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第二章 蕾ト穢レ
第10話 稜線
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この、黄色地の小手毬の振袖は、振袖と言うだけあって、少しだけ袖が重い。なにかに掴まれているかのように、繋がれているかのように、ほんのりと重いのだ。
生前に振袖を纏ったのは一度だけだ。夫との見合いの席で、たった二時間だけ世話になった。それはやたらと青の目立つ一枚で、しかも親戚からの借り物だった。借り物なだけあって、裄が合わず、身動きし辛かった。本来の持ち主のほうが手足が長かったため、茶碗ひとつを持ち上げるだけで難儀した。合わぬ分だけ余計に袖が重かったのかも知れない。
対して、私のために誂えられたこの絹の袷は、私の肌にとてもよく馴染んだ。苦しくもなく、哀しくなることもない。袖は少しだけ重いけれど、それは借り物だからではなく、何かの、誰かの思いを引き摺っているからだ。
伯王は、私のことを小手毬と呼ぶ。
伯王こそが、私を小手毬にしたのだ。
あの日を境に、私は初枝から小手毬へと変じた。伯王によって小手毬とされ、小手毬として、この小さな村に生きることになった。
小手毬の振袖を纏わされて、小手毬と呼ばれ、そしてその小手毬の振袖は、伯王によって手ずから剥ぎ取られる。
繰り返されるお仕着せに、私はただ黙って従う。
黙って従いながら、私は少しだけ、呆然とこの世界を見つめる。
ここは、多くの時間と空間を霧に包まれた、不可思議に淡い村だ。
或いは閉ざされている、と言い切ってしまってもよいのかも知れない。
遠くに見える山の稜線は、薄墨色と白にぼかされていた。しかし、どうしてだろう、実際の距離以上に、その景色とは遠く隔てがあるように感じる。
まるで、間に何かが挟まっているかのような、そんな塩梅なのだ。
うまくは説明できないが、己と遠景との間には分厚い空気の壁のようなものが立ち塞がっていて、それ越しに稜線を眺めているような――そう、まるで銭湯の壁絵のような、作り物めいたものを感じてしまうのだ。
牢獄だろうか。
そんなものに入った事は、幸運にも一度としてないけれど。
――いや、或いは女の人生などというものは、しょせん牢獄の内で起こる些末な凹凸の事なのかも知れない。心を囚われて、枠の内に押し込められて、じっと息をひそめて、人生という命の時間が零れ落ちるのを待つ。ただそれだけの日々が、女の一生なのかも知れない。
もちろん、ときおりきらりとした喜びのようなものもあった。
笑った日々だって憶えている。
ただ、大枠をざっくりと捉えた時に、ああ、己はなんと無為な命の使い方をしてしまったのかと、そう思ってしまう。
女の、と言ってはいけないのかも知れない。
単に自分の命の使い方が雑で下手糞だっただけかも知れない。
まあ、もう遠くに過ぎ去った事だ。
今更とつとつと語った所で、別にそれに未練や後悔があるわけでもなし。
あの稜線のように、遠く何かに隔たれて、かつてあったらしきもの。そんな程度の事だ。
この村で過ごす日々は穏やかで、大抵退屈の内に過ぎる。
私は、よく縁側に腰をおろしながら、庭先とその先の借景をぼんやりと眺めて過ごす。
ふいに、もうあまりよくは覚えていない、あの老人ホームの中庭での事を思い出した。
あそこの景色も、なぜだか少し白と薄墨だったような気がする。もしかしたら緑内障が進んでいただけかも知れない。よく分からない。なにせ、ぼけていたから。
つ、と視線を足元に向ける。縁側に腰かけて、行儀悪く爪先をぶらぶらとさせる。白い汚れのない足袋に、錦繍の美しい鼻緒を誂えた黒草履。その中に包まれ隠された爪に、欠けや折れはなく、ひたすらつるりと美しい。脚を多く使い、歩く仕事だったから、爪はしょっちゅう剝がれていた。特に人差し指のそれは両方歪だった。でも、そんな足指も嫌いではなかった。良し悪しではない。生き様の問題だからだ。今の足指は、やはりまだ借り物めいていて慣れない。
不思議だ。着物には魂にぴったりと嵌るものを感じるのに、肝要な肉体のほうに未だ慣れずにいる。
水の匂いの濃いのが際立つのは、近くに沢があるからか。しかし湿気が溜まるような塩梅ではないのは、風通しがうまくなるように植栽が工夫されているからだろう。
時折、人ではない、少々寸足らずな生き物のようなものが枝葉を整えているのを見かける。切り落としたものをぺろりと長い舌で巻き取って始末する。ああ蝦蟇か、と思い至る。私に気付くとぺこりと頭を下げて、するりと姿を消す。
そんなものにも、すっかり慣れてしまった。
やはり、生きていると思いも寄らない事がおきる。
――いや、既に生きてはいないのだけれども。
この家には、時折伯王を尋ねて客人がある。それも矢張り、全て人ではない形をしている。人のような形をしているものもあるが、それでも人ではない。
私自身が、人ではなくなった身なので、どれも恐ろしくは感じない。ただただ不思議なものだと思う。小さい形をしたものが稚くかわいらしいものだとは限らず、大きくて臆病なものもいる。
人であった頃に見聞きした妖怪のような姿形をしたものもいたが、見ると聞くとでは大違いだ。
そもそも、呑気に他人の事をどうこうと言っている場合ではない。
私は、一体何になったのだろうか。
若返っただけではないのは明らかだ。生前の私の若かりし頃は、こんなによくできたお人形のような容姿はしていなかった。もしかしたら、伯王に好きなように姿形を替えられたのかも知れない。何か別の物に容れられたのかも知れない。
わからないことだらけで、わからないまま、さらさらと時が過ぎて行く。
私は今の私の形を、自分のものだとまだ実感できていない。それでも厭な心持ちではなかった。わからないものをそのまま眺めていても赦されるのは、心穏やかで愛おしかった。ほんの少し気分が高揚した。楽しかった。
そう。今の私は、日々を興味深く生きていた。
ただ、
時折、
なにかとても大切な事を忘れているような気になるのだ。
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