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第一章 壱珊瑚
第2話 カフェーにて
しおりを挟むその時、ふっと、リンドウの首筋をぬるい風がなでた。はっと腕時計を見る。眉間に皺が寄る。いけない。刻限がまずい。
リンドウは慌てて顔を上げた。
「君。そろそろ玄武様がここを通る時刻なの。このままここにいてはまずいから、近くにある店に行くわ。そこでなら上手くやり過ごせるの。悪いけどついて来てくれる?」
子鬼は小さくうなずくと、リンドウが差し出した手をぎゅっと握った。リンドウですら、思わず「うっ」と体の芯を固くして身構える。鬼の子の手の力は、覚悟していても、いつも想定しているよりやや強い。痛くないと言えば嘘になるが、堪えられぬほどでもない。
手を繋いだまま、ひゅうい、とリンドウが口の中で息を飛ばす。すると、周囲の空気がぐんにゃりと圧縮された。子鬼の目が丸くなる。景色が潰され、次の瞬間には引き延ばされる。
空気が伸びて視界が落ち着いた時には、二人、リンドウの馴染みの店の前に立っていた。
それは、古い銭湯を改装したカフェーである。時刻も時刻であり、店の中からは橙のあたたかな光がもれていた。
慌てて子鬼の手を引いて中に入る間際、ふっとリンドウの髪の横を白い光が過ぎった。「ぐっ」となりながら、ぎりぎり髪の先を嬲られるのを回避する。
あれは玄武様の通りの先導を務める蛇女の鱗だ。間一髪をやり過ごし、ふぅと息を吐いたところで、カウンターの内側に立つ店主と目があった。店主はそのままリンドウの連れに目をとめ、「ははん」と訳知り顔で笑った。
「リンドウ。お前また鬼に惚れられのか?」
「ふざけている場合じゃないのよもう! ――今日はさすがに私も焦ったわよ」
店主は肩を竦めた。その様にリンドウはむっとした顔をする。しかし、店主がそれを意に介する事はない。慣れ合い過ぎると無礼とじゃれ合いの境界は淡くなる。その典型だ。
と、店主は壁にかけられた時計に目をやる。この男、童顔の部類だが、決して若くはない。笑うと目尻には年相応の皺がよる。刈り上げた襟足がこの季節には寒々しく映る。
「お前、蛇女に行き合わなかったか? けっこうギリギリの時間だぞ」
「鱗には頬をなでられたけど――まぁ多分大丈夫。だめだったら墨と紙を貸してちょうだい」
「お前、いつかみたいにまたこの店を圧縮するつもりか?」
「私だって玄武様は恐いのよ。蛇女はすぐに告げ口するから」
「だったら鬼たちの面倒ごとなんか引き受けるなよ。そもそも夜歩きを止めればいい」
「そうも行かないのは知ってるでしょ? 目連の爺さんと盆踊りを一緒にやった時からの約束なんだから」
「律儀だねぇ」
「好きでやってるわけじゃないけどね」
天井を仰いでから、リンドウは店内をちらりと見回した。自分達の他に客はない。店主に迷惑をかける事はなさそうだった。
店主に促され、二人は奥の定席に腰を下ろした。
二人掛け用のその席はソファも柔らかく身体の半分以上が沈みこむ。この後に他の客が入ってきても目立つ事はないだろう。店主がそっと差し出したメニューには、裏にリンドウの墨書きが入っている。これをテーブルにおいた段階で、他の客からは視えなくできる。簡易結界だ。
見ると、正面でソファに沈み込んだ子鬼がきょろきょろと店内を落ち着きなく見回していた。突然ヒトの店に連れ込まれて、ソファに沈められたら、それは挙動不審にもなるだろう。少しばかりかわいげがあっていいなと、リンドウは意地悪く笑った。
「急かしてしまってすまなかったわね。話を聞きましょうか」
(ああ、はい)
温かな色の照明が、子鬼の額を照らす。その額――つまり白毫をいただくべき位置が、白く輝いているのだ。
お、と思わず喉を鳴らした。子鬼のなりだが、存外徳は高いようだ。先に推し量っていたより余程力のある鬼だという事である。
徳の高い子鬼の持ち込んだ「困ったこと」である。これは相当に重い話かも知れない。リンドウは我知らず居住まいを正した。
気をまとめるため、適当に気を散らす。逆説的に聞こえるが、そうとしか表現のしようがない。師匠方からそう教わり、わからぬままそのままに作法を身に着けた。師匠方も言葉では上手く説明が出来ぬと言い、リンドウ自身も言葉ではうまく説明ができぬまま覚えたから、恐らくは次代に伝える時にも言葉では説明できずじまいだろう。
溜息を零しながら、リンドウは店内を見回す。コバルトブルーと卵色、それからサーモンピンク、大体がこの三色で染められたタイルで、店の壁面は覆われている。
馴染んだ場所の気配がある。
す、と息を吸い、改めて子鬼に向き直った。
「――さっき、あなた珊瑚がどうのと言っていなかった?」
(はい。珊瑚の片割れを探してほしいんです)
