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第一章 壱珊瑚
第1話 リンドウ、子鬼と邂逅する
しおりを挟むいつもの曲がり角を曲がったところから、なにやら背中にこそばゆいものを感じたので、ふいと振り返ると子鬼がいた。
小鬼ではなく子鬼である。幼いのだ。
リンドウは、ひとつ瞬いた。
大きさは人の子ほどである。着る服も現代の人の子のものと同じだ。時代によって鬼の着ているものも、もちろん変わる。鬼は人の世を反映する。すこしおどおどとしているのは、人の子も鬼の子も変わらぬ。何か言いたげに自分の後をついてくるのも、同じことだ。
じっと見つめていると、子鬼もじっくりと見つめ返してきた。おどおどとしているのに、眼差しは強い。ちぐはぐだ。しかし当然と言えば当然だ。視線を先に逸らした方が負けだという事を、互いに理解しているからこうなるのである。
鬼を相手にして雌雄を決すると言う事は、かほどに重い。
第一の邂逅を前にして油断をする愚か者は、鬼の生きる界隈にはいない。事によっては命にも関わるからだ。そしてこの子鬼は、恐らくは頑固だ。
ふぅと思わず零した吐息が、白い氷粒となって中空に散る。
――これは、折れてやらねば長引くな。
そう判断を下し、仕方なく瞼を一度伏せた。自分は別に負けても構わない。何故なら自分は鬼ではないからだ。そこに拘泥する理由はない。
それから、リンドウははっきりと瞼を開いた。
冬の京の市内の底冷えは、今も昔も変わらず肌に刺さる。
市内と言っても船岡山辺りは、もう北西の外れと言っても差し支えない。堂々と京です、とは若干言い難い部分がある。東の外れでも堂々と京を自称はしないだろう。伏見辺りともなればもう違う。つまりは洛中外の話だ。
己等は、京の中央のぐるりを取り巻く存在だ。決して内には入り込まない。少なくとも、リンドウはそう判断している。中央は未だ守りが硬い。異質を受け入れぬ頑迷さがあったればこそ、千年の硬直を護れるのである。そこの良し悪しは、この際おいておくが。
もう一度ゆっくりと瞬きをしてから、リンドウは、やはりゆっくりと口を開いた。
「どうしたの。何か用?」
伝わり損ねぬように、リンドウはなるべくゆっくりと問うて見たが、子鬼は、もじりもじりと半ズボンの裾をにぎりしめるばかりで答えない。まあ仕方がないか。子供に単刀直入で物を問うても、すぐに答えなど返ってくることはない。そこがいじらしく好ましいのも、また事実なのだが。
そこで、ついリンドウに稚気が出た。
わざとコートの裾をひるがえして子鬼に背を向けた。かつかつと踵を鳴らして子鬼から遠ざかる。歩き去ろうとしているリンドウの背に(ああ)と、音にはならぬ声が届いた。それは耳ではなく、リンドウの魂に直接響く。高く、そして存外に上品な吐息だった。
にま。とつい笑ってしまった。
子鬼に対して意地悪なことをしている自覚はあるが、ついついあの眼差しに煽られた。だからお前も悪いのだぞと、リンドウはいやらしく発想した。
か、と突然踵を鳴らして立ち止まり、ぐるりと踵を返して子鬼のところへと駆け寄った。それは尋常ならざる速度で為された。子鬼の目の前まで跳ぶようにして一気に距離を縮める。
急なリンドウの行動に、子鬼はびくり身体を固めて、一瞬逃げ出しそうなそぶりを見せたが、リンドウとて鬼に対するならば歴戦のツワモノである。視線で捕らえてしまえば逃がしはしない。
リンドウは、いたいけな子鬼の細い身体の前にふわりとしゃがみこんだ。緑のコートの裾がアスファルトをなでるが、別段気にもならない。
視線と視線が近距離で絡む。
ぞくりと冷たい愉悦が胸の内を這い上がる。
ああ、この丁々発止の緊張感が――この上なく好きなのだ。リンドウは、己のその歪んだ性癖に笑った。そして実際にも子鬼に向かって笑って見せた。
「どうした。私に何か言いたいんだろう?」
(ある、あります)
口の中でしばらくごにょごにょとやっていたが、もじもじしながらも子鬼はリンドウに視線を合わせている。リンドウがわざと雌雄を決した事を理解しているから、警戒を解かないのだ。賢明な子だ。思わず感心する。
子供とは言え鬼である。その視線の力は強い。呑まれたら食われるのが相場だ。こちらも油断しているわけではないが、皮肉なことに、相手がそもそも食う気でかかってきているわけではないのが面白い。
子鬼は、そこでようやく腹を括ったらしい。きっとリンドウの目に逼迫した視線を向けた。
(あの、困ったことがあったら、この通りを歩く緑のコートの、額に赤い印があるヒトの後をついていきなさいって、じいちゃんが……)
リンドウは小首を傾げる。
「じいちゃん? 桑名の翁か? それとも伏見の伯王?」
(ううん、隠の)
「……ああ、藤堂のか」
――随分と久しぶりの名が出たものだ。
リンドウの胸の内に、ざわりと波が立つ。とくり、とくり、と動揺が湧く。久しく考えないようにしていたのに――思い出してしまった。
胸を押さえて、ゆっくりと一呼吸する。
あの鬼は、炎のように耀く瞳をもっている。人を食ったような笑みをその表情に貼り付け、その冷たい指先で不躾に軽率にリンドウの頤に触れてくる。最後の別れ際にあれが言った言葉を思い出す。
――いいか、次に逢った時には――
耳の奥に残る、腹の奥から響くような低い声で紡がれた誓約に、リンドウは俯くと、かすかに頸を左右にふった。
今はそんな事を思い出すのはよそう。
リンドウこそ貼り付けたような笑みを頬に浮かべて、子鬼を見やった。子鬼は、ただじっと真っ直ぐにリンドウを見詰め返してきた。
「私は久しく藤堂のには逢っていないのよ。あれは息災にしているの?」
(うん。ぴんぴんしてる。こないだの天神の祭りでは鬼のフリをして混じっていたよ)
その言葉にリンドウは思わず呆れた。
「鬼が人の祭りの鬼のマネゴト? ……相変わらずの酔狂をしているんだな、あいつは」
苦笑してみせると、子鬼はほっとしたように、にこりと笑った。
(うん、じいちゃんは相変わらずだよ)
「それで、どうしたの? 何を困ったことがある?」
リンドウの問いに、子鬼は、さっと表情をくもらせた。
(――珊瑚を、)
「珊瑚?」
(珊瑚を一緒にさがしてほしいんだ)
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