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恋なんてふんわりしたものが似合わない私

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 夢の中で私は、綺麗な色の丸いお菓子をつまんでいる。
 夢の世界は初めて目にするものでいっぱい。
 名前も知らない道具を自由に使いこなせるのは、私が見ている夢の世界のご都合主義。

 自分の姿やテーブルの向こうにいた人との会話の内容は、夢から醒めた瞬間からコーヒーカップに入れた角砂糖みたいに溶けてしまう。
 私に残されるのは頬張っていたお菓子のリアルな味わいと食感だけ。

(ああ、一度でいい。夢の世界にしかない食べ物を現実でも再現してみたい)

 口の中に留まる優しい甘さに浸る間もなく、私は自分の世界へ送り返されてしまう。





 ディアソーという名は、彼女の両親がたくさんの候補の中から選び抜いたものである。
 花壇のどこにあっても、塔のように高く伸びて涼やかに咲く夏の花ディアソリウムから派生した名をもらった伯爵家の一人娘は、すくすくと縦に伸び健康に育つ。
 
 体術や武芸の指導者が驚くほどの身体能力。どんな状況にも怯まない胆力。
 それらは祖先から代々受け継いできたレストリア家の特性と本人の資質や根気強い鍛錬が合わさった結果である。

 妻となる相手に温室育ちの花のような繊細さや手入れされた美しさを求める貴族にとって、ディアソーは住む世界の異なる女性にしか見えていても仕方なかった。


 自分が好む淡い色ではなく、信頼する近侍の意見を尊重して選んだ濃紺に白のレースを配したドレスは、流行を程よく取り入れたデザインでディアソーの容姿を底上げしてくれた。
 貴族の子女には幼い頃から婚約者が決まっている場合が多い。
 ディアソーにもそんな話がなかったわけでもないが、一人娘を嫁に出す未来を早くから想像したくなかった父はやってくる縁談に難色を示してきた。
 その間に成長した愛娘は、勉学に励むと同時に体術や槍術の鍛錬にも時間を割いた。
 どこかの武術大会に出れば良い成績が残せるだろう。
 滅多に人を褒めない師範からそう保証された彼女の実力が世間に広まったのは、学友を襲おうとした誘拐犯グループを素手で倒した時だった。

 護衛要らずの闘竜女。

 何の訓練も受けていない犯罪者を撃退したくらいで、大袈裟だと苦笑していたディアソーだが、腕試しをしたいと急に襲いかかってきた男にうっかり本気で応戦したところ、相手を咬み殺す地獄の番犬だと話が大きく膨らんでしまった。

 そのような評判を聞いても妻に迎えたいと望む豪胆な男はまずいない。
 生まれてくる子に強さを期待しての縁談や条件付きの縁談が時折あるというのが現状だが、両親は周りが心配するほど悲観していなかった。
 
 相手が貴族でなくても構わない。真の愛情を捧げられる人と巡り合える時間が増えたのだから、喜ばしいよ。
 
 今でも仲が良く、お互いを支え合う夫婦には、家柄だけで決まる婚姻を娘に押し付ける気持ちはまったくない。
『まあ、でもこれも何かの縁かもしれないから、嫌でなければ顔合わせをしてみるのも悪くはないね』
 事業展開だけでなく、異国の文学の翻訳も手がけている多彩な父は、ディアソーに可能性の芽を摘まずにいて欲しいと言い続けてきた。
 だから、少々気が乗らなくても自分に興味を持っているらしい相手とは会話してみることにしたのだが、今日約束していた相手は最悪だった。

「ごめんなさい。ドレスを着たのが私じゃなかったら、きっと何度も褒めてもらえたのに」
 白のレースに指を滑らせながら、ディアソーはため息をつく。
 自分だけならともかく、両親や支度を手伝ってくれた人間まで馬鹿にした男に対して苛立つなと言う方がおかしい。

 運ばれてきた料理、テーブルに飾られた花にさえ文句をつけていた男は、足を開いてもらっても子を作る行為が出来そうにないとディアソーに言い放った。
 自分より頭一つ半背が高く、小鳥だ薔薇だと愛でられる可憐さを持ち合わせていない女性だからといって、貶して笑う権利など誰にもない。
 田舎風のヘアスタイルだとか、老女でも着ないドレスだとか、言いたいことだけぶつけてきた相手には反応するだけ馬鹿を見る。
 誰かを傷つけてスッキリしたい時期だったのかもしれない。鼻息荒く、ディアソーの欠点を言い尽くした男は意気揚々と帰っていった。

『ロマンスや冒険の可能性は日常に転がっているよ』
 父の言葉はいつか真実になるのかもしれないけれど、今日でないことは明らかだった。
 樹々が映り込む池にしゃがんだ自分の姿が揺れている。

