下弦に冴える月

和之

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(16)第四章

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 正幸と一緒になってから考える事すら忘れかけていた。それが今は泉の様に「なぜなの」と湧いて来る。
 頬に当たる秋の風が益々過去を呼び起こして想い出を連れ戻しに来る。連れ戻された想い出が心を掻き回し始めるととても仕事にならない。
 狂った様に照りつける夏の太陽の下を黙々と歩き続ける二人の姿が脳裏に去来した。
 口下手なあの人らしいと初めて言葉らしい言葉を交わした大学受付での彼の姿が浮かんだ。すると今朝の憂鬱な心境がもう心の何処にも残っていなかった。それほどあの時の朔郎が懐かしかった。
 佐恵子は急に昔の友達に会いたくなった。仕事が終わりブイテックを閉めると時間は早いが有美子と約束した喫茶店『篝火』へ入った。
 この店は定年後の退職金で始めたマスターが一人でやっていた。表通りから少し外れた細い道に面しており中は広く無いが静かな店である。カウンターとテーブル席が三つで十人も入ればいっぱいになる。しかし今までいっぱいになったのを見た事も無かった。
 佐恵子は入り口に近いカウンター席に座りコーヒーを注文した。
「今日は特製のブレンドですよ。いい豆が入りましてね。さっき試しに飲んであなたの好みに合うと思い煎れました」
 マスターはそう言ってコーヒーを出した。
「あたしの好みが解るなんて、マスターとも長い付き合いになったのね」
「ええ、長いですよ」
 そう言いながらマスター一枚の写真を取り出した。
「これを貴方に貰ったのが十年以上も前でしたからね」
「まだこんな写真を残していたのですか」
「ええ、良い写真ですからね」
 それは朔郎が昔に撮った写真だった。
「同じ写真を伸ばした物を最近、画廊のオーナーから譲り受けましてね、またその人が今度は個展を開きそうだから前宣伝を兼ねて飾って欲しいと云われました」
 あの人が今度は自力で個展をやるらしい。
 マスターは早速奥から額に入った写真を取りだして店内に飾った。
 それは容易に人を寄せ付けぬ孤高の山の夕暮れの一コマだった。いつ頃の写真かしら、雪が僅かに残っているから初夏かしら。個展は作品を選ぶ前に立ち消えたからきっと大学時代の写真なんだわ。それにしてもこの写真を撮った後は暗がりの中どうして山から降りたのかしら。言葉さえ吸い込まれて何もない、誰もいないここで一晩夜を明かしたのかしら。後先を考えずにただこの瞬間を待って撮るなんてあたしにすれば狂気に近い。そこまで駆り立てた此の写真はいったいなんなの。
「ねえ、マスター、この写真どう思います」
 美しさより自然の畏怖を感じさせる。誰もそう思うのかしら?
「悲しいまでに洗練された風景ですよ。だから大事に残したい」
 そこには写真に対する冷ややかさや親しみよりも、ある種の距離を置いた夢を温める瞳が幽かに漂っていた。マスターは人生の峠を越えた仄かな笑いを見せた。
「此の人は今もお元気ですか」
 聴かれて佐恵子は今もあの人は写真を撮っているのかしらと自分に問うた。
「元気かしら? でも若くないからもうこんな写真は撮れないわね。あたしと同じ歳なの」
「それでも私の半分ぐらいの歳じゃないですか友人にはまだ穂高へ登る人もいますよ」
 と半分は大げさだがそう云ってマスターは笑った。
 そうか歳相応とは世間が決めるのでなく自分で決めて行けばいいんだ。
「あの写真を撮った人はどんな人なんですか?」
「寡黙な人です。ただ山や自然を語る時は熱っぽくて眼が輝いて来るんです」
「それで風景写真を撮ってらっしゃるのですか」
「ええ一人で行く時はそれが目的ですけれど友達と行く時はカメラは持って行かないんです」
「友人の場合は登ると云う目的に限定されるのですね」
 マスターに言われるとあの頃は正幸と一緒に登るのが楽しみだったのかも知れない。
 あの最後の暑い夏にも二人は信州へ行った。そんな好きな山でなぜあんな事があったのだろう。
 佐恵子の考える時間を遮る様に有美子はやって来た。唐突過ぎて気を悪くしていると思ったが有美子は以外にのんびりと店に現れ、コーヒーを頼み佐恵子の隣に座った。
「急に何の用なの」
「別に用と云うほどの用でもないの、ただ息抜きがしたかったの」
 佐恵子は食器棚の遙か向こうを見ていた。マスターは有美子の前にコーヒーを置くと席を外す様に流しに移動した。
「ただの息抜きじゃないわね。正幸さんのことね」
「そう勝手に決めつけないでよ」
「でもそうなんでしょう」
 はっきり違うとは言い切れないのは、やはり心のどこかに正幸に対する不信感が芽生えているからだ。
 七年目の浮気じゃないけれど、倦怠期じゃないの。佐恵子の連れ子が一人で、正幸との子供がいない。だからまともに夫婦が向かい合う事が多い。上手く行ってる時はいいけれど一つでも噛み合わなくなると脆(もろ)く成ると有美子は言った。

 
    
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