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第三章 自由ナ蟻
第21話 縷々連綿
しおりを挟む思えば、縷々とした夫への思いによって紡いだ生涯だった。
津藩の夏も幾度目か知れない。
ここでも蝉は変わらずじわじわと鳴く。
玉の緒も絶える間際。衾の上では細く熱い吐息が自らの唇を乾かすばかり。茫洋と何を思うでもなく、静かすぎる城中で、己が独りなのを思い知らされる。
独りだ。
終の刻を迎える今この時に、結局わたくしは独りだったのだ。
哀しいのだろうか。
わたくしは。
――じ、
じわじわじわ。
じわじわじわじわ、と。蝉の音だけが、慰めのように喚く。まるで唯一の友であるかのように。
そんなものなのだろう。何も遺せなかった女の生涯などというものは。
――ゆっくりと、眼を開ける。
実際の眼は木目の荒い天井板を見つめている。しかし、今この時、この心に映り行くのは、通り過ぎてきた現世の思い出だった。
但馬にはじまり、粉河、宇和島、今治、津と各地を経巡ったのは、それが夫の領地であったからだ。
ここに来て突如不調をきたしたこの身は、最早生きる甲斐を見出せないのだろう。食べ物は喉を通らなくなり、汗もかかない。
力も入らぬ手元でじゃらりと数珠が鳴る。
キリシタンへの弾圧は大きい。家康公の近くに仕える夫からすれば、妻である己が天主様の教えに縋ると知れる事は不都合に違いない。しかし、夫は無言でわたくしの手の内の数珠を一瞥したきりだった。以来、十字架だけは外した。
黒く細かい小玉を連ねたる、その数珠をくれたのは、額に赤い光を宿した不可思議な女人だった。
じわじわと蝉が哭く。
武士に嫁げば死に別れも当然。最初から覚悟はあったけれど、蓋を開けて見れば連れ添って三十五年。どうやら己の方が先に行く事になりそうだと、ひとり臥所で笑う。しかし、実質はすでに死に別れているも同然。妻としては尻窄まりの三十五年。竜頭蛇尾の三十五年。
それだけ添うても子は為せなかった。
夫には何年も何年も側室を置く事を勧めた。
やっと迎えてくれたその方とは子宝に恵まれた。今はそちらと共に夫は江戸にいる。家康公にお仕えするためだ。
あちらこちらと仕える主を変える度に、夫は死を賜ることなく、高く高くへと昇りつめていった。最早、御側室にとられたのか、家康公にとられたのか分からぬと笑う。
いや、きっと本当はそうではない。夫は時世に求められたのだ。己は、夫がこの戦乱の世を太平に導くため、彼が心置きなく駆け抜けられる為に在ったのだ。浅学卑小の女の身なれど、その後背にある領地を護るため、影となり手足となって働けた。夫の一部として在れた。――それでいいではないか。
ゆっくりと瞼を閉じる。
あれほど苦しかった思いも、最早静かに薄らいでいる。
一騎当千で駆けてゆく、あの大きな背に焦がれた。一度戦場へと旅立てば、幾夜となく孤閨をかこつ淋しさに泣いた。愛馬に跨る武者姿を見送る度に痛めた胸は、待ち焦がれた帰還の夜に、その腕に抱かれれば融けた。
そしてまた、その背を見送る朝が来る。
その繰り返し。
夫が高く高くへと昇り詰めるほど、少しずつ夫と己の間には距離が生まれた。少しずつ夫婦としての形は変わり、少しずつ、歳月と共に心と心ははぐれ――
そう、己の中から喪われたのは、きっと、この本心を見せる強さだったのだ。
と、ふわり涼やかな風が縁側から流れた。
暑さのやわらぎなど微塵も期待はできねども、わずかなれどと開け放たれていた障子戸の先にはささやかな庭がある。くきりと首をきしませながら、そちらへと視線を流した。
石灯籠のとなりに、女人が一人立っていた。
ゆっくりと、瞬いてその姿を見る。
その女人は、白く長いその髪を簪一本でまとめている。手の甲にはつややかな虹色の鱗があり、掌や指などは、白くなめらかだった。
「しばらくぶりであったね」
静かに囁くと、女人は縁側からゆっくりと畳の上に上がった。
無言のまま迎え入れる。
蝉の音は止んでいた。
いつかの如く、女人の不可思議のわざが働いているのだろう。
家来も侍女達も、恐らくこの異変に気付く事はあるまい。
震える指先で、数珠をにぎりしめた。
女人は静かに己の傍らに座した。斜めに脚を崩す様が女らしく婀娜だった。己からは喪われて久しいものに、僅か心が軋んだ。
女人はうっすらと口の端を笑ませる。
「さても執念の深いこと。随分とたくさんの怨みを集めたものだね。そうまでして夫の受ける報いを阻みたかったか」
――げに一途とは恐ろしきものよ、と。女人は己の黒髪をあやすように、なだめるように撫でてきた。
老いたが何故だかこの髪だけは一筋も白くならなかった。
「――では、約束通りそれは返してもらおうかね。預からせてはもらうけれど、始末は私では付けられぬから。それは承知しておいでだね?」
額に赤い光を宿しつつ、女人はいたわし気に微笑む。己はかすか瞬くことで是と示す。それでいい。それがいい。己の生涯をかけた祈りが、願いが、そこには込められている。どうか、夫からは遠くとおくへと離してほしい。この拾い集めた怨みつらみを、夫からは、遠くとおくへ……。
ほろりと涙が零れ落ちた。
「――其方、心残りはなにかえ」
女人が、静かにそう問うた。
心残り。
それは。
「御仏の教えではなく、敢えて時勢に合わぬ天主教に帰依を求めた理由は、なんだった」
もう一滴、ほろりと、涙が。
「わたくしは……ただどうしても……」
かすかな、声ともならぬわたくしの思いを、女人は過たず拾い上げ、そして頷いた。
――わかった、ならばお主の魂、私が引き受ける。
「私は、マダラ。斑の夾竹桃」
女人はそこではじめて名乗りを上げた。
そうしてわたくしは、今生での生を手放したのだ。
夫に看取られる事なく。
ただ一つの手放し得ぬ「欲」と共に、この魂を委ねたのだ。
***
マダラは、額の赤光で魂寄せし、自由自在に肉から抜いては別の肉へと運び入れる。
そして、マダラが産むモノは、神か鬼かの脅威となるのだ。――それも――
選ぶ男で全てが決まるのだという。
※※※
徒然草 第七十四段。
蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。
夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養いて、何事をか待つ。期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり、
※※※
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