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⒑ 〈風琴の樹〉
33.蓮華
しおりを挟む見あげても、見あげても果てのない、金緑色にきらめく巨大樹が、そこにあった。
ルーフルー バールファー
ずっとずっと「読み」続けてきた風琴さまの〈音〉が、やさしく大きく、その広大な空間に響きわたっている。――あれこそが〈風琴の樹〉なのだ。
そばにきて直接見て、はじめて理解した。虹色に光る強い風が、〈風琴の樹〉のうろに、わあっと飛びこんでゆく。ああ、樹と風の出会った喜びの〈音〉だ。そしてそんな〈風琴の樹〉の根元からは、さらさらときれいな水が、こぼれおちていて、沢を作り、そこから小さな流れを生んで、蛇行して小川になっている。これが、あの川の源流なのだ。
だけど、そんな美しい景色を台なしにするように、大量の怨墨が漂っている。
〈風琴の樹〉に吸いこまれた虹色の風が、ふっと、ある場所に流れこんだ。〈風琴の樹〉の根本近く。そこには、大量の黒いもやを、ごちゃりと身体にまといながら、「うふふふふ」と笑う怨墨の本体が立っていた。そして、そのすぐ足もとに横たわる、巨大な顔の骨。虹色の風が、流れこんだその骨を、〈竜骨の化石〉だとカイトは直感した。
それは、獣の頭蓋骨のようだった。左右の、こめかみから生えているのは、角だ。それから、その喉元に、ひとつだけ逆さまに生えた虹色にかがやく、こぶし大の鱗。ミズルチと同じ逆鱗だ。そこから虹色の風は、こぼれでている。まるで風琴さまを守るように。
しかし、今は、それどころではなかった。怨墨本体の頭上高くで、今まさに、ウタマクラが、墨のかたまりに飲みこまれようとしている。そこに「ぴいいいいっ」と、さけびながら、ミズルチが飛びこんでいった。
「ミズっ!」
カイトがさけぶと同時に「どきたまえ!」と後ろから裏返った声がさけんだ。見れば、まるで大砲のように湯葉先生の肩に担がれたシネラマが、両手に石鹸玉銃をかまえている。
「さあ行くんだ、墨掃除のバッソくん! 大切なミミズのお姫さまたちを救いたまえ!」
ばばばばば! と、石鹸玉が、銃から大量に連射される! しかも大きい!
「これサイズ調節もできるのか⁉」
湯葉先生の驚き顔に、シネラマは「ははん、僕を誰だと?」と、ほこらしげに胸をはる。発射された大量の巨大な石鹸玉が、見るみるあたりの怨墨を包みこんでゆく。それを見た怨墨の本体が、その怒りを、あらわにするかのように、全身から黒いもやを、吹きだした。
「ななななんなんですか! その奇妙な腹立たしいものを吐きだす男は! その装置は!」
「オウ! どうやら想定外のガイ! 効果テキメンだったようだね。さすが僕の発明!」
「ひゃっほう」と、喜んだシネラマだが、それどころではない。カイトはかけだした。
「ミズ! 早く、そこから出てくるんだ!」
「ぴいいいっ」
黒いもやの、かたまりのなかから、ウタマクラを抱えたミズルチが、飛びだしてきた。いつのまにか、傍にかけよっていたバッソが、「ミズルチ!」と、さけぶ。「ぴいっ」と、返事をしたミズルチが、バッソのところへ急降下し、そのうでのなかに、ウタマクラを落とした。そして、自分はカイトの下へ一直線に飛び、うでのなかへ飛びこんできた。
「ミズ!」
「ぴにゃっ」
ミズルチは、ふるえながらカイトの顔に頭をすりつけた。カイトは泣きそうになりながら、ぎゅっと抱きしめる。怨墨のなかにつっこんだ、ミズルチの全身は墨だらけで、身体中の鱗が、黒く染まってしまっている。カイトは、はっと自分の手を見た。ミズルチを抱きとめた自分もまた、墨だらけになっている。でも、そんなことはどうでもよかった。こんな真っ黒になるまで、あきらめずに、ひとりで飛んで、ウタマクラを追いかけて、ちゃんと怨墨から救いだしたミズルチが、健気で、いとおしくて、カイトは泣きそうになりながら「よくがんばった、えらいぞ」と、ぎゅっと、うでに力をこめた。
「この墨狩りたちめ! よくも邪魔をしてくれましたね! 絶対に、逃がしませんよ!」
怒りをあらわにした、怨墨が、ごうっと、バッソとウタマクラに墨のうでを差しむけた。しかし、ウタマクラを抱きとめていたバッソの両うではふさがっている。まわりを見ても、みんなそれぞれが、ひっきりなしに襲ってくる怨墨を、つかまえるので、精いっぱいだ。
「シネラマさん! 石鹸玉!」
カイトがさけびながら、ふり返ると、湯葉先生の上で情けない顔をして、かちかちと銃を撃ち続けるシネラマが「液ぎれだぁ! すまなぁい!」と悲鳴をあげた。その下で湯葉先生が「馬鹿! 役立たず!」と、めずらしく率直に、罵っていた。
