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第一章 壱珊瑚
第3話 サルスベリのシノノメ
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寒い、と思ったのも道理で、窓の向こうには雪がちらついていた。
端から白くなったフロントガラスに温風を吹きつけ、視界を邪魔する曇りをとる。降雪に気付いたとたん、背中に冷気が這い上る。ふるりと一つ身震いして、リンドウはドリンクホルダーに置いていた缶コーヒーを手に取り、一口含んだ。何時の間にやら、こちらもすっかり冷めている。ぬるい苦みに吐息を漏らす。
山の暗さを背景に、白い粉雪が舞い飛んでいる。ぼんやりとした影が、まるで羽虫のように後方へと飛んでゆく。つまりは、それほどに風が強いのだ。
冬の冷風は、鬼の心をも硬くするものなのだろうか?
ふいとそんな事を思いながら、リンドウはつまらない事を思ってしまったものだと、ふるりと一つ頭をふった。
冬の寒い日は、どうしても藤堂のことを思い出す。最後に別れたのが、一昨年の雪の大晦日だったからだ。
普段は努めて思い出さないようにしているのに、どうしても五感に引き摺られて記憶は揺さぶられる。
あの日の藤堂は、常とは違う、切実な目をしていた。頑なな眼差しに、頑なな声だった。
雪の中、南禅寺の水路閣の足元で、掴まれた右腕の痛みと、引き寄せられた懐中の熱。重ねられた唇の激しさは、忘れようとして忘れられるものではない。
真摯だったのだ、あの日の藤堂は。
サイドミラーへ視線を向けた。つるりと、肩から長い髪が零れ落ちる。指先でそれを背中に流す。
長い、長い髪がリンドウの首筋を嬲ってゆく。
本当は、髪を伸ばさないほうが良い。玄武様に捕まりやすくなるから。だから二年前のあの日、藤堂の手が触れたリンドウの髪は少年のように短かった。
168、という身の丈は、女の身であれば決して低い方ではない。だが、190近い藤堂の身であれば、鬼の威力がなくとも、その腕からは逃がれられはしなかったろう。
(何故逃げる。何故今更拒むという)
藤堂の言葉には、困惑、焦燥、思わぬ裏切りに対する悲哀――そんな感情がみっしりと詰め込まれていた。だがリンドウは藤堂の求めに応えられなかった。理由も言えない。それが藤堂の激情を更に駆り立てた。
藤堂は、真剣にリンドウから答えを引き出そうとしていた。
だのに自分は――……。
苦い物を噛み殺しながら、リンドウはウィンカーで左折を指し示し、側道からの後続車を視認しながら名阪国道を降りた。伊賀上野まではもう間もない。無意識のうちに右手で顎のあたりを覆う。ついと人差し指で自身の唇をなぞる。考え事をしている時の癖だった。無論、考えていたのは子鬼の持ち込んだ件の娘のことである。ふ、と、ああいけないと気付いてステアリングを握り直す。
片手運転はいつも保に注意される。が、一度ついた癖というものはなかなか抜けないものだ。意識して気をつけていても、ふとした瞬間に零れ出る。厄介なものだ。
リンドウが所有する国産の愛車は人からのもらいもので、ずいぶん型も古い。要所要所にガタがきている。それでもなんとか五年をやりくりするうちに、ふいと愛着が沸いた。どんなものでも人肌に馴染めばかわいくもなる。なるべく長く保たせたいと思ってはいるが、如何せん機械の寿命を延ばす術は持たない。
リンドウはふっと欠伸を噛み殺しつつ、助手席に目を向けた。そこには子鬼が座っている。店のソファに腰かけた時と同様に、居心地の悪そうな様子だ。
本来、この子鬼なら自力で地脈を通って移動すれば、船岡山から伊賀市中までなぞ、ものの数分で渡れるに違いない。しかし、リンドウは人の肉の身を持っているので、そうも行かない。結果として車での移動につきあわせることになった。
子鬼は、窓の外へと視線を投げていた。自然リンドウには後頭部を向けた状態になる。その形のいい丸い頭をひとしきり視線で愛でてから、リンドウは子鬼の視線が追う先に目を向けた。僅かに雪が舞っている。
己の子がいれば、こんな風な気になる物だろうか。
それが鬼の子であれば……?
