雪々と戀々

珠邑ミト

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第一章 壱珊瑚

第8話 髪

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         *

 翌早朝、リンドウは欠伸あくびを噛み殺しながら市営駐車場へ至る道を歩いていた。ちらと自身の隣に目をやってから、さりげなく口元を手の甲で隠す。気の抜けた欠伸姿を見せるのが、なぜか気恥ずかしかった。

 隣には、藤堂の姿がある。
 どうでも良さそうな素振りを見せながら、この人の悪い鬼はその口元に、にまりとした笑みを浮かべている。それを見てリンドウは、小さく溜息を吐いた。

 ――結局夜通しの仕事となってしまった。

 藤堂は今、人の目に見える形をとっている。早朝故に通勤通学のため駅前へ急ぐ人の姿はまばらだが、それでも人の目が皆無とはならない。それを考慮してくれたのかと一瞬思うが、これはそんな殊勝な男ではなかったはずだ。
 やがて――その意図が明らかになった。

 目立っている。
 明らかに目立っているのだ。

 藤堂は誰もが認める美貌の主ではないが、誰もが認める強印象の主である。
 短く刈り上げた黒髪。モスグリーンのハイネックのセーターの上にはベージュのジャケットを重ねる。ダメージ加工の入ったジーンズに革のショートブーツ。一体どこでこんな無難なセンスを身に着けて来たのか……それなりに悪くはないのが、かえって腹立たしい。
 そんな出で立ちの上、さらには190を超えた長身なのだから、鬼の装束でなくとも目立って当然だ。老いも若きも男も女も、別なくちらちらと藤堂の姿を盗み見ている。
 その隣に連れ立って歩けば、自然隣の自分も人目を引く。正直に言って厭だ。居たたまれない。

(何やら、気に入らなさげな顔をしているな)

 ぼそりと呟く声に、リンドウは今度こそ盛大な溜息を吐いた。
 やはり、この鬼は分かってやっている。リンドウが嫌がると知っていて、わざと人の形を取って自身を目立たせているのだ。そこに意趣返しの側面がある事は、さすがのリンドウにも分かる。

「――まあ、あれが順当な結末だったのじゃない? あなたが心配していたのは、あのシノノメでもサルスベリでもなくて、あの場の気脈そのものだったんでしょ?」

 態と話を逸らし応えると、「ふぅむ」と藤堂は腕を組んだ。

(気脈の良い場はなるべく多く残したいものだからな)

 珍しく素直に認める藤堂に、リンドウは笑った。
 ついと東の空を見上げる。
 薄い藍色の空に、一条の茜が添えられていて美しかった。

(――美しいな)

 ぽそりと藤堂が呟いたので、一瞬心を読まれたかと思ったが、見上げる男の目もまた空を見上げている。
 きゅっと、胸の底が締め付けられるような気がした。

「そうね」

 肯定してから、む、とリンドウはその眉間に皺を寄せた。

「だけどね、こういう賭けは、あまり心臓によくないから、やらせないでくれる?」
(賭け、というと?)
「あの師の魂を松前の肉に容れて、シノノメと逢わせて下駄を返させるというのまではよしにしても、その後はせめてもう少し介入する姿勢を示してくれても良かったのじゃない? ――あれでシノノメに松前の肉ごと彼岸へ連れて行かれていたらと思うとぞっとするわよ。そうなっていたら松前の魂の置き場所がなくなってしまうじゃないの」

 リンドウがそう苦情を言うと、(だから、この形でお前をここへ呼び寄せたのだろうが)と藤堂はうそぶく。

(儂が素直におとなった所で、あの店主は儂を店には入れぬだろうが。況してや事情を説明してみろ。お前がこの方法をとることは目に見えておるし、さすれば、あの店主、黙ってはおるまい)
「――そうね。あなたの判断は正しいわ」

