雪々と戀々

珠邑ミト

文字の大きさ
上 下
14 / 40
第二章 蕾ト穢レ

第13話 チェス

しおりを挟む
           *

 仕事をしていないときのはくおうは、大抵チェス盤に向かっている。これが将棋や囲碁だったら付き合えなかったが、チェスなら分かるので、よく対局させられた。相当好きは好きらしいが、伯王の腕は大したことはなかった。五度対局すれば四度は私が勝った。それでも、静かに冷たい目をして、「もう一局」と、何度でも対局したがった。

「――お茶でも淹れましょうか」
「いや、いい」

 伯王の視線は、盤上に釘付けにされたままである。真剣に考えている。口元を指先で覆っている。
 この男は、そう言う、妙に人間くさい部分も持ち合わせているのだ。

 ――果たしてそれは誰にならったのか。

 疑問に思った所で追及するでなし。私もすぐに忘れてしまうから、ずっと宙に浮いたままだ。私はきっと、伯王を心の底から理解しようとは思っていないのだろう。わからないならわからないで、もういい。


 知った所でなんでもない。彼の過去に何があろうと、自分には関わり合いがないから。
 触れても求めても努力しても、どうせその内道は分かれる。

「お昼は、どうしますか」
「―――――ああ」

 眼差しは矢張り盤上から動かない。
 生返事。夢中だ。
 「ふぅ」と、小さな吐息を私が漏らすのにも、多分この男は気付いていない。
 私は退屈しながらその遊戯に付き合い続ける。
 伯王の王が逃げる。私の僧が追い詰める。彼の女王はすでに盤外に追い出した。私の女王は、静かで面倒くさそうに局面を眺めているだけだ。


 生きていた頃に、夫ともこうしていたら、何か違ったのだろうか。


 もっとも、あの人が打っていたのは囲碁だったし、私は囲碁は打てない。
 あの人は、その囲碁の会で知り合った若い女性講師に入れあげてしまって、最後など家には戻ってこなくなった。当時の私よりは若い、腰の肉付きのいい、ぶりぶりと着飾った化粧の濃い女だった。男好きのする、唇のぽってりと厚いのばかりが妙に記憶に残っている。
 男に困っているようには見えなかったのに、どうして選んだのが夫だったのか。
 あんな草臥くたびれた、染みしわの目立つ、猫背で、頭髪も薄くなったどこにでもいる爺だったのに。
 それだけが、今でも分からない。
 帰らない夫を待っていたわけではない。ただ、老いた舅姑を見捨てて出るだけの勢いが、私にはもうなかった。だらだらとずるずると、薄暗い古い家で、私は――多く庭樹や花を眺めて過ごしていた。

 あの庭にも、小手毬があった。

 小手毬。
 紫陽花。
 壁を這う朝顔。
 足元に水仙。
 椿。
 そしてまた――春が来る。

 うんざりだった。

 舅姑の介護を数年して、それぞれを看取った。
 葬儀の場にだけ喪主面をして堂々と立つ夫に、私はただ目を伏せた。息子の表情は――ただほうけて見えた。何も感じぬのだなと思った瞬間に、ああ、これの嫁になる娘も苦労をするだろうなと悟った。嫁が来たのはこの後の事だ。

 駄目と知っていながら止めなかった。

 これ以上息子の世話までしていたくなかった。夫のどこか一部分のような、身代わりに置いていったかのようなその存在が、いっそ憎らしくさえなった。己の産んだものだというのに。
 誰かに投げ渡してしまいたかった。
 つまり、私も十二分にずるかった。
 其処そこに関しては、最期の時にも嫁に何も言わずにおいた。
 故に余計ずるいのだ。
 人間というのは、かくもどろどろしく、かくも保身のためにモラルさえ投げ出せるものなのだと知った。
 生きていると、そういう、己の汚さとも直面する。


 ――いや、既に生きてはいないのだけれども。


      *


「――あれは、洗うのに時間がかかるわよ……!」


 両手で額を抱えつつ、カウンター席でリンドウは撃沈する。
 古い銭湯を改装したカフェーの壁面は、コバルトブルーと卵色、それからサーモンピンクで彩色されたタイルで大方がめられている。昭和的なデザインのかもす懐かしみは、しかし今の彼女を慰めてくれそうもなかった。

 そんな彼女を気の毒そうに見下ろしながら、たもつはコーヒーカップを傍に置いた。銘はキリマンジャロ。それから――保は心底厭そうな目をリンドウの隣席の主に向ける。それにならいでもしたか、リンドウもまたそちらへ目を向けた。

