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第三章 自由ナ蟻
第37話 姫夜村
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リンドウは溜息をひとつ零すと、コーヒーカップを持ち上げ、一口嚥下した。わずかに酸い苦みが、喉の奥と鼻孔を豊かに刺激する。
「おいしい」
「ありがとうございます」
畔柳が微笑みを返しながら、カウンター越しにリンドウの手前に立つ。
この男とも、いつの間にやら随分と付き合いが古くなったものだと、リンドウは小首を傾げた。しゃらりと簪が揺れる。
「やっぱり、ちょっと不思議な感じがしますね」
リンドウの言葉に、「おや」と畔柳が片眉を持ち上げた。
「不思議、とは?」
「松岡さんがお店にいないというのが、ね」
「ああ」
合点がいったとばかりに、畔柳は苦笑した。
「どうにも、リンドウさんの前では、私達、ニコイチになりがちですからね」
畔柳と松岡――彼等二人とリンドウが関わり合いになるのは、自然、斑の「仕舞い」仕事に纏わる場合に限られる。個人的な交流が皆無というわけではないが、飽くまでも彼等は、斑の協力者なのだ。
リンドウは、ちらと奥の座敷へ視線を向けた。
リンドウがこの喫茶店、『帽子屋』を訪れる時、松岡は決まって、このカウンター近くの小上がりに陣取り、胡座を掻いて紅茶をすすっている。
彼の身形は常に一風変わっている。それは彼が世界各地を飛び回り、現地の仕舞い仕事をして回る折に、その土地ごとの装束を取り入れ続けた結果なのだという。現地の衣服なり装飾品なりを共に身に着けることで、その文化に自身を一部なじませる。そうすることで、遺された因果の事共の解像度を上げるのだそうだ。
松岡は、言動自体には多少エキセントリックな部分があるのだが、本質的には周囲に合わせてゆくタイプだ。
対して――とリンドウは、カップを口元に運びながら目の前の店主をちらと見る。
この店主が存外曲者なのだ。
にこにこと聞き上手に徹しながら、その実腹の内では何を考えているのか知れない。何故なら、彼が関わると知らぬ間に状況が歪むのだ。正確には、畔柳の望む方向に誘導されてしまうのである。
手練も手管も優れている。
しかし我を曲げないという意味では誰よりも始末に負えない。
故に、師匠連の間で話し合いがもたれ、彼の師匠に預けられたというのがリンドウの聞き及んでいる彼の現在に至るまでの経緯だ。
畔柳が大人しく従うのは、師匠一人だけ。
その理由も――まあ承知している。
と、がらんがらん、と派手な音がした。
入り口に目を向ける。視線の先には、二人の来客の姿があった。男女の連れである。
リンドウはやにわに立ち上がり、先に入店した女性へ向けて頭を下げる。するとその女性は「ああ」と華やかに破顔した。
「こんにちは」
低く落ち着いた声の女性は、リンドウからすれば母親ほど年上に見えた。中肉中背でゆるやかなウェーブの黒髪を根本で無造作に一本簪でまとめている。
彼女がにこり笑うと、口の端に年齢相応の皺がよった。それが何故か、周囲に安堵を及ぼす。
「貴女が、斑の竜胆さんね。閼伽井達から話は聞いています。姫夜村です」
名乗ると、こくり小首を左に傾げてリンドウの背後へ視線を向けた。そしてまた「ふふ」と笑う。
「うん、よく似あってらっしゃる」
言われて、リンドウは自らの後頭部へと手をやった。しゃらり、黒い小玉の連なる簪がそこにある。
「あの、選別とお仕立てをありがとうございました」
「いいえ、それが私のお仕事ですからね。お役に立てて良かったわ」
「あの、それから伏見の件も」
「ああ、あれは伯王自らの依頼なのだから、貴女にそんな風に気を使っていただかなくてもよいのよ?」
「でも籠までつけていただきましたから」
「美しいものは美しく整えてあげたい。私がそうしたいから、そうしたというだけのことなのよ」