 心底厭そうに認めたリンドウの言葉に、藤堂はうすら笑いを浮かべた。

(お前のそういうところが、ヒトとはやはり違うのだ)
「わかってる。ヒトなら、こんな方法、思いついても危険すぎて実行しやしないわ」

 駐車場に辿り着くと、リンドウは藤堂の顔を見上げた。

「ところで、あなたの塚はどうなってるの」

 ああ、と藤堂が吐息とも声ともつかぬものを漏らした。

(何、あの子供、儂の塚近くで他の子供と混じって遊んでいたところ、花瓶を蹴倒して割りおってな)
「は? 花瓶? 塚本体じゃなく?」
(そうだ。良心の呵責に耐えかねたか、翌日、学校の給食で出た牛乳の瓶を綺麗に洗って代わりにと持ってきてくれよった。あまりにやることがかわゆいのでな、儂の眷属として守りと、角の種を与えてやったのだ。そうだ。それをお前にも見せびらかしてやろうと思ってな。色々と丁度良く重なったのだ)

 飄々と答える藤堂に、リンドウは肩を落として嘆息した。

「――呆れた。それだけの話なの?」
(ああ。それだけだ)

 がっくりと言葉を失ったが、そも、藤堂とはこういう男。これ以上の深追いは疲労を増すばかりとなろう。車のキーを取り出しながら藤堂に背を向けた。

「じゃあ、私はもう帰るから。久しぶりにくたくたよ」
(待てリンドウ)

 ぐ、と手首が掴まれる。引かれて振り返らされる。腰をかがめた藤堂が、リンドウの目の前にその顔を寄せる。鋭い眼がリンドウの眼を射る。
 ぞくりと、愉悦と恐怖の綯い交ぜになったものがリンドウの身の内を走る。


(前に別れた時に言ったはずだぞ。――次に逢った時にはもう逃がさんと)


 リンドウは息を吞んだ。
 仏のような穏やかさを持ちながら、鋭く激しい気性をその奥に隠し持つ、一つの鬼がそこにいる。
 油断をすれば、呑まれ食われる。

 身体ごと、命ごと、この、抑えに抑えた本心ごと。

(忘れたとは言わせん。次は本気で口説いて食うと儂は言った)
「今回のは不可抗力よ。騙し撃ちにもほどがある」
(騙されたとはいえ、こうして今再び相見えているぞ)
「――逃がさないとは言われたけど、逃げないとも言ってないわよ」
(ああ言えばこう言う。――本気で儂から逃げられると思っているのか?)


 思っている訳がない。


 リンドウは歯噛みした。
 藤堂が本心を口に出す事がない事も、十二分に分かっている。
 今回の一件、藤堂は間違いなく渡りに船と利用したのだ。
 前回の気まずい別れのほとぼりが冷めるのに、かかった時間が二年。藤堂の本意は承知している。これはおいそれと一度口に出した事を撤回しはしない。その二年ぶりのリンドウとの再会の為にシノノメ達の一件を利用したのだと、藤堂は絶対に認めはしないだろう。


 ――いくら求婚のためとはいえ、たかが人間の女一人の為に膝を屈するなど、鬼の矜持に掛けて本来あってはならない事だ。


 プライドを投げ打って二年ぶりの再会のための小細工をろうした男に、自分は「なぜ自分で手引かなかったのか」と問うたのだ。

 馬鹿過ぎる。
 本当に酷すぎる。
 この藤堂に「唐変木」とまで言わせてしまったのだ。本当に、あまりに配慮がなさ過ぎた。

 藤堂の指先が、そっとリンドウの前髪を掻き揚げた。そのままゆっくりと、その先へと続く髪の束にも指先を触れさせてゆく。
 襟足で一本にまとめた黒髪の先端は、腰にまで届き、つるりと冷たい。――二年前、藤堂と別れてから、ずっと切らずにおいたのだ。たった二年でこの長さにまで伸びた。
 藤堂もこの髪の長さの意味に気付いている。だからこんなにも慈しむような眼差しで、リンドウの髪を撫で梳いているのだ。