「バッソさん!」
目の前で、バッソとウタマクラに、怨墨が襲いかかる。だめだ、まにあわない! しかし、「来い!」とバッソは、さけび、ウタマクラを、きつく抱えこみながら、わざと自分の顔を前に、突きだした! とたん、ぎゅうううん! とお面の絵の口に、怨墨が吸いこまれてゆく! それを、すぐ間近で見ていたウタマクラは、思いだしていた。そうだ、バッソは言っていた。怨墨は、人間に憑りつくときに、口から入りこむから、紙鉄砲用の紙で仮面を作っておけば、それで怨墨を、とらえられるのだと。
真っ黒に染まったバッソのお面が、ひらりと、その顔からすべりおちる。
まっすぐな黒髪に、真っ白な肌。赤いくちびる。この世のものとは思えないくらいに美しい、まるで伝説に聞く聖女か、白雪姫のような顔が、激しい怒りをこめて、怨墨を睨んでから、苦し気にウタマクラを、見おろした。
ウタマクラを抱きとめるバッソのうでに、ぐっと強く力がこめられる。ウタマクラは、苦し気に、だけど、健気に、ほほえんだ。そして、バッソのほおに、そっと指先でふれた。
「――ありがとう……でも、あまり近づかないで」
「ウタマクラ」
「墨が、うつったら、いけない、から――」
バッソは、ほおに触れられた指を、ぎゅっとにぎりしめた。
ウタマクラのほおや、ひたい、それに、くちびるは、墨で真っ黒の、まだらに染められている。〈竜の一族〉の身体は、怨墨に憑依されやすい。これは、ほかの人間のようには、墨抜きできないということだ。それほどまでに、墨が身体にしみこんでしまうのだ。
バッソは、あわててヒップバッグのなかから、紙鉄砲を取りだすと、広げてウタマクラの顔にあてた。しかし、うっすらとしか、墨を吸いとれない。
「くそっ……くそっ!」
バッソは、白雪姫のような、きれいな顔に、怒りをこめて、ゆがめた。ぎりりっと音をたてて、歯ぎしりしたのが、カイトの耳にもとどく。しかし、そんなふたりを前にしても、カイトには、どうすることもできない。カイトだってミズルチの身体を、広げた白紙で、ふいてやるくらいしかできない。〈嗅感葉〉のみんなや湯葉先生は、あきらめずに怨墨と戦っている。シネラマだって、あんまり役に立たないまでも、石鹸玉でつかまえた墨を、邪魔にならないよう一か所に集めたり、時計型通信機で、どこかに一生懸命、連絡したりしている。自分だけだ、どう動いていいのか、わからなくて、おろおろしているのは。それが悔しくて、腹立たしくて、怨墨の本体をにらんだ。
母さんと、まちがえられていただなんて、信じられない。白い服だけど、白衣じゃない。あいつが着てるのは白いスーツだ。短い茶髪といったって、あいつはツンツントゲトゲだけど、母さんのはウエーブヘアだ。メガネだって、母さんのメガネは、つるがほそい銀のかっこいいやつなんだ! ツナグ兄ちゃんが誕生日プレゼントに買ったものなんだ!
笑っているのか、怒っているのかも、よくわからない顔で、怨墨の本体は、もう、ぐにゃんぐにゃんに、ゆがんで、宙に浮いている。その足もとでは、墨につかまった〈竜骨の化石〉が、同じように、宙に浮かされて、少しずつ墨に染まりだしている。
と、うでのなかから、ミズルチが、ふわりと飛びだした。まるで、やわらかいなにかが、すりぬけたようだった。くるりと、その場で回転して、いつもみたいに、上手にホバリングしている。そして、ミズルチは、カイトの顔をじっと見た。
ミズルチの、青みがかった白銀色の鱗と、同じ色の翼は、墨で真っ黒になっている。ルビーみたいにきれいな赤い両目で、ぱちぱちと瞬きして見せると、「ぴにゃあああ」と、うれしそうに一際高い声で鳴いて、ばっと背中をむけると、ウタマクラのそばに飛んだ。
ミズルチの飛んだあとには、きらきらと虹色の光がこぼれていた。翼から、全身から、虹の光のカーテンみたいなものが形作られてゆく。それが、パキパキと凍りつくように、何重にも重なっていって、虹の花のようになった。そして、ミズルチは、バッソのうでから、やさしくすくいとるように、ウタマクラを抱きあげ、そのまま天高く飛びあがった。
羽ばたいたあとに、まるで細い茎のような虹の柱が残る。ミズルチとウタマクラを包みこんでいた虹の花は、まるで、大きなおおきな、蓮の華のつぼみのようになった。
それから、〈風琴の樹〉にむかって挨拶をするように、一度だけ大きくゆれて、ついに、ぱきん、と、音をたてて、虹の宝石の蓮華になって、凍りついた。
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