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第三章 自由ナ蟻
第28話 雪氷と春蓬
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春の野辺には花が咲く。
白い蝶、黄色い蝶。
ふわふわひらひら、互いに纏わりついては高く低く飛び回る。
わずかばかり、それらの睦まじいのを目で追ってから、久芳は再び視線を地に落とした。さらり、肩口から射干玉の黒髪が零れ落ちる。灰桜色の小袖が、抜けるように白いその肌を更に白く見せていた。
さらさらちょろちょろと、小川のせせらぎが背後から耳に届く。冬の内は、山から流れくる雪氷交じりだった水も、打って変わったぬるみよう。日の光を受けて煌めく水面は、いつか寺で見た、宝物の水晶の数珠のようだった。
冬を越えた土手には、萌え出でたばかりの蓬が繁茂している。それを丁寧に毟り取り、笊に上げてゆく。今、家では養母がとっておきの糯米を蒸している。それに混ぜて草餅にするのだ。
「よいせ」、と、吐息交じりの独り言で、久芳はゆっくりとその身を起こした。動作の遅いのは性分だった。幼い頃に付けられた「亀の久芳」というあだ名を、しかし当人は別段嫌ってはいなかった。
一段高くなった視界は、何故だろう、それだけで世界を明るくきらきらしく見せてくれる。それはきっと、久芳がそれなりに穏やかな暮らしを送っているからだろう。一山越えたその向こうからはもう違う。一寸先は闇の戦場だ。
羽柴の手が伸び、国人と争い始めてから、もう幾年が過ぎたか。戦も長引けば風景になって解ける。最初は雷の轟かと怯《おび》えた銃の音にも慣れてしまった。
慣れるべきではなかろう。しかし、戦の世は厭じゃと言うても久芳に出来る事など何もない。厭だと口に出すのも憚らねば。久芳の住まう大家村は、羽柴の手と組む事を選んだのだから。
流れの中、身を潜めて、ゆっくりと歩く。
黙って、心の内など明かさずに、静かに類に害が及ばぬよう。
「さあて、帰りましょうかね」
のんびり独り言つ久芳は、それでも見るべきと見ざるべきは分けているつもりだった。視界を閉ざして危険となるものから目を逸らすは逃げで愚行だ。ままならぬ苦難に拘泥して、いつまでも考えから外せぬのもまた執心に近い。自ら不幸を手繰り寄せているとも言えよう。
そうはならぬよう。
中庸をゆっくりと歩くのだ。一歩ずつ。一歩ずつ。
山野には若い緑が萌え初める。
田に水が入るにはまだ少し遠い。
この年、大家村の春は、殊の外あたたかく、そして穏やかだった。
久芳は一色の家に生まれたが凋落を経て養い子に出たから、お姫さまなどと呼ばれる身分ではない。こうして日々の食事を賄うのも、畑仕事に繕い物も、全部自分の手でもやる。それでもやはり恵まれたほうなので、親しく村人らと関わるといっても限度がある。多少は身分差を想われて避けられたりもする。そういったあたり、女の生きる場は如実だったりする。それに、やはり他の村人達に比べれば労苦などないと言っていいに等しかった。手伝いはいくらでも得られた。手習いも許されたし、それはまあどこぞに嫁に出す時によりよい縁談がくるようにとの事だったのだろうが、やはり優遇ではあったのだ。
と、「おおいおおい」と声がする。
「おや」と久芳がきょろきょろ首を巡らせ辺りを見回せば、左斜め前方、畦道を駆けながら、こちらへ向けて手を振る男が見えた。
「おおい、久芳殿―」
思わぬ顔に、久芳はきょとんとした。
「栃尾様――」
栃尾加賀守祐善である。軽快に駆けつけてきた祐善が目の前に立ち止まったので、ああ本当に己に用があったのかと久芳は驚いた。
「そんなに慌てて。どうなさいましたの」
祐善は額に汗しながらも破顔している。何がそんなに嬉しいものかよくわからなかった。
「久芳殿。よき報せじゃ。よき話を持ってきたぞ」
「はあ、よき話ですか。どこぞにややでも生まれましたか? それとも戦が終わりましたか?」
「いやいや、そうではない。――いや。そうでもあるのか。戦を終わらせてくれる御仁との話だからな」
「はあ」
祐善は歯を見せて大きく笑った。
「御養父殿との話はつけてきたぞ。久芳殿。今から嫁に行ってくれ」
「―――――――はい?」
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