細められた目に、深い光が湛えられる。
「斑の仕事は人の世の影の集約。その仕舞いをつけるのも、また人であるべき。――貴女一人に背負わせてよしとするものは、わたしたちの身内には、いないのよ。さ、座ってすわって。気なんか使わないでちょうだいな、リンドウさん」
「――ありがとうございます」
リンドウは、頭を垂れてから、再びカウンター席に座した。
幼い日、誰とも馴染めぬと泣いた日々はもう遠い。こうして支え助けてくれる存在が確かにある。それが、コーヒーの温度よりもリンドウの腹の内を温めた。
と、入り口の側のポールハンガーにコートを掛け終えたばかりの男がリンドウの方へ視線を向けた。脱帽した下から姿を現したのは青い髪。松岡だ。
「来てたか、リンドウ氏」
「はい、お邪魔してます」
松岡はてくてくとこちらへ向いて歩いてき、リンドウたちの背後に立った。
「僕の店ではないのだから、そんなように断ってくれなくともよいのだが」
真顔で言う松岡に、「こら」と女性が頭を小突いた。まるきり母親と子どものやり取りで、リンドウは思わず苦笑する。
今日の松岡の衣装は、白を基調としたルパシカだ。ズボンは黒。左手首には皮製のバングルを巻いている。
カウンターの上でかたりと音がした。見れば畔柳が早々に新しいカップをひとつ乗せている。中には紅茶。松岡用だ。松岡は断ることなくカップに手を伸ばし、行儀悪くも立ったまま把手をつまみ一口すすった。
「冷えたからこれぐらい熱いのがありがたい」
「素直においしいと言いなさい、貴方は」
すでに畔柳は視線を手元の流しに向けている。視線を合わせもしないのが、いかにも彼等らしい。
と、松岡が視線を上げた。彼の視たのはリンドウの隣席に座した連れの女性である。
「それにしても師匠、随分と肌艶がよくなったな」
松岡の言葉に姫夜村は肩をすくめて見せる。
「なぁに? 近くで見ないと気付けなかったの? そういうことは会ってすぐに言ってほしいもんだわね。城崎のお湯は良かったわよー? あなたも今度行ったら?」
「用があればな」
「何言ってんの。用なんか作っちゃうのが仕事のできる男ってものよ、冬青」
「やれやれ。まったくこの女性は――仕事にかこつけて物見遊山ですか」
「ええ?」
姫夜村は眉間にしわをよせて、冷たい物言いをした者の方へ顔を向けた。松岡ではなく畔柳のほうだ。見ればその眼もどこかしら冷たい。しかし、直後かたりと姫夜村の眼の前に差し出されたカフェオレのカップからは丁寧な湯気と芳しい香りが立ち昇っている。姫夜村は眉間に皺を寄せてその手を伸ばすと畔柳の鼻をぎゅっとつまんだ。
「いった! 師匠痛いですって!」
「全くこの子は偉そうになったこと! コーヒーは美味しく入れてくれるのに私への態度は坊やのころのまんまね!」
畔柳もまた眉間に皺をよせると、その右手を伸ばし姫夜村の頬をつねり引いた。しかし、間近の真横からリンドウが見ただけでも、大して痛くはないやり方だと分かる。
畔柳は、平素は見せない子供じみた顔で姫夜村を睨んでいた。
「まったく、いやらしい。今度はどこの男と逢引きだったのやら」
「いやらしいって何よ! だから仕事でコダマノツラネを引き取って来ただけだって言ってんでしょーが! 馬鹿なの⁉ 馬鹿の子なのあんたって子は⁉」
「痛いってば師匠! 鼻もげるって!」
「あんた絶対私のこと馬鹿にしてるでしょ⁉ どうせ彼氏なんかこの先できっこないわよ!」
「あんたはもう希叶さんと義仁さんのことだけ考えてりゃいいんですよお母さん!」
と言いながら、どこかしら嬉しそうな畔柳の思慕に気付かないあたり、この師匠は鈍いし、弟子は弟子で素直でないなとリンドウは思った。口元にコーヒーを運ぶ。
と、機を狙ったかの如く横からぼそりと松岡がつぶやいた。
「鈍とツンデレか」
リンドウが盛大に噴き出したのは言うまでもない。
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