雪々と戀々

珠邑ミト

文字の大きさ
上 下
31 / 40
第三章 自由ナ蟻

第30話 桑名の翁

しおりを挟む


 ***


 京都から桑名くわなへ向かう車中、杉内すぎうちは自らステアリングを握っていた。

 エアコンの効きの悪い、座り心地も悪い英国車だが、若い頃に形を気に入ってから大枚叩いて修理しつつここまで相棒として乗りこなしてきている。立派な古女房だ。

 人間の女房の方は不在である。

 否、生きてはいるのだ。児童書専門の書店を勤め上げて、定年退職を迎えた六十の誕生日の朝。二人で食卓を囲んでいると、正美まさみは突然「マチュピチュが見たい」とのたまったのである。

 その時のアレは、とてもとても真っすぐな瞳をしていた。

 そうして国を飛び出してから早三年、たまに手紙を送ってくるので息災である事は伝わるのだが、全くいい笑顔の写真ばかりを同封してくるので杉内は笑ってしまっている。
 自分も随分と好き勝手をしてきたほうだから、妻が自由にやっているのは喜ばしかった。娘も嫁いで久しくすっかり年を取ったし、孫も来年には大学受験を控えている。順風満帆の人生行路と言って差支えはなさそうだ。


 ――多少、普通とは毛色が異なるだろうが。


 追い越し車線を大型トラックが高速で追い抜いて行く。杉内の愛車など風圧で飛ばされんばかりに揺れた。明らかな速度違反に行儀悪く舌打ちをするが、すぐに視線を自身の前方に向け直す。高速道路の運転は一瞬の油断が命取りになるからだ。しかし不快は不快で留まっている。「馬鹿野郎が」と乱暴な口調で吐き捨て気を取り直した。

 杉内すぎうちは、例の歌舞伎役者のような表情を浮かべて、口をひん曲げつつ、前方をにらむ眼をかっぴらいている。中央分離帯の壁があるからいいようなものの、対向車線から見たら視線を奪われかねない、中々の面相だ。

 コートとニット帽は無造作に後部座席に放り投げてあった。周りに人の目がある時であれば身綺麗にも振舞うが、自分一人となれば、まあ大概ぞんざいにする。黒革の小型トランクだけは助手席に置いていた。中に入れてあるのは話題の最新ミステリ小説だった。

 杉内の愛車が走るのは名神高速である。これに乗れば京都・桑名間なぞ一時間半程度で到着できる。無論混んでいなければの話だが。

 向かうは六華苑ろっかえんである。

 英国人、ジョサイア・コンドルの建築した、水色の美しい洋館と和館とをくっつけた由緒正しい国の重要文化財である。雪の美称を当てたのかと思いきや、実際は建築を依頼した諸戸もろとせいろくの名の「六」と、近在する九華公園の「華」をとって名付けられたというものだ。
 桑名の名の由来もまた様々あれど、その異称として江戸期に用いられたきゅうの由来もまた意図があっての事か、はたまた何の捻りもなく音が同じだからというだけの事なのかは――やはりはっきりしない。その城址公園の名である九華の由来が九華扇にあるのか、中国安徽省の九華山にあるのか、更には建物や器の美称を当てたのか――まあ、音に合わせただけだろう、というのが杉内の当て推量である。

 六華に到着した杉内は、駐車場に車を停め、半ば億劫そうに「ばたん」と扉を閉めた。例のキャメルのコートを羽織り、ニット帽はポケットの中に無造作に突っ込んだ。
 六華も九華も揖斐川沿いにある。対岸にはなばなの里があるから、かの有名な高所に上がる望遠アトラクションであるアイランド富士がよく見える。

 とことこといつもの調子で歩を進める。向かうのは和館の最奥にある一番蔵である。
 中には入らない。壁の一部に向かい、大きく息を一つ吸い込んだ。

 ゆっくりとまぶたを閉じ、杉内はこうべを垂れる。口中こうちゅうで短い祝詞のりととなえる。その乾いた両手を左右に広げた。


 ――ぱん!


 音高らかに一つ、打たれた柏手かしわでがその場の空間をまたたく間に塗り替える。
 杉内の目は、何時もの如く、蔵の壁と青空が消えゆくのをはっきりと捕らえていた。次いで、それまでとはまるで違う景色が現れる。



 そこは、現世うつしよではない。


 杉内の頭上には練色の天が広がっている。
 わずかに黄味がかったその空には、所々に薄紅うすべに色を刷毛はけで刷いたような痕跡が残されている。全体はきらきらとさんざめいており、まるで宝玉の粉を塗り込めたかのようだった。
 そしてそんな天の下には、巨大な寝殿造りの母屋が堂々と翼を広げ地に伏している。

 平等院もくやと言わんばかりの豪奢な建築の足元、きざはしにてだらりと脚を開き、前かがみになっている一人の見慣れた老爺ろうやがあった。傍らには螺鈿の煙草盆。指先で弄ぶのは愛用の煙管きせるだ。ぷかり、紫煙を吐き出す。
 