小手毬こでまり姫が――っていうか、ええと、初枝はつえさん、だっけ? が、身体から抜かれたのがいつ?」
(ざっと二十年前だな)

 ずず、と茶碗の中身をすすなかばで、リンドウの隣席から答えたのは――藤堂とうどうである。椀の中身は梅昆布茶だ。

「二十年ってまだ思い出さないの?」
(それだけ人の時の夫の事が赦せんのだろうよ)

 保は心底厭そうにカウンターの内側で腕を組む。

「――どうでもいいが、お前が店に入ることを歓迎した記憶はないんだが? もう少し居心地悪そうなそぶりでもみせてみたらどうなんだ? 藤堂よ」

 保の言葉に、藤堂はちらと視線を向けてから、にぃと笑った。

(今更だろう。せんの時も入店を赦したではないか、貴様は)
「あの時はお前のナリじゃなかったからだ」
(そういきり立つものではない。どうせ貴様も儂も単体ではげん様にはかなわぬ。ここは協定を結ぶなりしても――)
「全力で断らせていただく!」

 男二人の際限のないさや当てに、今度こそ本当に勘弁してくれと、リンドウは盛大な溜息を吐いた。

はくおうはなんで何も姫に言わないのよ」
(言うわけがあるまいよ)

 肩を竦めながら藤堂は笑う。

(――あの伯王だぞ?)

 それ以上ない的確な説明に、「ああもう!」とリンドウはついに突っ伏した。

 先代まだらである母ののこした、この大層面倒な後始末を店に持ち込んできたのは――他でもない藤堂である。

 カウンターテーブルに右頬をこすり付けたまま、リンドウは恨みがましい視線を藤堂に投げつけた。


しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち

鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。 心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。 悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。 辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。 それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。 社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ! 食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて…… 神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

帝都の守護鬼は離縁前提の花嫁を求める

緋村燐
キャラ文芸
家の取り決めにより、五つのころから帝都を守護する鬼の花嫁となっていた櫻井琴子。 十六の年、しきたり通り一度も会ったことのない鬼との離縁の儀に臨む。 鬼の妖力を受けた櫻井の娘は強い異能持ちを産むと重宝されていたため、琴子も異能持ちの華族の家に嫁ぐ予定だったのだが……。 「幾星霜の年月……ずっと待っていた」 離縁するために初めて会った鬼・朱縁は琴子を望み、離縁しないと告げた。

おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜

瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。 大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。 そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。 第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

大神様のお気に入り

茶柱まちこ
キャラ文芸
【現在休載中……】  雪深い農村で育った少女・すずは、赤子のころにかけられた呪いによって盲目となり、姉や村人たちに虐いたげられる日々を送っていた。  ある日、すずは村人たちに騙されて生贄にされ、雪山の神社に閉じ込められてしまう。失意の中、絶命寸前の彼女を救ったのは、狼と人間を掛け合わせたような姿の男──村人たちが崇める守護神・大神だった。  呪いを解く代わりに大神のもとで働くことになったすずは、大神やあやかしたちの優しさに触れ、幸せを知っていく──。  神様と盲目少女が紡ぐ、和風恋愛幻想譚

後宮の偽物~冷遇妃は皇宮の秘密を暴く~

山咲黒
キャラ文芸
偽物妃×偽物皇帝 大切な人のため、最強の二人が後宮で華麗に暗躍する! 「娘娘(でんか)! どうかお許しください!」 今日もまた、苑祺宮(えんきぐう)で女官の懇願の声が響いた。 苑祺宮の主人の名は、貴妃・高良嫣。皇帝の寵愛を失いながらも皇宮から畏れられる彼女には、何に代えても守りたい存在と一つの秘密があった。 守りたい存在は、息子である第二皇子啓轅だ。 そして秘密とは、本物の貴妃は既に亡くなっている、ということ。 ある時彼女は、忘れ去られた宮で一人の男に遭遇する。目を見張るほど美しい顔立ちを持ったその男は、傲慢なまでの強引さで、後宮に渦巻く陰謀の中に貴妃を引き摺り込もうとする——。 「この二年間、私は啓轅を守る盾でした」 「お前という剣を、俺が、折れて砕けて鉄屑になるまで使い倒してやろう」 3月4日まで随時に3章まで更新、それ以降は毎日8時と18時に更新します。

処理中です...