「そもそも、女の子を闘竜に例えるなんておかしいでしょ」
 プラチナブロンドの髪をまとめていた髪飾りを引き抜き、くるくると指で回しながらディアソーは目を伏せる。
「年齢を重ねた経験あるご婦人に敬意を持ってないとこもダメダメだったし、人を見る目が育まれてありがたいことだわ」
 不満を吐き出していても、目の縁に熱いものが集まっていく。
 言いたいように言われても耐えなければ、家の評判だって悪くなる。
「私だって、選ぶ権利……」
 婚約に漕ぎ着けたいという意図はなかった。それでも今日の装いと謙虚な女性を演じた自分は、普段よりずっと可愛らしく見えたはずだ。

 サクッとしているのに口の中で溶ける独特の食感と軽やかな甘さ。
 夢の中の名前も知らないお菓子は、ディアソーが密かに憧れるふわふわした可愛らしさの塊だった。
 淡くて優しい色合いは似合わなくても、幼い頃から大好きで惹かれてきた。
 胸が締めつけられるような恋愛小説だって、好きなもののトップ3にいつも入っている。

 ディアソリウムは美しい花だ。けれど、ディアソーがなりたい春の鞠花ピアモとは違う。
 文句を言うために縁談を申し込んできた男のためにいつまでもくよくよしていても仕方ない。
 深呼吸をして立ち上がった彼女の視界で、薄紅色の小さな甲虫が飛び回る。
 虫が苦手なわけではないけれど、刺激すると洗濯では取れない体液を噴出するので、近づきたくない虫だった。
 下手に動くとレースの上に着地されるかもしれない。
 止まり木代わりに持っていた留め具を差し出すとアカツキ虫はそこに落ち着いた。

「我が初恋を識った虫よ」

 父が趣味で翻訳した古い詩集の冒頭を読み上げたディアソーに、若い男の声が続く。

「光り輝く明日にも、この苦しみが消えぬなら、いっそ空へと持ち去ってはくれないか」

 父が翻訳した詩集は出版されてはいない。父と異なる表現をした詩集がどこかで出回っているなら読み比べたい。純粋な興味からディアソーは問いかける。

「グラウェインの翻訳された詩集をお持ちなんですか?」

 眩い金の髪に、赤や銀の長い付け髪をつけた青年は透き通った翠の瞳をディアソーに向ける。
 今日会った男は見た目が18点だと酷評した近侍のマイアから高得点を奪えそうな容姿をしているが、愛想のなさと眉間によった縦皺が減点要素である。

「うちの書庫に直筆の本があった」

 自分で翻訳したと言う申告はなかったが、彼には原書が読めるのかもしれない。
 もう少し態度が柔和なら、父と引き合わせてあげたいものだと考えていると近づいてきた彼がじっとしているアカツキ虫を見て微笑した。

「それは連れて帰るのか?」
「あの、これはドレスを汚さないための作戦であって、とらえるための仕掛けではありません」

 顔合わせをした相手ほど身長差はないが、ディアソーの肩の位置は彼より高い。
ヒールが低めのものを今日も選んでいるので、脱いでも視線の高低差は生まれるだろう。

「恋の歌に詠まれることが多い虫だ。その止まり木にはきっと加護が宿るだろう」
「……そうだったら、素敵ですね」

 会話が終わるまでいてくれるつもりなのか、アカツキ虫は飛び立つ様子がなかった。

「先程、会っていた男との縁談はまとまらなかったのか?」
「はい。でも、いつものことなので」

 淡々と答えたディアソーが指で支えていた留め具の飾り部分に、男が指を添える。

「俺は今日という日まで、君の存在を知らなかった。だから、女性の真価がわからない間抜けどもに遅れをとってしまったな。君の魅力が彼らに伝わなかったのは、俺の順番を時が待ってくれたからだと確信している」

 詩的な表現を熱のこもった声音で告げられて、ディアソーは求愛の擬似体験に酔いそうになる。

「今のは、どこの国の詩人の作品なんでしょう? 父がどんな風に訳すか、それも聞いてみたいので教えていただけませんか?」
「……俺の即興詩だ。君は俺の求愛をうまくかわしたつもりなのか?」
「きゅう、あい?」
「そうだ。俺はこの場で恋に落ちた。君に心を捧げるつもりだ」

 真剣な眼差しに、ディアソーの思考は停止する。
 今まで、一度だって彼女に恋を囁いた相手はいなかった。

「……わ、私の悪評ご存知ないんですか?」
「君は稀代の悪女には見えないし、俺に群がって利権を得ようとする輩とは違うようだが?」
「あの、でも背だって高いし、手足も大きいし、それなりに強かったりするんですよ?」
「それがなんだ? それは君の美点だろう?」

 ぱちぱちと胸の中で何かが爆ぜる感覚に、ディアソーは困惑する。
 どこの誰かもしれない相手ではあるけれど、初めて熱烈に口説かれているのだと気づいた瞬間、脳内が真っ白になった。

 そうして、意識を失い地面に倒れ伏すはずだった身体を誰が運んでくれたか、彼女が知る術はなかった。


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