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30:<水曜日> サーモンと菜の花のカレー

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 店の中では、何事もなかったかのように、落ち着いた曲が流れ続けていた。
 あまりに衝撃的な出来事にさらされた楓は、へなへなと壁により掛かる。
 
(閉店前で良かった)

 今の心理状態では、接客もおぼつかない。

「お姉さん、大丈夫? なんなの、あのおっさん!」

 柱の陰から出てきた雛ちゃんは、楓の元上司を非難した。

「大丈夫です。皆さんが助けてくれましたから」

 まだ興奮さめやらない楓を、後ろから染さんが支える。近くで目が合い、楓の頬が熱くなった。

(染さん、また私を子供扱いして……)
 
 食事を終えた田中さんと雛ちゃんは、素早く会計を済ませて店を出ようとする。

「もう閉店だろ。今日は休めばいい」
「そうだよ、お姉さん。元気出してね」
「ありがとう、ございます」
 
 田中さんと理さんが手を振り合っている。いつの間にか仲良くなったようだ。
 
「では明日、三階へ荷物が着くはずだから」
 
 理さんも会計を済ませ、鞄を手にして帰っていった。階段の音が遠ざかっていく。

「楓ちゃん、今日はもう上がって大丈夫だよ」
「平気です。後片付けだけなので、最後まで働かせてください」

 大事な仕事なので、きちんとやり遂げたいのだ。

「あの、染さん。今日は助けていただいて、ありがとうございました」
「怖い思いをしたね。もっと早く出て行けば良かった」
「だ、大丈夫です。十分です。もう、あの人が私を採用することはないと思いますし。私こそ、ご迷惑をおかけしてすみません」
「楓ちゃんは、うちの従業員だから、何度来ようと絶対に渡さないよ」

 嬉しい反面、染さんの言い方に少し恥ずかしさを覚える楓だった。


 ※
 
 翌日も、いつも通り店へ出勤する。
 一階から小さな庭を見ると、淡く色づく桜のつぼみが膨らみ始めていた。もう、すっかり春だ。
 昨日は嫌な思いをしたものの、それ以上に皆が味方してくれたことが、楓の力になっている。

(出会って半年も経っていない人たちなのに、不思議)
 
 あの日、洋燈堂を発見できた楓は、本当に運が良かった。
 店に入ると、染さんはキッチンに大量の鮭と菜の花を並べていた。ヘメンの餌用に分けている部分もある。

「今日のカレーに使うのですか?」
「そう。楓ちゃんは、副菜を二種類お願いね」
「はい!」
 
 今日作る副菜は決めている。この前、染さんから教わった、ジャガイモのサブジだ。
 小さく刻んだジャガイモとニンニクを、油を引いたフライパンに入れて炒め、途中で水を加えて蓋をする。最後に塩やスパイスで味付けして完成だ。
 楓は、塩とクミンとカイエンペッパーを追加した。
 
 その間に、染さんは棚から、マスタードシードやクミンシード、フェンネルシードやフェヌグリークシード、ニゲラを取り出している。
 ニゲラは小さな黒いつぶつぶで植物の種。強くないけれど、ナッツのような香りがする。
 パウダースパイスは、ターメリックやコリアンダーなどを中心に、いくつか合わせているようだ。
 
 楓は二品目を料理し始める。アボカドとトマトのライタだ。
 野菜とヨーグルト、スパイスと調味料を混ぜるだけなので簡単。あっという間に、二品が完成した。
 染さんも朝のカレーを作り終え、試食という名の朝ご飯の時間が始まる。

「今日のカレーには、ココナッツミルクが入っていますね。まろやかでおいしいです」
「うん。ココナッツミルクと魚は相性がいいよね」

 幸せな朝食タイムを終えると、仕事着姿の理さんがやって来た。
 いつもより引き締まった装いだと感じながら、楓は彼を椅子へ案内する。

「おはようございます、理さん」

 挨拶すると、彼はぎこちない動きで楓の傍まで歩いてきた。

「おはよう。昨日のあれは、もう大丈夫なのか?」
「はい。その節は、本当にありがとうございました」
「気にするな。また奴が来たら連絡するように。これからは三階に住むことになるから、俺が撃退する」

 頼もしい言葉をかけてくれる彼は、上着のポケットからメモ帳を取り出し、やや強引に楓に渡した。

「俺の電話番号だ。念のために知らせておく」
「……えっと」
「特に用がなくても連絡していい」
「はあ、ありがとうございます。ちょっと待ってくださいね。私の連絡先も、お伝えしておきます」

 スマホに理さんの番号を入力した楓は、そのまま通話ボタンを押す。すると、彼のスマホから着信音が聞こえてきた。
 画面を確認した理さんは、満足そうに頷いて口元を緩める。

「そろそろ仕事に行かなければ。今日は修了式だから、早めに出る必要があるんだ」
「そうなんですね。では、お仕事は……」
「ああ、今日で最後だ」
「お疲れ様です。いってらっしゃい」

 楓が見送ると、彼は耳の付け根まで真っ赤にしてつぶやく。

「い、行ってくる……」

 いそいそと扉を開けた理さんは、早足で階段を駆け下りていった。

「さあ、染さん。残りの準備を済ませましょう」

 扉を閉めて振り返った楓は、目の前の光景に戸惑う。
 すぐ近くに、呆然とした表情を浮かべ、立ち尽くす染さんがいたからだ。
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