雪々と戀々

珠邑ミト

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第三章 自由ナ蟻

第28話 雪氷と春蓬

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         *


 春の野辺には花が咲く。
 白い蝶、黄色い蝶。
 ふわふわひらひら、互いにまとわりついては高く低く飛び回る。

 わずかばかり、それらのむつまじいのを目で追ってから、はなは再び視線を地に落とした。さらり、肩口からたまの黒髪が零れ落ちる。はいざくら色の小袖が、抜けるように白いその肌を更に白く見せていた。

 さらさらちょろちょろと、小川のせせらぎが背後から耳に届く。冬の内は、山から流れくる雪氷せっぴょう交じりだった水も、打って変わったぬるみよう。日の光を受けてきらめく水面みなもは、いつか寺で見た、宝物ほうもつの水晶の数珠のようだった。

 冬を越えた土手には、萌えでたばかりのよもぎが繁茂している。それを丁寧にむしり取り、ざるに上げてゆく。今、家では養母がとっておきのもちごめを蒸している。それに混ぜて草餅にするのだ。

 「よいせ」、と、吐息交じりの独り言で、はなはゆっくりとその身を起こした。動作の遅いのは性分だった。幼い頃に付けられた「亀のはな」というあだ名を、しかし当人は別段嫌ってはいなかった。

 一段高くなった視界は、何故だろう、それだけで世界を明るくきらきらしく見せてくれる。それはきっと、久芳がそれなりに穏やかな暮らしを送っているからだろう。一山越えたその向こうからはもう違う。一寸先は闇の戦場だ。

 羽柴の手が伸び、国人と争い始めてから、もう幾年が過ぎたか。いくさも長引けば風景になって解ける。最初はいかずちとどろきかと怯《おび》えた銃の音にも慣れてしまった。

 慣れるべきではなかろう。しかし、戦の世は厭じゃと言うてもはなに出来る事など何もない。厭だと口に出すのもはばからねば。久芳の住まう大家村は、羽柴の手と組む事を選んだのだから。
 流れの中、身を潜めて、ゆっくりと歩く。
 黙って、心の内など明かさずに、静かに類に害が及ばぬよう。

「さあて、帰りましょうかね」

 のんびりひとはなは、それでも見るべきと見ざるべきは分けているつもりだった。視界を閉ざして危険となるものから目を逸らすは逃げで愚行だ。ままならぬ苦難に拘泥こうでいして、いつまでも考えから外せぬのもまた執心に近い。自ら不幸を手繰り寄せているとも言えよう。
 そうはならぬよう。
 中庸をゆっくりと歩くのだ。一歩ずつ。一歩ずつ。


 山野には若い緑がめる。
 田に水が入るにはまだ少し遠い。
 この年、大家村の春は、殊の外あたたかく、そして穏やかだった。


 はなは一色の家に生まれたが凋落ちょうらくを経て養い子に出たから、おひいさまなどと呼ばれる身分ではない。こうして日々の食事をまかなうのも、畑仕事につくろい物も、全部自分の手でもやる。それでもやはり恵まれたほうなので、親しく村人らと関わるといっても限度がある。多少は身分差を想われて避けられたりもする。そういったあたり、女の生きる場は如実だったりする。それに、やはり他の村人達に比べれば労苦などないと言っていいに等しかった。手伝いはいくらでも得られた。手習いも許されたし、それはまあどこぞに嫁に出す時によりよい縁談がくるようにとの事だったのだろうが、やはり優遇ではあったのだ。


 と、「おおいおおい」と声がする。


「おや」とはながきょろきょろ首を巡らせ辺りを見回せば、左斜め前方、畦道あぜみちを駆けながら、こちらへ向けて手を振る男が見えた。

「おおい、はな殿―」

 思わぬ顔に、久芳はきょとんとした。

「栃尾様――」

 栃尾とちお加賀かがのかみゆうぜんである。軽快に駆けつけてきた祐善が目の前に立ち止まったので、ああ本当に己に用があったのかと久芳は驚いた。

「そんなに慌てて。どうなさいましたの」

 ゆうぜんは額に汗しながらも破顔している。何がそんなに嬉しいものかよくわからなかった。

「久芳殿。よき報せじゃ。よき話を持ってきたぞ」
「はあ、よき話ですか。どこぞにややでも生まれましたか? それとも戦が終わりましたか?」
「いやいや、そうではない。――いや。そうでもあるのか。戦を終わらせてくれる御仁との話だからな」
「はあ」

 ゆうぜんは歯を見せて大きく笑った。

「御養父殿との話はつけてきたぞ。久芳殿。今から嫁に行ってくれ」


「―――――――はい?」




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