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11:<木曜日> ベジタブルコルマ
しおりを挟む翌週の木曜日、またしても雛ちゃんが現れた。客のいない、中途半端な時間帯だ。
制服を着ていることから、今日も高校を早退してきたのだとわかる。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。また、カレー食べに来ちゃった。今日は、ベジタブルコルマ?」
「はい。クリーミーでマイルドなカレーですよ」
「へぇ、野菜不足だから、助かるかも」
この日もカレーとラッシーを頼んだ雛ちゃんは、カウンターの左端の席に座って鞄から単語帳を取り出す。早退している割には勉強熱心だ。
けれど、単語帳を見つめる彼女の表情は、どこか曇っているように感じられた。
「大丈夫ですか? 体調が悪いとか……?」
声をかけた楓に驚いた雛ちゃんは、慌てて首を横に振った。
「違うよ、至って健康体。早退だから、心配かけた?」
「そういうわけじゃないですけど、元気がないように思えて」
答えると、彼女はパチパチ瞬きして口を開いた。
「よく気づいたね。実は、明日の英語の授業が憂鬱で仕方がないの」
「授業が?」
「そう。今日は早退で逃げたけど、最近英語の授業を休むことが多いから、きっと出席したら当てられちゃう」
机に突っ伏した雛ちゃんは、学教での授業について楓に語った。
「うちのクラスを受け持っている英語の先生、学年主任の厳しいおじさんなんだ。授業では順番に一人ずつ当てていって、ちょっとでも間違えたら、その場に立たされる」
「……それは、嫌ですね」
「でしょ? しかも、次に順番が回ってきて答えられたらいいけど、そうじゃなかったら、授業の間中、ずっと立っていなきゃならないの。おかげで、毎日数人立ちっぱなしの生徒が出る。見せしめだよ!?」
最初は頑張っていた雛ちゃんだが、だんだんと授業が苦痛になり、自分が立つのも人が立たされるのを見るのも辛くなり、授業を休みがちになっていったそうだ。
将来キャビンアテンダントを目指すなら、英語は必須と言っていい。
授業に出られないのは大打撃だ。
「本当は、ちゃんとしなきゃってわかってる。でも、授業のことを考えるだけで、すごく嫌な気分になるんだ。理解できないままじゃ駄目だってわかっているんだけど……あの先生に質問しに行くのも怖くて。下手に接点を持つと、余計に授業で当てられそうだし」
それが平気な生徒もいるし、勉強のために率先して当てられに行く生徒もいるだろう。
けれど、雛ちゃんのように苦痛に感じる子も存在する。
立たせることで無駄に恐怖心や羞恥心を煽り、普通に授業を受けることを阻害する行為は勉強をする上で逆効果だ。
「楓ちゃん、カレーできたよ」
「はい! お待たせしました、ベジタブルコルマとラッシーです」
「わあ、いただきます」
ベジタブルコルマは、牛乳や生クリームで煮る北インドのカレーである。色は普通のカレーよりも少し白めだ。
鍋に油を入れ、クミンで香りづけし、にんにく、しょうが、タマネギを加えて炒める。
ヨーグルトを混ぜ、水分が飛んだら、ターメリックとチリペッパーとコリアンダーを加える。野菜を入れて蓋をして、弱火でぐつぐつ煮込むのだ。
最後に生クリームとバターを混ぜてさらに煮る。
野菜がたくさん採れるので、オススメのカレーだ。
「わー、マイルドー! お兄ちゃんが好きそう」
「……確かに」
「やっぱり、自分で作らない料理はおいしいねえ!」
雛ちゃんは、いつも外で働く家族のために晩ご飯を用意しているそうだ。
皆の帰りが遅いので、平日の掃除や洗濯も、彼女がこなしていることが多いらしい。素晴らしい高校生だ。
無心でカレーを頬張る雛ちゃんに向かって、染さんが言った。
「よかったら、英語の勉強を見ましょうか? 閉店後や休日なら、奥の机を使ってもらって大丈夫ですよ」
奥の机とは、キッチンの外れにある、楓がいつもまかないを食べる机だ。
「そういえば、染さんは、海外を旅していたんですよね。受験英語もできるんですか?」
「うん。英語は割と得意だったんだ」
雛ちゃんの様子を見ると、心を動かされている様子だ。
「でも、いいの? お店の片付けや準備、忙しいんじゃない?」
「最近は、お客さんも増えてきましたが、いつもする作業は変わらないので」
しばらく考え、彼女は言った。
「それじゃあ、お願いします」
こうして、雛ちゃんは、勉強をしにお店に来ることになった。
(受験英語かぁ、懐かしいな)
ちなみに、楓は英語があまり好きではない。
高校時代の英語教師は積極的で明るいタイプの生徒を優遇し、正反対の楓は授業で肩身の狭い思いをしていた。
授業が好きになるか嫌いになるかは、教師の影響が大きいと思う。
雛ちゃんを見送り、その日の夜の営業も終えた楓は、看板を片付けるために階段の踊り場に出る。
「寒っ!」
あっという間に両手が冷たくなる。厚手のコートなしでは厳しい夜だ。
足早に、道の上に置いてある看板を取りに行く。
すると、明かりに照らされた階段の下に男の人が立っていた。
(お客さん……? もう閉店だけど)
声をかけようと思ったが、その前に男の人はきびすを返して去ってしまった。
今度は、もう少し早い時間に来てほしい。
看板を片付け終えた楓は、温かな店内に向けて走る。
(そういえば、さっきの人……誰かに似ていたような?)
そんなことを考えつつ、楓は一日の業務を無事終えたのだった。
※
それから、閉店後に雛ちゃんがやってくるようになった。
机は雛ちゃんが使っているので、楓はカウンターに移動して、夜のまかないを食べている。
「楓ちゃん、お酒は飲める?」
「大丈夫ですよ」
「それじゃあ、今日はちょっと変わったチャイだよ」
雛ちゃんが問題を解いている間、キッチンで作業をしていた染さんは、カップに入った温かなチャイを楓に差し出した。
「ありがとうございます」
一見普通のチャイに見えるけれど、ふんわりとラム酒の香りが鼻腔をくすぐる。
「お酒が大丈夫みたいだから。いつものチャイにダークラムを混ぜてみたんだ」
スパイスとラム酒はよく合った。体がぽかぽか温かくなるので、寒い冬にはもってこいの飲み物だ。
「これ、好きです」
「よかった。メニューに追加しようかな」
洋燈堂では、もともとビールなどを置いているけれど数は少ない。
染さんは、冬場に向けてアルコールメニューの追加も考えているみたいだった。
カレーはどうしても、夏の食べ物というイメージが強いので、染さんも楓も冬に来客が増えるよう色々悩んでいる。
(ターメリックなんかは、風邪の予防にもいいんだけどなあ。肝臓にも優しいし、忘年会シーズンにはいいんだけどなあ!)
にんにくや生姜だって、健康促進に役立つ。受験生の味方!
聞けば、雛ちゃんは高校三年生だという。
今から英語を勉強するのは、少々大変だと思うが……もともと、そこまで勉強ができないわけではないようで、染さんの説明に熱心に頷いている。
単に、授業が嫌いなだけらしい。
まったりくつろいでいると、唐突に店の扉が開いた。
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