 溜息がてらとことこ近付いてゆくと、こちらの訪いに気付いたらしい。杉内の顔を見て男はにやりと笑んだ。

「よう」

 軽快な調子で片手をあげて見せる。まったくもって筋骨たくましい老爺ろうやだと杉内は再び歌舞伎役者のような面相をして見せた。
 老爺は短く刈り上げた白髪に白い肌をしている。瞳の色だけが薄い翡翠色。にやりと右頬を歪めて笑うその身には緑青ろくしょう色の着流しを纏っていた。

「よう、じゃないよ。相変わらずだらしないじじいだな」
「お前も今じゃ立派な爺じゃねぇか。見た目だけなら俺より爺だろうが」
「言ってろ」

 ――まったく、けむいんだよとその顔の前で杉内が手をふってやると、老爺は眉間に皺を寄せて笑いながら火皿の中身を盆の中に「かん」と捨てた。

「首尾は? まさちか

 じっと、真っ直ぐに見つめる眼に、杉内は軽く首肯しつつ「上々だ」と返した。

 その瞳だけが薄っすらと翡翠色を帯びて見えるのは、この老爺が妣國ははのくにの者だからだ。


 妣國ははのくに――即ち黄泉の事である。


 薜茘へいれい――つまり餓鬼の事だが――この男はその一種である食法じきほうなのだ。これは、人の血肉や精気ではなく、坊主の「説法」を喰らう。
 優れた知能を持つものの発する「説法」――つまり理論理屈を食わねば死ぬのだ。自然、知能の優れた者のそばまつろう。

 地偉じいとは鬼神なのだ。これには無論餓鬼も含まれるのである。

まさちか

 呼ばわる老爺の手が杉内の肩に伸びる。ゆっくりと引き寄せられる。杉内は慣れたもので抵抗もしない。
 杉内の左のこめかみに、老爺の唇が触れる。
 次の瞬間、触れたその場に冷たい何かが走った。

 これが、この老爺の命脈を繋ぐ「食事」なのである。

 人並外れた知識と知能を持つ杉内に蓄えられた「説法」と引き換えに、杉内はこの鬼神を使役してよいという契約を果たしている。


 桑名のおきな――その名をりょ南方なんぽうという。


しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち

鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。 心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。 悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。 辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。 それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。 社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ! 食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて…… 神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

帝都の守護鬼は離縁前提の花嫁を求める

緋村燐
キャラ文芸
家の取り決めにより、五つのころから帝都を守護する鬼の花嫁となっていた櫻井琴子。 十六の年、しきたり通り一度も会ったことのない鬼との離縁の儀に臨む。 鬼の妖力を受けた櫻井の娘は強い異能持ちを産むと重宝されていたため、琴子も異能持ちの華族の家に嫁ぐ予定だったのだが……。 「幾星霜の年月……ずっと待っていた」 離縁するために初めて会った鬼・朱縁は琴子を望み、離縁しないと告げた。

おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜

瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。 大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。 そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。 第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

大神様のお気に入り

茶柱まちこ
キャラ文芸
【現在休載中……】  雪深い農村で育った少女・すずは、赤子のころにかけられた呪いによって盲目となり、姉や村人たちに虐いたげられる日々を送っていた。  ある日、すずは村人たちに騙されて生贄にされ、雪山の神社に閉じ込められてしまう。失意の中、絶命寸前の彼女を救ったのは、狼と人間を掛け合わせたような姿の男──村人たちが崇める守護神・大神だった。  呪いを解く代わりに大神のもとで働くことになったすずは、大神やあやかしたちの優しさに触れ、幸せを知っていく──。  神様と盲目少女が紡ぐ、和風恋愛幻想譚

後宮の偽物~冷遇妃は皇宮の秘密を暴く~

山咲黒
キャラ文芸
偽物妃×偽物皇帝 大切な人のため、最強の二人が後宮で華麗に暗躍する! 「娘娘(でんか)! どうかお許しください!」 今日もまた、苑祺宮(えんきぐう)で女官の懇願の声が響いた。 苑祺宮の主人の名は、貴妃・高良嫣。皇帝の寵愛を失いながらも皇宮から畏れられる彼女には、何に代えても守りたい存在と一つの秘密があった。 守りたい存在は、息子である第二皇子啓轅だ。 そして秘密とは、本物の貴妃は既に亡くなっている、ということ。 ある時彼女は、忘れ去られた宮で一人の男に遭遇する。目を見張るほど美しい顔立ちを持ったその男は、傲慢なまでの強引さで、後宮に渦巻く陰謀の中に貴妃を引き摺り込もうとする——。 「この二年間、私は啓轅を守る盾でした」 「お前という剣を、俺が、折れて砕けて鉄屑になるまで使い倒してやろう」 3月4日まで随時に3章まで更新、それ以降は毎日8時と18時に更新します。

処理中です...