そう思って、思った自身に嗤った。そんな訳がないと一番よく知っているのは己だろうに。
側道で待っていた信号が変わる。ゆっくりとアクセルを踏みながら、足元を意識する。珊瑚の下駄を、自身が履いているような錯覚を覚える。ゆっくりと慎重に右折する。
「――ところで、その珊瑚の下駄の娘だけど、名前は何ていうの?」
(シノノメ)
「シノノメ、ね。ずいぶんと美しい名前をもらっているのね、その子」
(うん。ねえちゃん、本当に綺麗なんだ。――着物は緋。髪は茜。唇は椿。爪は薔薇水晶)
「そして、素足には珊瑚の下駄、か」
(そう)
――美しい、人外の、鬼ではないもの。
その娘の素性については、いくつか想像できる候補がありはするのだが、今ひとつ、どれも心象としてしっくりとこない。
珊瑚の下駄、というのも聞いたことがなかった。
耳に聞く印象は美しいのだが、そもそも下駄とは木製のもの。では工芸品か何かなのかとも想像してみたが、それもまたしっくりこない。
間もなく車は市中と思しき近辺に乗り込んだ。踏切を越えてすぐに右折。ややあって子鬼が(あそこ)と指差した。
学舎と思しき建物の隣に、古い門構えがある。
そこが目的地の崇廣堂だった。
ありふれた街中にうずもれているが、中に籠る気の、冷えた艶やかさが凄まじい。その前を通り過ぎ、ややあって現れた駅前の市営駐車場に車を停め、リンドウと子鬼は崇廣堂の裏手に回った。
通常、崇廣堂の門扉は閉ざされている。子鬼の手引きで、リンドウは裏手にひっそりと立ち枯れていた柳の樹の下に立った。
(ここの柳と、中のサルスベリは根で触れてつながっている。これを辿れば、地脈を使って中にもぐりこめるし、地脈に影を残しておけば、人には見えない)
子鬼の言葉の端々に、じっくりとした重みがある。己の在所に戻ったからか、本来の器量が顔を出しているらしい。やはり徳が高いようだ。
リンドウも、墨書きした書面を肌身につけていれば、人から姿を消すことなど造作もないのだが、鬼の在所で鬼の作法に従わぬも無粋。大人しく子鬼のするように従う。
示されたように柳に掌をつけ、目を閉じた。
ふと、冷えたものが首筋をなでた。
ゆっくりと目を開ける。
ふわりと、漂うようなものがある。
緋。
緋色だ。
鮮やかな緋色のサルスベリの花。その隙間に、赤い美しい少女がいる。
リンドウは静かに息をのむ。
確かに鬼ではない。人でもない。それよりも、もっと美しく、禍禍しく、果てしなく尊いもの。
つと、視線が娘とあった。血赤の眼から伝い落ちた青く透明な涙が、白い頬を濡らしている。
(――誰?)
高い。高い声だ。まるで水晶の欠片が擦れ合うような。そんな声だ。
これは、凄い。リンドウはあまりの驚きから、変じて呆れ返ってしまった。こんなモノとはなかなか遭遇しない。
(マダラのリンドウだ。船岡山から呼んできた)
横から子鬼が告げる。リンドウは黙って自分の傍らに立つ子鬼を見下ろした。この子鬼はリンドウの呼び名を知っていた。昨日はそんなこと、おくびにも出さなかったというのに。
――やはり、鬼は危うい。
冷えかけた背中の感触を意識の外へ追いやり、リンドウは二つの人外の様子を探る。
娘と子鬼とが視線を交えている。子鬼は静かに見上げるきりで、娘もまた見下ろすきり。その血赤の眼からは、絶えず青い雫がこぼれる。泣きやまぬも降りぬも本当のようだ。
(シノノメよ。話してはくれんか。珊瑚の下駄の片割れの心当たりを)
娘は、暫く黙って子鬼を見ていたが、ふいと目蓋を閉ざして背を向けた。そのまま姿を消す。
「飛んでいったの?」
リンドウが問うと、子鬼は首を横に振った。
(いや、姿を薄くしただけだ。気はそこにある)
ふうむ、とリンドウは腕を組む。随分とサルスベリに馴染んでいるようだ。これは随分と長くこの枝にとどまっていると見ていいはずだ。リンドウは一つの結論に至る。
(見ての通りだ、マダラのリンドウ。シノノメは何も語ってくれない)
子鬼は小さく嘆息すると、(一旦ひこう)と、リンドウの手を握った。鬼の強い手にひかれ、次の瞬間には柳の下に出ていた。
崇廣堂の裏手に戻ると、子鬼は再び細く高い溜め息をこぼした。
(というわけで、どうしたらいいのか、さっぱり見当がつかない)
「そのようね」
リンドウも溜め息をつき、「で、」と腕を組みなおした。
「――それは、塚を蹴っていたヒトの子の肉体じゃないの?」
子鬼がふいと目を丸くし、次いで、にいと口の端を赤くもち上げた。
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