「片割れ?」
小鬼はこっくりと頷いた。
子鬼は自らを、伊賀の崇廣堂に棲まう者と語った。正しくは、その庭樹のサルスベリに仮宿しているのだという。
藤堂とは、そこで開催された落語会を聴いていて知り合ったそうだ。藤堂は隠に棲む。隠はそもそも伊賀と近い。
そのサルスベリの枝に時折飛んでくる娘がいる。子鬼よりやや年長で、冬でも緋色の絽の着物をまとっているのだそうだ。無論人ではない。しかし鬼でもない。月の綺麗な夜を選んで飛んでくるというのだから、まあ粋人ではあるのだろう。藤堂も交え、三者は親しく付き合うようになったらしいのだが、娘がある日枝に腰かけたまま泣きやまぬようになってしまった。
子鬼が訳を尋ねても応えず、藤堂が聞いても首を横に振る。しばらくねばって、ようやく、常にその足に履いていた珊瑚の下駄を片方失くしてしまったと答えた。
何処で、という心当たりを尋ねても存ぜぬの一点張り。
それから娘は動けぬと言って枝から離れて行かない。
子鬼は娘が嫌いなわけではないから離れて行かぬのは一向に構わないのだが、泣いているのを放っておくのも忍びない。それでリンドウになんとかならぬものかと相談を持ち込んだ――というのが顛末だった。
「――それで、藤堂から聞いて、わざわざこんな遠方まであなた一人で飛んできたの?」
(そう)
「藤堂のも、その娘とは知己なんでしょうに……自分が直接出向いて来ないなんて、さては怠けたな」
(いえ、じいちゃんは、今腰を痛めてて)
「腰?」
(近所の子供が戦いごっこといって、塚を蹴ると言って泣いていました)
唖然としてから、リンドウは「はああ」と盛大な溜息を吐いた。
「……藤堂の権威も地に落ちたな。気の毒に」
子鬼は不安そうにリンドウを見上げる。
(それで、なんとか助けてもらえませんか?)
リンドウはふぅと溜め息混じりに笑った。そして立ちあがった。
「ここで話を聞いているだけでは埒があかないからね。行くわ。藤堂の見舞いも兼ねて」
子鬼はほっとしたように笑うと、無理な道中だったのだろう、こてん、とソファに首をおいて、そのまま寝入ってしまった。
「おや、寝たか?」
店主がひょいと首を突き出し覗き込んできた。
「気張っていたんだろうなぁ。かわいらしい寝顔じゃないか」
店主はことんと静かにテーブルへ茶碗をおいた。キリマンジャロ。メニューにはないのだが、リンドウの我儘で常備されている。
「ありがとう」
「いや。で、明日から早速行くのか?」
「ええ。さすがに藤堂が気になるから。あれが直接出向いて来ないって言うのも気に掛かるし、確かにあの辺りは最近何かと騒がしいみたいなのよ」
「それだけか?」
揶揄するような言葉に、リンドウはかすかに唇を尖らせた。
「探るような言い方しないで。あれでも古い馴染みなのよ。心配ぐらいはして当然でしょう?」
「ただの知り合いなら俺も口出ししないけどな」
ぱん、とリンドウは掌を打ち鳴らした。
「もうこの話はおしまい。あなたとこれをはじめたら終わらないし、こじれるばかりじゃない。私がもう飽き飽きしてるの、知ってるでしょう?」
「だからと言って黙れる事でもないぞ」
「保」
思わず店主の名を呼ぶと、「ふ」と笑みを零しながら店主は銀の丸トレーで自身の肩を叩いた。
「これでも大事なんだからな、お前の事は」
「――うん。わかってる」
俯きながら答えるリンドウに、店主は「うんうん」と笑みを浮かべて頷いて見せた。
「この子鬼、かわいらしい顔をしているしな。肩入れしたんだろう」
童顔の店主は、ぽんぽんと子鬼の頭をなでると、ソファに腕を預けてしゃがみこんだ。どの道、店内に客はもういない。振る舞いにも遠慮がなくなって来た。
「まあね。子供はみんなかわいいものだから」
「自分の子なら、なお一層かわいいだろうよ」
意味ありげな言葉に、「そうね」とリンドウは小さく返す。
あまり、彼とはこの話はしたくなかった。が、保はその先を続ける。
「――なあリン、お前、本当に誰の子なら産みたい?」
店主が向ける視線は、真っ直ぐで、わずかばかりに熱を孕んでいる。リンドウはキリマンジャロをすすっていたのを止めて、ちらと目をやり、ふっと笑った。
「少なくとも、玄武様は嫌だな、恐いから」
リンドウが答えをはぐらかしたいのは、保にも知れている事だ。「そうだな、怖いもんな」とうんうんと小刻みに頸を振って見せて笑った。
と、二人の視線が店の表へと導かれる。玄関扉の前を、ゆったりと、白く輝く大きなものが通り過ぎて行く。
それこそが、件の怖い物だ。
二人は思わずソファの中に身を沈めて、息を押し殺すお互いの顔を見て、もれる笑いを噛み殺した。
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