下弦に冴える月

和之

文字の大きさ
上 下
13 / 50

(13)第三章

しおりを挟む


 朔郎は早めにアパートを出て梅田周辺をあてもなく歩いた。この辺りは相変わらず人の往来が多い。通勤の時はそうは思わなかったがこうして当てもなく歩くとみんな機械の様にもの凄いスピードで歩いていた。動く歩道でもエスカレーターでも止まると云う事を知らない。二ヶ月で俺はもう此の流れに付いて行けなくなってしまった。
 朔郎は地下鉄で心斎橋へゆき、綾子との待ち合わせ場所である地下街のセルフサービスの喫茶店に入った。注文したコーヒーを持って席を探していると居合わせた狭山に声を掛けられた。
「何だ、最近よく会うな」
 狭山は笑いながら席を空けた。朔郎は時計を見て、やばいと思いながらも席に着いた。
「多恵がお前の事を心配してるんだ」
 ウ~ンと生返事をした。
「佐恵子さんのことよりまず仕事の事だ、次はかおりちゃんの事とじゃないのか、此の先大変じゃないのか」
 そうか狭山に言われて気が付いた。俺には娘が居たんだ。なぜこの前に京都へ行った時に娘を捜して名乗らなかったんだ。あのブティックのどこかに居たかも知れない。いやあれでいいんだ。俺も娘もこれ以上重い鎖を曳きずる必要はないんだ。
「まあ、お前には親の資格はないが、それでも親には違いないんだ、そう思えばどんな仕事でも出来ると思うが・・・」
「親か・・・」   
 朔郎は視線を暫く宙に漂わせてからもうすぐここに綾子が来ると言った。
  以前からあの娘(こ)は朔郎に愛嬌を振る舞いていた。朔郎はためらいと迷いの優柔不断の中で綾子を見ているだけで歳月を送った。
 やはり心の片隅にはまだ佐恵子が無意識の中に残っていたのだろう。佐恵子の生活がはっきり解った今は一気に心のつかえが流れ出た。
 彼は二ヶ月前の送別会の後からやけに急接近していた。
「そうか。しかしそれとかおりちゃんは別だ。この縁は死ぬまで切れないぞ」
 狭山は「娘には曖昧な態度を取るな」と真剣な眼差しを北村に向けた。だがその眼はすぐに崩れた。狭山の視線の彼方に綾子がいた。
「堀川が来た」
 狭山は綾子を顎で示した。朔郎も見た。
  綾子は真っ直ぐに来て狭山に挨拶して座った。
  狭山は綾子と北村を交互に見比べた。
「そう云うことか。じゃあ俺は先に帰る」
 綾子は狭山の後ろ姿を見送って何を話したが尋ねた。
「別に大したことじゃないよ」
 朔郎はいつもの調子で答えた。
 いつもの綾子なら「また」と云ってムッとするところだが、今日は軽く受け流すとすぐに求職の話になった。
「人に使われるのが嫌なら独立しかないわね」
 綾子はかっだるく他人事のようにさらりと流した。
「だけど使われるのは嫌だけど使うのも嫌なんだけど、どうしたらいいだろう」
 こん度は呆れ果てて勝手にしたらと云う目付きになった。すぐに何かにひらめいたらしい。
「北村さんって風景写真を撮っているんでしょう、それで個展開けないかしら?」
 朔郎はドキッとした。随分昔に佐恵子が同じ事を言ったからだ。どうして女は打算的なんだろう。
「あれは芸術作品で非公開作品だ」
「そんなに気取って結局自己満足の域を出ないのなら没後うん十年記念で発掘されてそれで後悔されるしかないのかしら」
 此の女は何処まで冗談で何処から本気なんだろうそんな表情だった。
「昔、一度だけ個展を開く計画が有ったんだけど」
「だけどどうしたの」
「正幸って云う男のお陰でそれどころじゃなくなったんだ」
「その人が計画をぶっ壊したの?」
「彼が壊したのは個展でなく俺の人生そのものだからさ」
「その人は今はどうしてるの?」
「さあ解らんし、知りたくもない」
「あなたの過去など知りたくもないか、何か歌の文句ね」
「そんな所だ」
 朔郎は話を止めて綾子の顔を覗き込んでどうして続きを聴きたくないのか尋ねた 。
「顔に聴かないでくれって、・・・と書いてあるから言いたくないんでしょう」
 無気力なのか思いやりが有るのか解らない女だ。佐恵子なら花も嵐も踏み越えてゆく。俺は作品以外は何も考えなくて付いて行けば良かったが。ここは自分でやるしかないか。
「今の話で考えたんだけど」
「何を?」
「個展を開くことにした」
「何処で?」
「京都で俺の作品の写真展を拓く事にした」
「大阪じゃダメなの」
「最初の計画通りやりたいんだ」
「昔に幻で終わった計画を実現したいのね」
 仕事も無く退職金と失業保険だけで流浪の生活をする朔郎に一筋の光明を与えるべく綾子は推奨した。
 朔郎は思いきり穏かに頷いた。その顔で綾子は仕事はともかくやっとこの人も前向きになってくれたと思った。
  外へ出ると夕陽はすでに落ちていて足下は暗く、九月半ばの気候は過ごしやすくなっていた。昼間あれほど暑くても陽が落ちると心地良い風が頬を射してゆく。季節の節目を迎えようとしていた。 
「やっと涼しくなったわねえ。これであの暑さから解放されたのに春のように節分とかお水取りとかの行事がどうして夏の暑さから解放される時にはないんでしょうね」  
 ひと息付くのがやっとで、とてもそれを祝う気分になれない、そこが春とは違う雰囲気だった。レースに例えるなら息も絶え絶えにゴールする秋分と颯爽とスタートする春分の違いだろうか。旅立ちは祝うが到着はこっそりと疲れた躰を癒やすだけだ。
「寒さから解放されるときは命の芽吹きを感じられるからさ。眠り付いた枯れ野から花や葉が咲き出すだろう」  
 綾子にそう云いながら俺に生命の息吹きが有っただろうか。強いて思うなら佐恵子との恋か。芽吹く前に散った恋が、あれが息吹きと言えるのだろうか。もうそんな時代は過ぎて付録の人生しか残ってないのか。そんな人生を全うしなければならないのか。今度の個展がその集大成になるかも知れない。


