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第三章 自由ナ蟻
第34話 「伊勢」、玄冥について推測する
しおりを挟む城崎の夜には、人の吐息が滲んでいる。
湯気のうわりとした気配、人のさざめき、浮足立った記憶――この城崎という歴史の古い湯場に根付いた、人間の積み重ねてきた記録が、溜息となって残っているのだ。
「そういうものを感じるね。なんとなくだけど」
と「伊勢」の長は歩みを止める事なく呟く。そして、隣に立ち並ぶ存在から何かを言い返される前に「僕は気に入っているよ」と続けた。
黒いスーツをまとった「伊勢」の隣には、異風の男が一人ある。何れの時代から超越してきたのかと、思わず口からついて出んばかりの甲冑姿に、青みを帯びた白髪黒肌の美丈夫だ。
両者は人型をしているが、何れも人ではない。
一方は黄泉の国より降り来りし神域の民。
そして一方は、大陸よりもたらされた四象が一、玄武神。
二つの周りに人の気配はない。玄武こと玄冥が黒々とした闇を垂れこめて遮断しているのである。
そも、人に神の姿形を視認する事はできない。これはまた鬼であっても同様である。
鬼神である藤堂にすら、玄冥の発するものは見えず、また聞こえない。
而して、「伊勢」にはそれができるという事だ。
県道を直進し続ければ、やがて前方に山が見えてくる。末代山。有するは温泉寺。
「僕はね、昔から色々と推測する事がとても好きだったんだよね」
のんびりゆったり進みながら、「伊勢」の長は玄冥に言う。
橙光は、少しずつその数を減らしてゆく。闇が其処彼処で深くなる。その闇の内にて蠢く何かがあるが、二つの存在に怯えて隠れたまま出て来ない。
「伊勢」は――愉快そうな声を出す。
「玄冥、君という神は、亀と蛇を象徴として描かれるだろう?」
(然り)
「黄泉の国では君ら四象にあまり馴染みがなくてね。こちらに来てから存在を知ったのだけど、僕は大陸の神話を聞いて大層驚いたんだ。まあ、知る事になった運命のようなものも感じたりしたけれどね」
独り言つ「伊勢」に、玄冥は(大陸の神話?)と問う。
「そう。龍伯国の巨人の伝説だ。龍伯の国民は長命な巨人である。この巨人が東海の海に浮かぶ五座の仙山を下から支える鼈を吊り上げて甲羅を焼き卜占をしたという。これつまり亀の事だよね。結果、五座の内の二座――岱輿と員嶠は北の海に流され、そこに暮らす神仙聖人ごと失われてしまった。これが天帝の怒りにふれ、巨人は小さくなったのだという。まあ神性の喪失だろうね」
すらすらと諳んじる「伊勢」は心持ち愉快そうだ。
「残り三座――瀛洲、蓬莱、方丈のうち、瀛洲は日本、蓬莱は台湾に比定されるという。方丈が何れかに比定されるものなのかどうか、僕は知らない。玄冥、君、知っていたら教えてくれないかい? ずっと気になっているんだ」
玄冥は応えなかった。「伊勢」も応えが返るものとは思っていなかったに違いない。「ふふ」と目を細めて笑った。
「さて、もう一方の蛇だ。蛇は龍とほぼ同一視されているね。インドで生まれた蛇神は水神であり、この蛇信仰は中国に至って龍となった。これが日本にも持ち込まれ定着した。そして、龍は龍として生まれるのではないんだね。蛟竜が五百年の歳月を経てようやくなるのが龍だ。蛟竜は水生である虺、もしくはウミヘビの事を指す。日本においては、出雲の神有月に浜辺に打ち上げられるウミヘビが神の先導役たる龍蛇様として祀られる。あそこに対しては本当に忌避感が募るよ」
ふわりと生温い風が、玄冥の鼻先を掠めた。
「伊勢」は反応もまたず続ける。
「さて、大陸の民話に戻ろう。この蛟竜、もしくは虺だが、これは池に住まう。そして、池の内の魚が三千六百に増えると、それらを連れて飛び立ってしまうのだという。これを抑えるために池に解き放たれるのが鼈――つまり亀だ。蛟竜が増えた魚を連れて飛び去る事を、鼈が封じる」
ひたり、どこかで湿った音がした。
「玄冥。君は五行においては水を象徴する。自らの蛇龍の性質を、霊亀としての性質で封じているという事だ。これはね、僕には」
ぴちょん、と湯の花がどこかにぶつかったような、そんな。
「――不老長寿と子孫繁栄。その両方を併せ持つものと読めたんだ」
玄冥はじっと静かに虚空を睨む。「伊勢」の言葉に神たる己が気圧されているのを認めざるを得なかった。
「伊勢」の歩みがひたりと止まる。
その視線が、ひた、と玄冥のそれと結ばれる。
逃れるな、と。
「不老長寿は不死であり、これは繁殖の不用を意味する。対して子孫繁栄は個体の滅びと同義だ。先の命が滅び、そして次の命が受け継ぐ。僕はね、数多の魚を連れて旅立つ蛟竜の事を、生命の伝播になぞらえて見ているんだ。棲家を余所に移すため旅立つとは、言うなれば開拓者精神の事だろう? これが子孫繁栄を意味するのだとしたら、それを鼈という不老不死が封じる図式となっているんだよ。広がるな、増えるな、旅立つな、とね。――君はね、この両儀性を持っているんだ」
(それは――)
「いいかい玄冥。この相反する両儀を君が維持できたのは、一つの神でありながら、蛇と亀に分割されていたからだ。これは神と人とを分ける物とは何かという事の説明だからね。同一のままではいられないんだよ。――この視点から紐解けば、異地中の神話の中に類例を見出すのも簡単だ。『リグ・ヴェーダ』に登場する双子のヤマとヤミーのエピソードは兄妹婚の禁忌として有名だが、人類最初の死者となったヤマと人類の始祖である兄のヴィヴァスヴァット・マヌは当初対の存在だった。一方――」
「伊勢」が一歩、玄冥に近付いた。
「日本においては、木花之佐久夜姫と石長姫がそれにあたるね。あの姉妹もまた、繁栄と長寿の両儀であり、これを天孫瓊瓊杵によって分断されたのだから」
ざわり、と手触りの悪い風が、玄冥と「伊勢」の髪を巻き上げ通り過ぎて行った。
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