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第三章 自由ナ蟻
第27話 久芳
しおりを挟む藤堂が地偉智として治める隠、そしてその隣地にある静音の赤目。
この両地域に、倭姫命が天照大御神とその顕現である神鏡をたずさえて、一時逗留したことは広く知られている通りである。
それは天照大御神を祀る場所を求めての御幸の一つだった。その答えである伊勢に辿り着くまでに、倭姫命は数多の土地に流流転転とした足跡を残している。
隠の地には蛭子神社がある。エビスと読むが、これはつまりヒルコの事だ。
ヒルコは伊弉諾・伊弉冉両柱が最初に産んだ子である。女である伊弉冉が声を掛けて産んだ事から不具に生まれついたとされ、オノゴロ島から葦舟に入れて流された。
そして、この隠の地をかつて治めた藤堂高吉は、藤堂の養子だ。そして、その家紋は桔梗。
妻の、久芳が愛していた花だ。
藤堂の表情に、静かに影が差す。
――藤堂がかつて高虎であった頃というのは、本当に遠い遠い過去である。人であった時は過ぎ去った。もう人の世の――城持ち大名という立場の為に生きる必要はないのだ。自身の義に沿い曲がらず、甘んじて自由を許容できるようになった筈なのだ。
否、それは、狡いか。
言い分として正しくはないだろう。
禄を増やし、忠誠を誓える主の下で力を振い、働きを認められ領地を増やした。出世した。護るべきものが増えた。その為に――後継が必要となった。だから……
命じられた通り、養子を迎えた。
否、自らがそれを是として受け入れたのだ。
子宝に恵まれなかった妻は、養子に迎えた高吉をよくかわいがっていた。まだ十にはなっていなかったはずだ。高吉も久芳によく懐いていた。それは、確かに温かく微笑ましい光景だった。
今でも藤堂は、あれ程に美しい女はこの世に他にないと思っている。
訥々とした喋り方の、表情の薄い、しかし情の細やかな女だった。時折視線をこちらへ向けて、ゆっくりと時間をかけて微笑んで見せるような、一時も目を逸らさせないような、当代随一の美形だった。だから、久芳さえいれば他に妾はいらぬと常々藤堂は公言していた。若き日に出会い、あれの生が潰えるまで夫婦として添い遂げた。誰憚る事のない自慢の妻だった。
――だというのに。
人であった頃の記憶が藤堂を黙り込ませる。
我知らずなのだろう、俯き加減になった鬼神に、静音が呆れ交じりの溜息を洩らした。
(悔悟で落ち込むのはお主の勝手だが、すまぬ、藤堂の地偉智よ、後にしてくれるか)
それでもなお黙ったままでいると、ついにしびれを切らした静音が藤堂の肩に一発の拳をくれた。
(おい、赤目の)
(話ぐらい聞け。隠の蛭子神社に極秘に奉納されていたのが、お主の妻の遺品である数珠なのだ)
とたん藤堂の顔色が変わる。かつて一度だけ目にした事がある、黒い数珠の事を思い出したのだ。そうだあれは――久芳がキリシタン信仰をしていると察知し、しかし黙って見逃がした時の――いやしかし、それが隠にあったなどというのは。
(そんな話、儂は知らんぞ)
(それはそうだろう。コダマノツラネはお主の妻の死後、それを貸与していたマダラが回収して――)
藤堂の形相が変わる。
(待て、赤目の。貴殿、今マダラと言ったか?)
静音の眼の色が、不快も露わに赤く染まる。
(ああ言った。先代マダラである斑の夾竹桃が、お主の妻の望みに従い、コダマノツラネを与え、お主の妻はその玉一つ一つに怨み集めて束ねたのだ。お主は――)
ゆっくりと微笑む久芳の顔が――苦渋の涙で歪む。
(――正室が死んだ時、側室と実子と共に江戸におったろう。看取っていないのだから、コダマノツラネの行方を知るはずもなかろうに。お主の代わりに斑の夾竹桃がお主の妻を看取ったのだ。そして約束通りに持ち帰ったというだけだ)
――ずるり。
藤堂の足元から、岩場から。
ずるりとしたあわいが――湧いた。
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