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⒑ 〈風琴の樹〉
32.バカだ、俺は
しおりを挟むキュウイン博士の心配そうな顔に笑いかけてから、ユミは、よろよろと立ちあがった。そして、近くにあった自分のカバンのなかから、白紙と、ビニールぶくろを取りだした。
白衣が、床に、ぱさりと落ちる。ユミの背中からは、じわりと黒いもやが、立ちのぼっている。それを押さえつけていた、もうほとんど墨に染まってしまっている紙をとりさって、ビニールぶくろのなかに押しこみ、代わりに新しい白紙を自分の背中に、はろうとした。キュウイン博士が、あわててかけより、手伝おうとするも、ユミはそれを制した。
「だめよ、キュウインくん、私から離れて。墨に当たらないよう気をつけて」
キュウイン博士は、顔をいつもより強ばらせながら、「いったい、いつからこんな」と、小声でつぶやいた。ユミは、さみしそうに笑う。
「この研究所は、〈竜の一族〉である、あなたを守るための場所でもあるのに、所員の私が怨墨を出してしまうなんて、最低ね。……こんな姿、息子にも母にも見せられないわ」
「ユミさん」
「カンペキな人間や母親の顔ばかり、してられないのよ。そうありたかったけど」
うす暗い部屋のなか、大型水槽の前で、ユミは、白衣をひろいあげると、それを羽織って、自分の身体を、かくした。
「ツナグを送りだしてしまったことを、後悔しない日なんてない。でも、カイトを残したことを、まちがっていたなんて、思ってもいない。あんな小さい子を、たったひとり、宇宙に出すなんて、ありえなかったもの」
「ああ、そうだとも。君は、なにも、まちがっていないよ」
ユミは、顔をくしゃくしゃにすると、メガネを上に押しあげ、指先で目頭を、おさえた。
「でもね、ツナグのことだって受けいれられない。もうどこにもいないだなんて、あきらめられない。だから夫だって、ずっと勤めていた宇宙基地を退職して、民間の宇宙探査研究所に入りなおして〈薄明光線〉号の捜索を続けているのよ。私ひとりが絶望して、悲しんで、こんな怨墨を生みだしてしまっている。こんなの、カイトに見せたくない……」
「ユミさん」
「でもっ」ユミは、ついに両手で顔を覆って、その場にうずくまってしまった。「カイトの顔を見たら、あの子のせいにしてしまいそうで……それが怖くて、帰れなかった!」
キュウイン博士は片ひざをつくと、ユミのそばで「うん、うん」と相槌をくり返し、その背中を、ゆっくりとなでた。白衣の下で、新しい白い紙が、ごわごわと音をたてた。
「親だもの。ユミさん、君がそう思うのは、とうぜんだ」
「本当は、あなたにだって、こんな気もち、聞かせたくはなかった」
「――ワタクシたち家族に、罪悪感を、いだかせないために、だね」
背中を、小さくまるめたユミに、キュウイン博士は、小さくため息をついた。
この人は、ひとりのお母さんとして、また自分の友人として、どれだけのことを耐え忍んできてくれたのだろうか。そのやさしさを思うと胸が痛んだ。自分ひとりで悲しみを抱えて、でも抱えきれなくて、それが怨墨を生みだしてしまった。それでも人に見せないように、なにを考えているか、わからないような顔をしてきた。八年以上も、ずっと。
その時、キュウイン博士のうでから、ぴぴぴぴっ、と、小さなアラーム音がした。
手首に巻いた時計型通信機を見れば、妻からの着信がきている。
「はい、もしもし」
応答したキュウイン博士の顔を、ユミが見あげる。すると、キュウイン博士の表情が、見るみる硬くなっていった。
「――ウタマクラが、帰ってきていない?」
***
暗い六鹿の森のなか、集団の先頭を走るのはバッソとカイトだ。湯葉先生は、足のおそいシネラマを引きずりながら走っているから、少し前からカイトたちに一足おくれていた。
ちらほらと残されている怨墨の痕跡は、〈嗅感葉〉の少年たちが、教えられたばかりの紙鉄砲を使って狩り集めている。カイトは〈音〉に集中した。ウタマクラと、それからミズルチの。それがカイトにできる、カイトにしかできない一番のことだから。
墨のもや、という痕跡だけでなく、〈音〉という手がかりが、まっすぐに、一か所に吸いよせられている気がした。また、となりを走るバッソの気魄は、すさまじかった。きっと、ウタマクラをさらわれて、本気で怒っているのだ。もちろん、カイトもミズルチのことが心配でたまらない。あんなムチャをして、ケガでもしたらどうする気なんだ。心配と怒りは、心のなかの同じところから、ずんずんと、泉のように湧いてくる。
早く追いつかなきゃ。オレが守らなきゃ。だって、ミズルチはまだあんなに小さくて、脱皮もできていなくて、そうだ、怨墨を鱗に吸いあげてしまうから、いつどんなふうに苦しい目にあうかわからないんだ。助けなきゃ、守らなきゃ、まだ小さいから、だから……。
そこで、カイトは、ようやく気づいた。
――ちがう。守らなきゃなんて、ちがうじゃないか。
思いだすのは、返事のかえらない毎夜の通信。ひとりうつむくカイトの背中に、黙ってよりそって、ぽっかりとあいた胸に抱きしめさせてくれた。祠さまの前で怨墨に襲われそうになったときも、しっぽでたたいて身代わりになってくれた。そうだミズルチは。
ずっと、カイトのことを守ってくれていた。守られていたのは、カイトのほうだ。
走る息の苦しさにあわせて涙がにじみ、喉の奥が、ぎゅっと痛んだ。
そうだ。泣いてちゃだめだ。今度こそ、自分がミズルチを助けないとダメなんだ。
「本当に、俺はダメな男だな」
突然、となりから、バッソがそうつぶやいた。一瞬、ダメだという言葉に、カイトがそう言われたのかと思ったけれど、ちがった。
「え、どうして?」
かけるバッソの顔のおもてで、お面がバサバサとなびいた。そのすきまから、ちらりと一瞬、その素顔が見えた。カイトは驚いて、息をのんだ。
「ためらってる場合じゃなかった。お前が、ミズルチを抱きしめていたみたいに、ウタマクラを、ちゃんと、つかまえておかなきゃいけなかったんだ」
ぎりっと、バッソは歯を食いしばる。
「怨墨が、〈竜骨の化石〉を憑依先として使えるというのなら、その子孫である〈竜の一族〉の身体も同じだろう。今一番近くにいる、あのふたりの身体が、狙われるに決まっている。そんなこと、わかっていたのに――バカだ、俺はっ」
ふりしぼるように、自分のことをなじるバッソが、次の瞬間、高く飛んだ。
カイトが見あげた先に、木々の切れ間があった。そこに、ぽっかりと白く月が浮かんでいる。その切れ間の両がわから、次々に、怨墨のうでが、バッソへと襲いかかっていた。
「バッソさん!」
カイトは、名をさけぶも、走る勢いは止められず、目の前にせまっていた蔦のカーテンに、そのままつっこんだ。そして――
その先に広がっていた光景に、カイトは、言葉を失った。
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