    
    
    
    
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遥かなる遺言

和之
青春
ある資産家が孫娘に奇妙な遺言を残した。その相続の期限は祖父の四十九日まで。孫娘は遺言の真意を求めて祖父が初恋の地である樺太で祖父の源流を探す。

椿散る時

和之
歴史・時代
長州の女と新撰組隊士の恋に沖田の剣が決着をつける。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】カワイイ子猫のつくり方

龍野ゆうき
青春
子猫を助けようとして樹から落下。それだけでも災難なのに、あれ?気が付いたら私…猫になってる!?そんな自分(猫)に手を差し伸べてくれたのは天敵のアイツだった。 無愛想毒舌眼鏡男と獣化主人公の間に生まれる恋?ちょっぴりファンタジーなラブコメ。

私の隣は、心が見えない男の子

舟渡あさひ
青春
人の心を五感で感じ取れる少女、人見一透。 隣の席の男子は九十九くん。一透は彼の心が上手く読み取れない。 二人はこの春から、同じクラスの高校生。 一透は九十九くんの心の様子が気になって、彼の観察を始めることにしました。 きっと彼が、私の求める答えを持っている。そう信じて。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

イルカノスミカ

よん
青春
2014年、神奈川県立小田原東高二年の瀬戸入果は競泳バタフライの選手。 弱小水泳部ながらインターハイ出場を決めるも関東大会で傷めた水泳肩により現在はリハビリ中。 敬老の日の晩に、両親からダブル不倫の末に離婚という衝撃の宣告を受けた入果は行き場を失ってしまう。

処理中です...