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第三章 自由ナ蟻
第30話 桑名の翁
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京都から桑名へ向かう車中、杉内は自らステアリングを握っていた。
エアコンの効きの悪い、座り心地も悪い英国車だが、若い頃に形を気に入ってから大枚叩いて修理しつつここまで相棒として乗りこなしてきている。立派な古女房だ。
人間の女房の方は不在である。
否、生きてはいるのだ。児童書専門の書店を勤め上げて、定年退職を迎えた六十の誕生日の朝。二人で食卓を囲んでいると、正美は突然「マチュピチュが見たい」と宣ったのである。
その時のアレは、とてもとても真っすぐな瞳をしていた。
そうして国を飛び出してから早三年、たまに手紙を送ってくるので息災である事は伝わるのだが、全くいい笑顔の写真ばかりを同封してくるので杉内は笑ってしまっている。
自分も随分と好き勝手をしてきたほうだから、妻が自由にやっているのは喜ばしかった。娘も嫁いで久しくすっかり年を取ったし、孫も来年には大学受験を控えている。順風満帆の人生行路と言って差支えはなさそうだ。
――多少、普通とは毛色が異なるだろうが。
追い越し車線を大型トラックが高速で追い抜いて行く。杉内の愛車など風圧で飛ばされんばかりに揺れた。明らかな速度違反に行儀悪く舌打ちをするが、すぐに視線を自身の前方に向け直す。高速道路の運転は一瞬の油断が命取りになるからだ。しかし不快は不快で留まっている。「馬鹿野郎が」と乱暴な口調で吐き捨て気を取り直した。
杉内は、例の歌舞伎役者のような表情を浮かべて、口をひん曲げつつ、前方を睨む眼をかっぴらいている。中央分離帯の壁があるからいいようなものの、対向車線から見たら視線を奪われかねない、中々の面相だ。
コートとニット帽は無造作に後部座席に放り投げてあった。周りに人の目がある時であれば身綺麗にも振舞うが、自分一人となれば、まあ大概ぞんざいにする。黒革の小型トランクだけは助手席に置いていた。中に入れてあるのは話題の最新ミステリ小説だった。
杉内の愛車が走るのは名神高速である。これに乗れば京都・桑名間なぞ一時間半程度で到着できる。無論混んでいなければの話だが。
向かうは六華苑である。
英国人、ジョサイア・コンドルの建築した、水色の美しい洋館と和館とをくっつけた由緒正しい国の重要文化財である。雪の美称を当てたのかと思いきや、実際は建築を依頼した諸戸清六の名の「六」と、近在する九華公園の「華」をとって名付けられたというものだ。
桑名の名の由来もまた様々あれど、その異称として江戸期に用いられた九華の由来もまた意図があっての事か、将又何の捻りもなく音が同じだからというだけの事なのかは――やはりはっきりしない。その城址公園の名である九華の由来が九華扇にあるのか、中国安徽省の九華山にあるのか、更には建物や器の美称を当てたのか――まあ、音に合わせただけだろう、というのが杉内の当て推量である。
六華に到着した杉内は、駐車場に車を停め、半ば億劫そうに「ばたん」と扉を閉めた。例のキャメルのコートを羽織り、ニット帽はポケットの中に無造作に突っ込んだ。
六華も九華も揖斐川沿いにある。対岸にはなばなの里があるから、かの有名な高所に上がる望遠アトラクションであるアイランド富士がよく見える。
とことこといつもの調子で歩を進める。向かうのは和館の最奥にある一番蔵である。
中には入らない。壁の一部に向かい、大きく息を一つ吸い込んだ。
ゆっくりと瞼を閉じ、杉内は頭を垂れる。口中で短い祝詞を唱える。その乾いた両手を左右に広げた。
――ぱん!
音高らかに一つ、打たれた柏手がその場の空間を瞬く間に塗り替える。
杉内の目は、何時もの如く、蔵の壁と青空が消えゆくのをはっきりと捕らえていた。次いで、それまでとはまるで違う景色が現れる。
そこは、現世ではない。
杉内の頭上には練色の天が広がっている。
わずかに黄味がかったその空には、所々に薄紅色を刷毛で刷いたような痕跡が残されている。全体はきらきらとさんざめいており、まるで宝玉の粉を塗り込めたかのようだった。
そしてそんな天の下には、巨大な寝殿造りの母屋が堂々と翼を広げ地に伏している。
平等院も斯くやと言わんばかりの豪奢な建築の足元、階にてだらりと脚を開き、前かがみになっている一人の見慣れた老爺があった。傍らには螺鈿の煙草盆。指先で弄ぶのは愛用の煙管だ。ぷかり、紫煙を吐き出す。
溜息がてらとことこ近付いてゆくと、こちらの訪いに気付いたらしい。杉内の顔を見て男はにやりと笑んだ。
「よう」
軽快な調子で片手をあげて見せる。まったくもって筋骨たくましい老爺だと杉内は再び歌舞伎役者のような面相をして見せた。
老爺は短く刈り上げた白髪に白い肌をしている。瞳の色だけが薄い翡翠色。にやりと右頬を歪めて笑うその身には緑青色の着流しを纏っていた。
「よう、じゃないよ。相変わらずだらしない爺だな」
「お前も今じゃ立派な爺じゃねぇか。見た目だけなら俺より爺だろうが」
「言ってろ」
――まったく、煙いんだよとその顔の前で杉内が手をふってやると、老爺は眉間に皺を寄せて笑いながら火皿の中身を盆の中に「かん」と捨てた。
「首尾は? 昌親」
じっと、真っ直ぐに見つめる眼に、杉内は軽く首肯しつつ「上々だ」と返した。
その瞳だけが薄っすらと翡翠色を帯びて見えるのは、この老爺が妣國の者だからだ。
妣國――即ち黄泉の事である。
薜茘多――つまり餓鬼の事だが――この男はその一種である食法なのだ。これは、人の血肉や精気ではなく、坊主の「説法」を喰らう。
優れた知能を持つものの発する「説法」――つまり理論理屈を食わねば死ぬのだ。自然、知能の優れた者の傍に纏ろう。
地偉智とは鬼神なのだ。これには無論餓鬼も含まれるのである。
「昌親」
呼ばわる老爺の手が杉内の肩に伸びる。ゆっくりと引き寄せられる。杉内は慣れたもので抵抗もしない。
杉内の左のこめかみに、老爺の唇が触れる。
次の瞬間、触れたその場に冷たい何かが走った。
これが、この老爺の命脈を繋ぐ「食事」なのである。
人並外れた知識と知能を持つ杉内に蓄えられた「説法」と引き換えに、杉内はこの鬼神を使役してよいという契約を果たしている。
桑名の翁――その名を呂南方という。
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