 ――堪らなかった。

 あの日の藤堂は、常とは違う、切実な目をしていた。頑なな眼差しに、頑なな声だった。
 雪の中、南禅寺なんぜんじ水路閣すいろかくの足元で、掴まれた右腕の痛みと、引き寄せられた懐中の熱。重ねられた唇の激しさは、忘れようとして忘れられるものではない。
 真摯だったのだ、あの日の藤堂は。

(何故逃げる。何故今更拒むという)
 
 言えない。言えるわけがない。


 拒絶の理由が、「貴方を喪いたくない」からだなんて、口が裂けても言えるか。


 苦しくぎりりと痛む胸をそっと抑えながら、リンドウは必死に笑った。

「藤堂の地偉智。私はね、あなたが女に無理を強いる下賤ではないことをよく知っているのよ」

 藤堂は目を丸くした。そして、次の瞬間、呵々大笑した。

(本当に、お前という女は――厄介な事この上ないな)

 言うや否や、藤堂はリンドウの額にそっと唇をよせた。
 それはやわらかく甘い、花の香りがするような口付けだった。
 藤堂は、極々静かに、その炎の如く煌めく瞳を細める。


(マダラのリンドウという女。額の赤光でたませし、自由自在に肉から抜いては別の肉へと運び入れる。そして、マダラのリンドウが産むモノは、神か鬼かの脅威となろう。――選ぶ男で全てが決まる)
 

 藤堂は、ふいと笑みを浮かべた。これ以上ないほどの、甘くやわらかな笑みを。
(仕方がない。此度こたびの事は何かときすぎた。二年で心が落ち着かなんだというならば、重ねて数年を持つも同じか)
「藤堂――」

 にぃと、藤堂の顔全体に、これ以上ないと言う程に強い印象を放つ笑みが浮かべられる。

(だがな、逃がしはせんのは変わらぬぞ。儂を選べ、マダラの。この世が底から引っ繰り返るような子を産ませてやる)

 一陣の風が髪を巻き上げる。きつい硫黄の臭いが口の中に広がり、軽い吐き気を感じて目をつむる。


 そして、目蓋を開けた時には、すでにそこに藤堂の姿はなかった。

    *

「――で、藤堂のヤツは?」

 車を飛ばして帰ったリンドウを出迎えたたもつは、そう不機嫌な顔で問うた。明らかに何があったのかがバレている。何故に顛末と事情を聞き及んでいるのかと思えば、玄武様の蛇女が奥で煎茶を啜っている。

 やはり、蛇女はすぐに告げ口をする。
 ちっと小さく舌を打ち鳴らしながらリンドウは厭な――心底厭な顔をした。

「大人しく帰ったわよ。何も問題ないったら」
「何もされていないだろうな?」
「何もされていないよ」
「本当だろうな」
「本当よ。何? 何かあったほうがよかった?」
「阿呆なことを言うな」

 保は眉間に皺を寄せながら「コーヒー淹れてくる」とカウンターの内側に姿を消した。

 リンドウはいつもの定席に向かうと、ソファに身を沈めた。夜を明かした疲労が、ずっしりと芯まで染みている。小さな嘆息の後、そっと目蓋を閉じる。
 その呼吸が規則正しい寝息に変わったころ、キリマンジャロを手にした保が席にきて、そっと黙ってテーブルにカップをおいた。そして、リンドウの正面の席に座り、自身もそっと背もたれに身体を預けた。

 見れば、店の表に舞う白いものがある。
 
 蛇女の先導ではない。当人は未だ店内で茶を啜っている。
 海中に舞う珊瑚の産卵が、これに似ていると聞いたことがあった。そんなことをぼんやり思いおこしながら、保は事の顛末をコーヒーと共に喉の奥へ流し込んだ。

 リンドウの寝顔を見ながら、保は厳しい表情で二年ぶりの二人の再会を思う。


 これで、三竦さんすくみがまた動き出す。
 眉間に皺を深く刻むと、保はやはり大きな溜息を吐いた。




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