそ強い絆を持つ必要があった。この段階では子供はお前に百パーセントの信頼、絆を求めているのだ。しかし子供の発達と共にお前への支持率は下がり始めるだろう。何故なら相手が人格を持ち始めると客観的にお前を評価し始めるからだ。
 その時は自分を飾るか、ありのままをさらけ出すか、そこからはお前の勝手だが。この騒ぎの渦中では自立心零パーセントの子供を優先すべきところを完全に無視した。聞こえが悪いなら怠った。
 狭山は中々言い表せないあの時の判断の起点をまとめ上げて、それを重々承知の上でかおりちゃんに会ってやれと忠告した。   
 
    
    
    
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遥かなる遺言

和之
青春
ある資産家が孫娘に奇妙な遺言を残した。その相続の期限は祖父の四十九日まで。孫娘は遺言の真意を求めて祖父が初恋の地である樺太で祖父の源流を探す。

椿散る時

和之
歴史・時代
長州の女と新撰組隊士の恋に沖田の剣が決着をつける。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】カワイイ子猫のつくり方

龍野ゆうき
青春
子猫を助けようとして樹から落下。それだけでも災難なのに、あれ?気が付いたら私…猫になってる!?そんな自分(猫)に手を差し伸べてくれたのは天敵のアイツだった。 無愛想毒舌眼鏡男と獣化主人公の間に生まれる恋?ちょっぴりファンタジーなラブコメ。

私の隣は、心が見えない男の子

舟渡あさひ
青春
人の心を五感で感じ取れる少女、人見一透。 隣の席の男子は九十九くん。一透は彼の心が上手く読み取れない。 二人はこの春から、同じクラスの高校生。 一透は九十九くんの心の様子が気になって、彼の観察を始めることにしました。 きっと彼が、私の求める答えを持っている。そう信じて。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

イルカノスミカ

よん
青春
2014年、神奈川県立小田原東高二年の瀬戸入果は競泳バタフライの選手。 弱小水泳部ながらインターハイ出場を決めるも関東大会で傷めた水泳肩により現在はリハビリ中。 敬老の日の晩に、両親からダブル不倫の末に離婚という衝撃の宣告を受けた入果は行き場を失ってしまう。

処理中です...